第14話 朝闇の深林
鎌子の船が伊予の
斉明天皇は一月十四日に既に熟田津に上陸し、大海人皇子らと
難波湊を発つ前から斉明天皇が熟田津に寄港することは決まっていたので、飛鳥の王宮から事前に知らせを受けていた伊予の久米氏は斉明天皇の逗留する場である石湯行宮を整備し行幸を待っていた。
久米氏は古くから王族と近い氏族である。大化の改新前は伊予国造であり、改新後は久米郡の郡司として周囲の土地を管理していた。
久米氏は、かつて舒明天皇が熟田津に滞在した時の行宮を大規模に改修し、ゆったりとした造りの主殿の屋根には瓦を葺き、周囲には朱塗り土壁の回廊を巡らせて、王宮と呼んでも違和感がないほど立派な行宮を造り上げていた。
徴兵を行うため播磨と吉備の国に寄港した葛城王は、斉明天皇が率いる本隊から遅れて二月初めに熟田津に着いていた。
鎌子は熟田津に到着するとすぐに石湯行宮へ向かい、そこで葛城王と再会した。
「葛城王、ご無事でなによりです」
「鎌子も意外と早く追いついたな」
互いに変わらぬ挨拶だったが、葛城王は甲を付け、冠を外して髪を
「葛城王、さきほど私は大王に到着を報告しようとしたのですが、大王は体調がすぐれないとのことでお目通りが叶いませんでした。それほどお加減が良くないのでしょうか」
鎌子の問いに葛城王は表情を曇らせた。
「そうなのだ。母上は熟田津に着いてすぐに一度倒れ、少しずつ持ち直してはいるもののまだ長時間は起きていられない状況だ。しばらく療養が必要なのだが、幸いにもここには良い湯がある。充分に休んでもらおう」
六十七歳になった斉明天皇の衰えは飛鳥宮を出る前から明らかだった。
遠征に葛城王だけでなく大海人皇子も連れ出したのは、途中で自らが危篤となって王位継承の儀礼を行うことを見込んでのことである。場合によっては鎌子が王族儀礼を執行する中臣の者として立ち会わねばならないだろう。
だが、斉明天皇の寿命が尽きるのをただ待っている時間の余裕はなかった。
葛城王と鎌子は斉明天皇に先んじて筑紫の湊に向かうことになった。
熟田津の湊を出るとき鎌子は葛城王の船へと移った。密使が乗る小舟は葛城王の船団に紛れて移動し、筑紫湊の手前にある志賀島で別れて半島に向かう手筈である。葛城王が乗る駿河の蘆原君が造った大きな船は、鎌子が乗って来た小舟とは異なる安定感で内海を進んだ。
「鎌子、唐の虜囚はどうした」
夜、
「近江に移しました。読み書きができる者は寺院に預けて待遇しております。今後必要があれば彼らも筑紫へと運ぶことができます」
「はたらきがよければ彼らに田畑を与えよう。土地はあるのに田を耕す農民の数が少ない。民の数を増やさなければならない」
大化の改新により各地から米が税として集められることになった。米の収量が国力に直結するため、王権の基礎を盤石にするには耕地の開拓と耕作に携わる農民の確保が重要課題だった。
播磨と吉備がその貴重な農民を割いて兵力を供給したのは、今が農閑期の冬だからという理由が大きい。春が来て稲籾を蒔く季節までには兵を国に戻さなければならなかった。
熟田津を出て数日後には葛城王たちは筑紫湊に着いた。湊に入る前、鎌子は密使の乗る船が志賀島の裏へと航路を変え、島の領主である安曇氏に引き渡されたことを確認した。安曇氏は古から新羅と交易関係がある。密使は速やかに新羅へと送られるだろう。
その志賀島の向こう、冬の澄んだ大気の彼方に半島の影が見えていた。
初めて見る海の向こうの国の姿に葛城王と鎌子は緊張を強くした。
飛鳥で想像していたよりも、半島が近い。
筑紫湊について船上から周囲を見渡せば、あまりにも無防備に平野が開けていた。
「
葛城王が見る先に、柵で囲まれた高床の建物が集まる場所があった。
「鎌子、ここに母上を置くわけにはいかない。もう少し離れたところに
葛城王と同じ思いを感じていた鎌子は直ぐに拱手した。
