第35話 笑顔

(1)


 翌々日の早朝。

 マリオンはまだ眠い目をこすりながら、汽車の窓から茜色に染まる朝焼けの空を眺めていた。


 酒場でランスロットに諭された翌日、仕事を終えるとマリオンは急いで荷物をまとめ、夜行の汽車に乗り込んだ。メリッサが暮らすウィーザーという街に向かうために。


 港町であるウィーザーに近づくにつれ、朝焼けの空の下、群青に光る海が広がり始める。初めて海を目にしたマリオンは、水平線の向こうまで続く深く美しい青に感動し、ほんの少しだけ窓を開ける。肌を刺す風に乗って、ツンとした潮の香りが微かに鼻腔を刺激した。


 それから一時間弱ほど汽車は走行し、ようやくウィーザーの駅へと到着。『ミランダ・ベイル』と言う女性の家を、シーヴァから教えられた住所と地図を頼りに探し始める。


 初めての土地ゆえ散々道に迷いながら、二時間近くかけてミランダの家へと辿り着く。早速玄関のドアノッカーを叩こうとして──、直前で乱暴に扉が開け放たれ、思わず後ずさる。弾みでよろめき、危うく玄関ポーチから足を滑らせそうになった。


 慌てふためくマリオンをよそに、開放された扉から、「ミラ!また僕に隠れてお酒を飲んだだろう!?」という男性の怒鳴り声に続き、「何よ!料理酒を軽く一匙舐めただけじゃない!!」という女性の金切り声が飛び出してきた。


 ええぇぇぇ、まさか……。


 どうも夫婦喧嘩の真っ最中だったらしい。



 思わぬ状況に固まるマリオンに、今にも外へ飛び出さんばかりだった女性が気付く。


 女性は三十代半ばといったところか。プラチナブロンドの長い髪を緩く纏めている。 随分と小柄で華奢な体格、琥珀色の大きな猫目が特徴的だ。

 目元の隈や小じわが目立つ上に表情も険しいが、顔立ち自体は整っている。若い頃は可憐な雰囲気の美人だっただろう。この彼女こそがミランダに違いない。


「あ、あの……」


 明らかに機嫌が悪そうなミランダに怖気づくマリオンだったが、彼を見た瞬間、「あんた、もしかして……。マリオン君??」と、ミランダの方から声をかけてくれた。


「あ……、はい」

「もしかして、メリッサに会いに来たの??」

「はい!」


 すると、先程の険のある表情から一転、ミランダは柔らかな笑顔を浮かべた。


「あなたの話はシーヴァやメリッサからよく聞いてる。そうね、立ち話も何だし、上がってよ」


 ミランダは中へ戻ると、玄関前で立ち尽くしたままのマリオンを手招きし、居間に案内したのだった。





(2)


「さっきは見苦しいところを見せてしまって……、申し訳なかったね」


 ミランダの夫と思しき男性がすまなさそうにしてお茶を運んできた。いかにも人好きする温厚な男性で、名をリカルドと言った。

 歳はイアンと同じくらいだろうか。ミランダ同様顔立ち自体は童顔だが、左足を引きずる歩き方、白髪が目立つ髪のせいでやはり随分と老けて見える。それだけ、この夫婦の間には苦労が絶えないのかもしれない。


「じゃあ、ミラ。僕は仕事に戻るから。あとはよろしくね」


 リカルドはややぎこちない口調でミランダにそう告げると、家の奥へと姿を消していく。


「あの人、以前は酒場で働いていたんだけど。私から目を離せないってことで、今は家で時計を作ったり、修理の仕事をしてるの」


 ミランダの、カップを持つ手が小刻みに震えている。

 この症状には見覚えがあった。ラカンターの客の中にも、たまにを持つ者を見かけたので間違いない。


「あの、ミランダさんは、シーヴァとはどこで知り合ったんですか??」

「あれ、聞いてなかった??私はシーヴァが居た娼館で一緒に働いていたのよ。あの子は私を姉のように慕ってくれていて、私も年の離れた妹みたいに可愛がってたの」

「そうだったんですか……」

「シーヴァはあんな場所にいちゃいけない子だったから堅気に戻れて本当に良かった。真っ当に結婚して母親にもなれて……、本当に心の底から安心してる。……少なくとも、私みたいにはならなくて、本当に、本当に良かった」


 悲しげに目を伏せる姿に、何と言葉をかけるべきか。

 数瞬迷い、ありふれてはいるが確かな言葉をかけてみる。


「でも、ミランダさんだって優しそうな旦那さんが傍にいてくれるじゃないですか」

「私は……、お酒がなかなか断てなくてね……、彼に苦労を掛けてばかりいるもの……。唯一愛した人だって言うのに……、上手くはいかないものね……って、ごめんなさい。初対面のマリオン君に聞かせる話じゃないわね」


 話題を打ち消すように、ミランダはわざと明るく振る舞おうとする。


「僕が言う事じゃないんですけど……。せっかく愛する人と結ばれたのだから……、簡単に諦めたりしないでください。どんなにお互い愛し合っていても、結ばれることが叶わなかった人もいますし……」


 言いながら、ハルのことを思い返す。

 もしも、懐中時計の中の女性が生きていたら。

 ハルはもっと自らの命を大事にしたかもしれない。


 わかった口を利くなと怒らせてしまうかも、と不安もありつつ、ミランダをまっすぐ見返せば、彼女はさみしそうに笑った。

 

「そうね、そうよね……。ありがとう……」

「いえ……」

「きっとメリッサは、あなたのその純粋さに惹かれたのね」


 それからは、重たくなった空気を変えようとしてか、ミランダはマリオンにメリッサの近況について、可能な限りたくさん語ってくれた。

 話が一通り尽きると、「迷うかもしれないから」と、メリッサが現在働いている洗濯屋の近くまで連れて行ってくれた。ちなみにミランダもこの洗濯屋で働いていると言う。


 ミランダがメリッサを呼びに行ってくれている間、マリオンはひどく緊張しながら、洗濯屋のすぐそばのベンチに座っていた。どれだけ緊張していたかといいうと、初めてメリッサに話しかけた時と同じくらい……、否、もっと緊張している。


 彼女に会ったら何から話そう。


 話したいことなら山程ある。

 でも、今話すべき的確な話題がちっとも決まってくれない。


「あ」


 店の裏口から一人の女性が出てきた──、メリッサだ。

 慣れない街での生活が大変なのか、少し痩せたように思う。


 マリオンの姿を認めると、メリッサはアイスブルーの大きな瞳を拡げたまま、その場で立ち尽くしていた。が、やがて彼の許へと駆け寄っていく。

 マリオンもつられてベンチから立ち上がり、彼女の許へ急ぎ駆け寄った。


「マリオン!!」

「メリッサ!!」


 言葉なんか、何一ついらなかった。

 ただ、メリッサの太陽のように明るい笑顔が見たかった。

 この笑顔さえあれば、僕が笑顔を失うことはもう二度とないだろう。


 メリッサのか細い身体を抱きしめ、マリオンはかつてない程の大きな幸福感に包まれたのだった。





(終)

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争いの街 青月クロエ @seigetsu_chloe

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