第五部 白雉の微睡

第1話 恵蘇の水際

 斉明天皇の遺体は朝倉宮から運び出され、千歳川のほとりの小高い朝倉山の上に安置された。七月終わりの暑さである。遺体は飛鳥まで移動させることはできず、朝倉宮の近くで葛城王を祭主とする殯が執り行われることになり朝倉山の下に殯宮が造られた。


 葛城王は筑紫湊に近い長津宮を出て軍装を解き、白い麻布の素服をまとって殯宮に留まることになった。鎌子は神祇官の長衣を身に着けて殯にともなう儀式を執り行った。


 殯宮のすぐ下を流れる千歳川から風は流れるとはいえ、暑気は木々の間、土の中にまで浸透している。山の獣や土の蟲が蠢く気配は昼夜問わずに濃厚だった。朝倉山山頂の殯屋の中に置かれた斉明天皇の遺体は、鎌子が日に二度、三度と見回るうちに姿を変えていった。


「葛城王」

 殯屋から降りてきた鎌子は、殯宮から千歳川を眺めている葛城王に声を掛けた。簡素な造りの殯宮は柱と屋根でできていて壁はない。流水の音が背後の山肌に響いてまるで川の流れの中にいるような錯覚に陥るその場所で、葛城王は殯の最初の五日間を過ごしていた。


 鎌子の呼びかけに振り向く葛城王の仕草は、鎌子だからこそ気づく程度に緩慢だった。覚悟していたこととはいえ、母である斉明天皇の死は葛城王の心を痛ませていた。鎌子には葛城王のその心に寄り添う気持ちはあっても、状況は一刻の猶予も許さない。


「葛城王、よろしいでしょうか」

「なにかあったか」

「服喪の期間は通常ですと一年間です。ですが、飛鳥の地を離れたこの場所では十分な祭祀を行うことはできません。本来の一ヶ月を一日とし、十二日間で殯を終えて大王を飛鳥にお返ししましょう。飛鳥宮で改めて殯の儀式を執り行います」

「吾も飛鳥に戻るのか」

「いえ、葛城王はこちらに残って下さい。間人皇女に飛鳥宮での儀式を……」

 鎌子があえて淡々と伝えようと意識した言葉のうち、葛城王は間人皇女の名前に敏感に反応した。

「間人は、母上の死を悲しむだろうな」

 鎌子は無言で拱手した。


 ――間……人、そなたこそわたしの、あとを、つぐ……


 斉明天皇が今際の際に残した言葉は、それを聞いた葛城王と鎌子、そして大海人皇子に動揺をもたらしていた。


 斉明天皇が王位継承者として指名したのは葛城王なのか、それとも間人皇女なのか。


 鎌子と大海人皇子は王位継承者が葛城王である、という見解で一致していたが、当の葛城王に迷いが明らかだった。

「葛城王、王位の継承を宣言してください」

 敢えて踏み込んで進言する鎌子を葛城王は諫めるでもなく穏やかに見つめ返した。

「吾が王位を継承するのは本当に母上の意思なのだろうか。母上は間人こそ大王に相応しいと思っていたのではないのか」

「そのようなことはありません。貴方が大王になるのは舒明天皇の御意志でもあります」

「父上の御意志、か」


 ――かつて、その舒明天皇自身の即位を巡って起きた諍いと何が違うのか


 口に出さなくても合わせた目の中、互いの脳裡にその考えが浮かんでいた。


「鎌子、吾は王位を継承しないままで軍政に臨む。王位は飛鳥に戻ってから決めることにしよう。服喪は鎌子の提案通り、十二日をもって終了とする」

 それでも鎌子にそう告げた葛城王の口調は明瞭だった。拱手する鎌子の胸中には葛城王が斉明天皇の死の痛手から立ち直ることへの期待と、葛城王が王位に就こうとしないもどかしさに揺れ動き続けていた。


 八月一日、服喪の十二日が明けて直ぐに葛城王は鎌子とともに朝倉宮を出て、長津宮に戻った。長津宮には敦賀から阿倍比羅夫が、山背からは阿曇比羅夫がそれぞれ兵士を率いて到着しており、他にも各地から次々に軍勢が集まっていた。


「鎌子、この辺りを一望にできる良い場所はないか」

 兵を動かすには全容を把握する必要がある。葛城王の命を受け、鎌子は筑紫湊から一里ほど離れたところにある大野山に見当をつけた。

 地元の豪族の案内で頂上まで登り、木を数本切り倒させると視界が広がった。筑紫湊を視界に納めることができる大野山は、背後は谷となり防御にも優れている。


 ――ここに新たな城柵を築けないだろうか


 鎌子が葛城王への提案を思い浮かべながら長津宮に戻ると、志賀島から安曇比羅夫がやってきていた。安曇氏の部の民が数名、後に従っている。

「内臣殿、我が部の民が気になることがあるといっている」

 そういって安曇比羅夫は鎌子の前に部の民を引き出した。

「申し上げます。近頃唐は水軍に力を入れているようです。先日も萊州(山東半島北側)から大きな船がいくつも海を渡って高句麗に向かっておりました」

 それは重大な情報だった。

「その話、詳しく聞かせてほしい」


 鎌子は志賀島の部の民から話を聞いた後、筑紫湊に滞在している百済の武人からも情報を集め葛城王へ報告した。

「蘇定方という唐の将軍が、高句麗との決戦に臨んで水軍を強化させたとのことです」

「鎌子、その唐と同盟を結んでいる新羅にはやはり油断ができないな」

 萊州から高句麗へ船団を派遣できるなら、新羅の湊を経由して倭国へ水軍を差し向けることも容易だろう。葛城王の懸念は当然のことだった。

「倭国の臣が在地にあった伽耶の国が無い今、百済が半島にあることは唐による倭国への侵攻の防衛線となるでしょう」

 鎌子の言葉に葛城王は頷いた。

「倭国が積極的に百済再建を後押しする価値はある、ということだな」


 九月、葛城王は長津宮に百済の王子豊璋を呼んで職冠を与えると、倭国の軍勢五千人を出して百済へと送還した。

「我が国の再建はすべて、倭国に委ねられております」

 豊璋を迎えた百済の将軍鬼室副信は倭国の軍に感謝の言葉を述べた。

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