「この先に良い土地がないか探してみます」
筑紫は前に起きた磐井という豪族の反乱の後、国造を置かずに筑紫大宰によって支配されていた。筑紫大宰は厩戸王の系列に連なる王族が襲名し、その下に前に孝徳天皇によって左遷された蘇我日向がいた。
葛城王が筑紫大宰の歓待を受けている間、鎌子は筑紫の額田部とともに馬を駆り、平野の川筋を遡って大王の行宮となる土地を探した。
山が両側から迫り天然の防壁となっているその後方。かつ退路を確保でき物資輸送のための河川が近くを流れる場所は――
「朝倉の山の近くに行宮に相応しい土地があります」
鎌子の報告を受け、葛城王は朝倉の地へと出向いた。
朝倉は水量豊富な千歳川(現・筑後川)が近くを流れ、低い山々が背を守るように並び立っている。山の稜線は物見を置くのに適していた。
「この先は肥国に通じています」
鎌子は南へ開ける朝倉の先を指し、葛城王に伝えた。
肥国は筑紫湊のように直接半島や大陸と向き合うことのない有明海を有している。状況に応じて筑紫湊と有明海を使い分けることが可能だった。
葛城王は満足そうに鎌子の説明を聞き、
「ではここに宮を造ろう」
と命じた。
建造が急がれたため、朝倉の山林から切り出された材は丸太のまま、屋根は杮葺きの行宮には、朝倉橘広庭宮という名が付けられた。
斉明天皇七年三月二十五日、容態が落ち着いた斉明天皇は石湯行宮を出て筑紫湊に着き、屯倉を増築した長津宮に入った。斉明天皇の到着を待ち侘びていた百済の鬼室副信はさっそく使いをよこし、百済皇子の引き渡しと援軍を重ねて求めた。
鬼室副信への返信を使者に託した斉明天皇は、
「後はすべて葛城王にまかせる」
そう言い残すと早々に、大海人皇子を連れて朝倉宮へと移動した。
葛城王と鎌子は長津宮で播磨や吉備、そして東国からの兵士を待つことになった。だが、四月に入ると各地で稲の世話、田の準備が始まる。約束した兵の数はいっこうに揃わず、ただ無為のまま夏を迎えることになった。
事態が急変したのは七月の半ばだった。
「内臣様、お伝えしたいことが……」
志賀島から前触れなくやって来た安曇氏の使いが鎌子に耳打ちした。
「新羅へ送った密使が戻ってきたのですが、武烈王が崩御されたとのことです」
武烈王は王位に就く前の名を金春秋と云い、かつて倭国を訪れている。自ら会話を交わし人となりを確かめたことのある隣国の王の突然の死に、葛城王は息を飲んだ。
「鎌子、次の新羅の王は誰だ」
「金庾信からの報らせによると、武烈王の王子が王位を継承するそうです」
仲郎という鎌子の偽名に宛てた金庾信の落胆と嘆きが伝わる文書を葛城王が読んでいると、長津宮の表に伝馬が駆け込んできた。
「大王が、お倒れになりました!」
斉明天皇危篤の報せに葛城王と鎌子は急遽、朝倉宮へと向かった。
既に死の床にある斉明天皇は枕元に揃った葛城王と大海人皇子を見た。
「次の……王位は、葛城王に」
斉明天皇は大王の最期の務めとして、次の大王に就くべき人物が葛城王であることを告げると深い息を吐いて目を閉じた。
葛城王、大海人皇子、そして大王の遺言を聞き届ける中臣の役割を鎌子が担い、次の大王の座が葛城王に引き渡されることを確認する王位継承の最初の儀礼が執り行われた。死穢に触れぬよう葛城王と大海人皇子が斉明天皇が横たわる部屋を出ようとしたその時。
開いた扉から差し込んだ日の光が鏡に反射して斉明天皇の顔を照らした。
その目からは涙が一筋流れ落ち。
「間……人、ま、ひと。愛おしい我が子。そなたこそわたしの、あとを、つぐ……」
その続きは魂とともに斉明天皇の身体から抜け
三人はともに身じろぎもせず、もう二度と口をきくことのない斉明天皇の亡骸を凝視することしかできなかった。
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