第2話 水表の陣

 葛城王が皇太子のまま称制を始めてから三か月後、十月に入って農繁期が過ぎたあたりから兵の数は目に見えて増えていた。兵を賄うための食糧が筑紫国や豊国から運ばれ、葛城王がいる長津宮に集められた。


 その長津宮には主に西国の豪族の軍が集まっていた。葛城王が軍を率いる豪族の有力者と話し合いをするためである。もともと百済遠征を口実にして西国に国司の制度を浸透させようというのが狙いにあったので、葛城王は個別に、あるいは数人の国造や有力な豪族を同時に相手にしながら大化改新の内容を説いて聞かせた。


「今回のように吾が直接それぞれの国に出向いて兵を集めるのはいかにも効率が悪い。王権の官人である国司を置くことで、これまでよりも中央との意思の疎通が可能になる。また民の数を明らかにすることで税を取りすぎることなく適切に見積もることもできる」

 官道を整える技術や、馬匹の技術、さらに当時最先端である寺院を作る技術を持った工人を派遣することなど、葛城王は懐柔策ともいえる内容で西国の有力者たちの関心を集めた。


 一方で長津宮には王族に連なる太宰率や、筑紫の地元で倭王権に忠実な阿曇氏などの将も配置されている。


 百年ほど前にこの地で起きた磐井の乱はまだ人々の記憶に残っている。


 かつて筑紫の地に勢力を持っていた磐井国造いわいのくにのみやつこが新羅と通じて起こした反乱は、倭王権により鎮圧された。だが半島の情勢が不安定な今、再び倭に背こうとする者が出てこないとも限らない。これを牽制するために倭王権の中央に近い強力な臣が長津宮には集められていた。


 葛城王が西国の豪族たちの説得に時間を割いているその間、大海人皇子は主を失くした朝倉宮に留まっていた。朝倉宮には前年に大海人皇子の妃となった鵜野皇女が飛鳥からやってきて斉明天皇の喪の儀礼に臨んでいる。

 倭王権の臣や西国の豪族が集まる長津宮とは対照的に、朝倉宮には倭王権に忠実な東国の将が集められていて、葛城王はその統括を大海人皇子に託していた。


 鎌子は葛城王がいる長津宮と大海人皇子の朝倉宮を日に一度、場合によっては使者を送ることで二度三度と行き交い連絡を取り持った。鎌子の献策によって敦賀の阿倍比羅夫あべ ひらふ、上野国の上野毛稚子かみつけ わかこの他、美濃からも有力な豪族がその子息に兵士を付けて派遣してきている。朝倉の地は彼らの野営地となっていた。それら東国の兵の様子も葛城王に伝えるべきことだった。


 武装せずに平服のまま馬に乗って朝倉に赴いた鎌子が王宮の外を眺めると、野営地に炊事の煙がたなびいているのが見えた。

 大海人皇子は、その日もいつものように開け放たれた広間で鎌子と面会した。大海人皇子は屋内であっても甲を身に着けたままの軍装である。

「兄はやはりまだ王位の継承を宣言しないつもりなのか」

「葛城王は飛鳥に戻ってから王位を継ぐとのお考えです。大海人皇子様が葛城王の次の王位継承者であり、今は実質、皇太子の身分であることは葛城王も承知しています」

「兄の意向を疑っているわけではない、内臣、わたしが知る範囲において改新の詔には王位継承がどうあるべきか明らかにされていない。これは兄の手落ちだと思うのだが」


 これまで表向きは死に臨んだ大王による遺言が王位継承者を決めてきた。実際は大臣が他の臣との合議の上、有力な継承者を名指しするのが慣例だったのである。この慣例を破ったのが斉明天皇だった。

 斉明天皇は一度皇極天皇として在位し生存しているうちに孝徳天皇に王位を譲った。また孝徳天皇の遺言なく、孝徳天皇の死後に再び大王の座に着いた。

 自分の意志で王位継承を支配した最初の大王といっても良い。

 大王の兄弟に王位が継承され、兄弟がいなくなればその子の世代に王位が受け渡されていくのが慣習である。


 そして王族だけでなく、臣にもその慣習は適応されていた。鎌子の氏である中臣もそうだ。

 鎌子の父である中臣御食子の次に中臣の宗家を継いだのは御食子の弟である国子だった。国子の後は鎌子が中臣の長を継承するはずだったが、葛城王の補佐をする内臣に任じられたため、祭祀を任務とする中臣の長は国子の息子である国足が務めている。

 王族の王位継承にはもう一つ条件があった。

 大王の兄弟であっても、父母共に王族でなければ王位に就くことができないのだ。葛城王の兄弟で王位継承権をもつのは大海人皇子だけだった。さらに葛城王は未だ王族の妃である倭姫とのあいだ子が生まれていなかった。

 王位継承の決まり事を定めておかなければいずれ争いが生じかねない。


 大海人皇子が指摘したようにそれは大化改新の手落ちの箇所だった。


「王族の血を絶やさないためには兄だけでなく、わたしも子をもうけなければならない。王位の継承を考えるならば妃は王族、必然的に兄の媛皇女はわが妃となる。鵜野がここに来たのもわたしの子を早くもうけるためだろう」

