4.よく持ちこたえた
オルフェウスは、サンノエルの東方に位置する、大陸の歴史としては比較的新しい時代に興った国だ。
かつてこの土地は、魔物が湧く『魔の霧』に呑み込まれた。それを討伐すべく、南方のユーフェミアから派遣された軍隊が土地に落ち着き、そこへ義勇兵が集まって集落となり、町へと発展して自治を持ったのが始まりである。サンノエルに魔物の被害が少ないのは、前線にオルフェウスがあってくれるおかげでもある。
今回の婚姻にも、そうした義理が絡んでいるらしい。
「えっ、これがウェイン殿下なの!?」
「姫様、コレ呼ばわりはいけませんよ」
オルフェウスへ向かう馬車の中。介添え人としてあてがわれた女中・メイの苦笑に、セレシアは「絵を指して言ったんですぅ」と唇をすぼませてそっぽを向いた。
メイの手に広げられた紙は、サンノエル領内で発行されている新聞の記事だ。隣国の動向を記した文章に男性の似顔絵が添えられている。
問題は、その似顔絵。オルフェウス第二王子と題されたそれは、『獅子王』の名を全身で表したような、立派な髭をたくわえた壮年の男なのだ。
「ウェイン殿下って私より五つ上なんでしょう? で、この記事は四年前。私くらいの歳でこれは……『獅子王』のイメージに引っ張られて適当描いてるんじゃない?」
さてはお姉様、オルフェウスが戦地だというのは方便で、外見で断ったな。
ウェイン・オルフェウス殿下。彼が『獅子王』と呼ばれることくらいは、セレシアも何度か耳にしたことがある。歳は自分より五つ上の二十三。
彼は王族でありながら、十代の早いうちから魔物討伐の陣頭に立っていたという。
その性格を一言で表せば『厳格』。しかしその言葉に含む意味は人によって異なる。ウェインを慕う者はそのまま肯定的な意味を指すが、中には戦場で背を向けた味方をも容赦なく切り捨てたという話もあるくらいだ。
とりわけ後者のような噂は拡がりやすく、果てには『獅子王は殺戮を好む』とも嘯かれていた。表立って殺すことができないからこそ、積極的に魔物を狩っているのだと。
「ふふ。もう半刻ほどでオルフェウスに入ります。答え合わせが楽しみですね」
「私は……別に。どうでもいいかな。そりゃあ、凛々しい殿方の方が嬉しいけれど」
むしろ、自分のような『お飾り王女』を嫁がされた先方こそ不憫だ。即刻愛想を尽かされないかどうかを心配した方がいいだろう。
「……ん?」
ぼうっと窓の外に視線を逃がしていたセレシアは、不意に周囲が夜のように暗くなるのを見た。
まさか。立ち上がろうとした矢先に、馬車が大きく揺れて止まる。
「『魔の霧』だ!!」
「セレシア様はここに!」
御者を務めていた騎士団員が切羽詰まった声で叫んだ。
セレシアは壁に寄り、小窓を薄く開けて外の様子を窺った。しかし、魔物の体は闇に溶けるような黒さをしていてよく視認ができない。辛うじて、狼のような尾だけが見て取れた。
「ぐああああっ!」
外の断末魔に振り向けば、御者が乗客と会話をするための小窓が、べったりと鮮血に染まるところだった。
ひっ、と隣で息を呑む音。
メイはがたがたと震えるのを必死に押し殺しながらも、セレシアを守るように腰を浮かせて、腕で覆うようにしてくれている。
しかし、彼女に武の心得はない。
「やるしか……ないか!」
セレシアは首元や肩回りを邪魔する装飾品のいくつかを引きちぎり、外へ出ようとした。
「いけません、姫様!」
「お願い、行かせて!」
しがみついて離さないメイをどうにか引き剥がそうとしているうちに、また断末魔が起こり、馬車がごんと揺れた。馬が暴れているのか、旋回するように車内が揺れる。だがそれも、いななきとともに収まった。収まってしまった。
「くっ……」
歯噛みしたセレシアは屈みこみ、自分を行かせまいとするメイの頬に触れた。
いつからだったか、『黒騎士』として行動する際に振る舞うようになった仮面の所作だ。
「安心してくれ、メイ。必ず私が貴女を守るよ」
「姫……さ、ま?」
腕の力が緩んだ一瞬を逃さず、セレシアは飛び出した。
表にいたのは、やはり犬や狼に似た姿をした魔物だった。
数は三匹。新たな獲物が現れたことに、奴らはくぐもった音で喉を鳴らした。セレシアは魔物から視線を外さないようにしながら、息絶えている騎士の手から剣を借りる。
「ふっ!」
短く息を吐き、地を蹴る。やはりスカートが重すぎる。遠い間合いからの踏み込み足はできないだろう。
「『星馳電撃』!」
ギリギリまで魔物の懐へ潜り込んで、剣を薙ぐ。星が駆け、雷が奔るが如き神速の一閃は、魔物の腹へと深く沈んだ。
どてっ腹を裂かれた魔物が塵となって霧散したのを確認し、セレシアが剣を下ろそうとした時だった。
『ガアアアアアアッ!!』
「(――っ、後ろ!?)」
振り返ったセレシアの目に、馬車の陰から大口を開けて飛びかかってくる魔物の姿が映った。
しくじった。馬が暴れ出した時点で、方向感覚が狂っていた。『魔の霧』が前方から襲ってきたというのは、最早愚かな思い込みでしかなかった。
虚を突かれた脚は動かない。今から鞭打っても、重たいドレスのせいで避けきれない。せめて受け流さねばと、セレシアは剣を横に構える。
その、刹那。
「――よく持ちこたえた」
不意に耳元で囁く声がしたかと思うと、静電気が弾けるようなバチバチとした音が吹き抜けていった。
セレシアの髪が静電気に膨らむよりも早く、魔物に稲妻が落ちる。
否。それは人が剣を振り下ろした姿だった。
雷の中心にあって、その金色の髪は乱れることなく座している。軽甲冑に身を包んだ背に棚引く
その背中はまるで、獅子が鬣を風に遊ばせているようで。
「貴方は……?」
「遅くなってすまない。俺は――ウェイン・オルフェウスだ」
振り返った獅子王の蒼玉のような瞳が、優しげに揺れた。
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