 斉明天皇や間人皇女の近くで育った鵜野皇女は、王族の女人に課された使命を果たす強い意志を持っている。鎌子は拱手して大海人皇子の発言への同意を示した。

「しかし兄は妃を一人も連れてきていない」

 大海人皇子の言葉通り、葛城王は飛鳥から妃を一人も伴っていなかった。

「西の国から妃を迎え入れることを想定していますので」

「それでは王位が継承できない」

 言い切る大海人皇子の言葉に、鎌子は大海人皇子の大王の座への強い思いを感じ取った。


「皇子様、皇子様。大海人皇子様」

 その時、建屋の外から無遠慮に大海人皇子を呼ぶ声が聞こえた。

 見るといかにも東の土地から来た若者たちが集まっている。鎌子の姿に気づいて気まずそうに身を縮めた辺り、根は素直なのだろう。鎌子が彼らに咎める視線を向ける様を面白そうにみる大海人皇子の表情は、葛城王によく似ていた。


「内臣、この者達は朝倉宮でわたしの身の回りを警護している者達だ。皆、美濃の豪族の跡取りだ」

「はあ、大海人皇子様と野駆けに行くお約束があったもので」

 若者たちはそれぞれ村國むらくに和珥わに身毛むげつと出自を名乗り、いったんその場から下がった。


 彼らが群れ歩く様子に若い葛城王の回りに集まった佐伯子麻呂や稚犬養網田、蘇我石川麻呂の姿が思い出され、あの飛鳥寺の槻の葉が鳴る音が鎌子の耳の奥に聞こえてきたような気がした。


 鎌子がその日、葛城王がいる長津宮に戻ったのは夜になってからのことだった。

「鎌子、今日は遅かったな。なにか朝倉で変わったことでもあったか」

 まだ素服を身に着けている葛城王は手の内に小さな仏の象を包んでいた。斉明天皇の供養に経を詠んでいたのだろう。父である舒明天皇から受け継いだ小さな仏像は弥勒菩薩の像様を刻んでいる。

 鎌子は葛城王が持仏を丁寧に巾に納めるのを待って、

「日のあるうちに戻るはずだったのですが、朝倉宮を出るときに頼まれたことがあったのです」

「内臣である鎌子に頼み事とは」

 仕事から離れた会話に葛城王は寛いだ笑顔を見せた。

「内臣というより、私が中臣であることが大事だったようです」

「いったい何を頼まれたのだ」

「それが――」


 近頃、朝倉宮で鬼火が出るという。

 夜中に青白い火の玉が意志ある物のように辺りを徘徊して、ふっ、と消える。


「妖霊の姿ではないかと兵士たちが夜の見回りを怖がるようになり、中臣のはらえで悪しきものを祓ってくれと頼まれたのです」

「鎌子は鬼火も討伐することができるのか」

 面白そうに鎌子を見る葛城王の表情と、昼間に見た大海人皇子と面影が燈火の明かりの中で重なった。

「……いえ。祓を行う前によくよく話を聞いてみると、確かに兵士たちの中に鬼火を見たことがある者がいたのですが、まったく思い当たるところがないという者たちも何人かいたのです」

「騒ぎになっているというのに、まったく見ていないのか」

「はい。実のところ、その彼らこそ鬼火の張本人だったのです」


 鬼火とは何のことだと怪訝な顔をしていた者達は、聞けば越の国から来た兵士たちだった。彼らは夜の見回りのときに国元で使っていた燃える水で松明を燃やしていたのだという。


 燃える水とは黒く粘性のある液体で、燃やすと青白い炎が出る。越の者たちは慣れているからまったく不思議とも思っていなかったが、初めて見た他の土地の兵士は青白い炎を鬼火だと恐れたのだった。


「そんなに珍しい色なのか」

 興味を示す葛城王の前に、鎌子はちいさな瓶を差し出した。

「越の国の兵に頼み、燃える水を少々持って来ました」


 鎌子は小さな土器の皿に燃える水を垂らし、松の皮を浸した。灯明から移した火をつけると独特の匂いが広がり、青白い炎が立ち上がった。


「確かに見たことのない色だ。越の国にはこのようなものが産するのか」

 葛城王の顔には素直な感嘆の表情が浮かんでいる。

「後ほど国司に命じて、飛鳥の王宮に届けさせましょう」


 その飛鳥の王宮に斉明天皇の遺体が運ばれたのは十一月になってからのことだった。

 飛鳥川辺行宮の殯宮では間人皇女が服喪の儀礼を担うはずだったのだが、斉明天皇の訃報を聞いた間人皇女はその場に倒れ、以降、床から起き上がれないほどに衰弱していた。

 間人皇女の様子を聞いた大田皇女は、産褥の床も上がらないうちに急遽吉備の国から赤子を抱えて飛鳥に戻り、間人皇女の代理を務めていた。


 この頃、唐は高句麗との長年の戦いの決着をつけるべく大遠征をおこなっていた。

 高句麗は唐の将軍蘇定そていほう方が率いる水軍に敗北、蘇定方は大同江テドンガンという川を遡り高句麗の王都である平壌ピョンヤンを包囲した。


 だが堅固な城の守りに長期戦を余儀なくされ、蘇定方は新羅に兵糧を供給するよう命じた。新羅の金庾信きん ゆしんは唐に兵糧を送る見返りに後顧の憂いである百済の甕山城の攻略を要求し、唐と新羅の連合軍はこれを陥落させた。

 金庾信は平壌を包囲する唐軍に約束の兵糧と援軍を送り込んだのだが、十二月になっていたその時点で真冬の大寒波が平壌を襲った。唐と新羅は撤退し、高句麗は辛くも滅亡を逃れた。


 唐の高句麗遠征は失敗したものの蘇定方の水軍の威力は高句麗だけでなく水軍を持たない新羅にも目の前の脅威として突き付けられることになった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る