第9話 近江路の鳥籠
吉野の山並みに掛かる天の川は、まるで長い胴をうねらせて空を駆ける竜の姿を思わせる。
「近江の夜空はここよりも、飛鳥よりも、広かった」
斉明天皇は自分の言葉を確かめるように語り始めた。聞かせる相手は鎌子ではなく、おそらくは天の竜だったのに違いない。
「かつて、わたしの
近江淡海(琵琶湖)の西の岸。宝皇女が生まれ育ったのは湖の水面が大きく目の前に広がる土地だった。
当時、王位継承の主流は蘇我稲目(蘇我蝦夷の祖父)の娘と欽明天皇(推古天皇の父)との間に生まれた王族にあった。王族の主流を外れた者は大和の地を離れ、やがてその地の豪族と血を交えて正統を失う定めだった。
欽明天皇と遠く血筋は連なりながらも傍系の系統だった宝皇女は、同じく傍系の王族である高向王の妻となり、淡海の岸辺で男子を一人生んでいた。
「
年が離れていたものの宝皇女と高向王は仲睦まじい夫婦だった。最初は宝皇女の住処に通っていた高向王だが、次第に寝泊りの期間が長くなり、漢人が歩き始める頃にはほとんど一緒に住んでいるようなものだった。
「息子を、夫を、ただ慈しむだけの日々がかけがえなく幸せな日々だったのだと、後になってわたしはようやく気づいた」
宝皇女とその家族の穏やかな淡海での生活が一変したのは漢人が六歳になる頃だった。
推古天皇が自分の次の王位継承者だと定めていた厩戸王が亡くなったのである。厩戸王は王族に連なる妃との間に子がおらず、次の王位継承者が断絶した。
王位継承には大王と王族の配偶者との間に生まれた子であることが絶対的に必要である。このため、厩戸王と蘇我の娘との間に生まれた山背大兄王の王位継承には多くの豪族が強く反対した。
跡継ぎに悩む推古天皇に蘇我蝦夷は囁いた。
「飛鳥の地からは少々離れて目立ちませんが年齢も大王に相応しい王族がおります」
「大臣、その王族の名は」
「田村皇子です。田村皇子に王族の血を引く皇女を娶らせれば皇太子としての条件が整います」
田村皇子自身に蘇我の血は入っていないが、蘇我蝦夷の娘である法提郎女を妃に迎えている。山背大兄王を強硬に推して蘇我への逆風となるよりも田村皇子ならば批判をかわしやすい。蘇我蝦夷は高い政治力でそう判断した。
自らの老いに焦る推古天皇は重ねて蝦夷に尋ねた。
「妃とすべき王族の血を引く皇女は誰がいる。必ず子を、丈夫な男児を産んでもらわねばならない」
「思い当たる皇女はおられます。けれど少々手荒なことをしなければなりません」
「王族にとって王位の継承以上に大事なことなどない。その皇女も王族に連なる者であるなら、承知するだろう」
飛鳥宮の奥で行われた密談のひと月後、近江淡海のほとりに暮らす宝皇女の家族の前に蘇我の兵士がやってきた。
「宝皇女様、お迎えに上がりました。大王の命令です、これより貴方を田村皇子様のもとにお連れします」
あまりのことに宝皇女は言葉を失った。
「蘇我殿、宝皇女様は高向王様の妻です」
従者が反論したが、答えは兵士たちが太刀を鳴らし弓の弦を引く音として返ってきた。
「離縁されればよいだけだ。今、高向王様のところにも使者が向かっている。まあ、こちらよりも兵の数は多いが」
宝皇女は気力を振り絞って尋ねた。
「その話、断れば……」
最後まで言い切ることはできなかった。家屋の中に入った兵士が宝皇女の前に幼い漢人を連れてきた。
「おう、これは立派な御子ですなあ。なに宝皇女様、難しく考えることはありません。田村皇子様との間にもこのような子を成せばよいのです」
蘇我の使いは笑みを見せてもその目は笑っていなかった。
漢人の小さな背には剥き身の刃が向けられているのも同然だった。高向王にはもっと露骨な武力が付きつけられているだろう。
宝皇女は唇をかんだ。髪を振り乱して泣き叫ぶような無様な真似は出来なかった。
ただ願ったのは、最愛の夫と息子の安全だった。
「わたしはそのまま輿に乗せられ飛鳥へと運ばれた。……まるで鳥籠に入れられた鳥のように」
「王族に生まれたものの運命だ。許せ」
知る者がいない飛鳥の土地で、救われたのは田村皇子が宝皇女の心を理解してくれたことだった。田村皇子は宝皇女の叔父にあたる。
その田村皇子との間に子を成せば、せめて高向王に一目会って別れの言葉を、漢人を今一度だけでもこの手に抱くことができるかもしれない。
その希望が宝皇女をかろうじて支えた。
「そうして生まれたのが凶兆の二人の皇子だ」
ほとんど同時に生まれた二人の皇子だが、宝皇女は鎌子の父である中臣御食子と謀って日を異にして生まれたと報告した。それでも皇子の誕生である。
「皇子を生んで、これで役目がすんだと胸を撫で下ろしたわたしの下に、漢人が急死したとの知らせが届いた」
もし今後、宝皇女が推古天皇のように女帝の座に着くことがあれば、宝皇女の実子である漢人は蘇我の血を引かないまま王位継承者となる。
誰が漢人の存在を邪魔だと判断したのか、考えなくても分かることだった。
「田村皇子が舒明天皇として即位し、わたしが皇后となった年に、死んだ漢人には
吉野宮の夜空に月の光は一筋もなく、ただ天の川の星明りだけが斉明天皇の姿を漆黒の夜に白く浮き上がらせている。
「蘇我蝦夷とそれに連なる子々孫々をわたしは絶対に許さない。王族を自らの恣意で操ろうとするあの一族は、根絶やしにすべきだ、と」
老いた女王の嗄れた声は呪詛となって吉野宮の石畳に吸い込まれていく。
鎌子は自分の父である中臣御食子が度々斉明天皇の禊を手伝っていたことを思い出した。斉明天皇の心の内で呪いとなる苦しみを、中臣に伝わる祝詞で祓っていたのだろうか。
「葛城王と大海人皇子は、わが夫と息子の命を奪うために生まれたようなものだ。けれど間人、わたしの娘。同族殺しの血に汚されていない間人こそ、本当のわたしの後継者だ」
そこまで語ると、斉明天皇はようやく鎌子を見た。
「心配するな、内臣。政は葛城王に、間人には王族に伝わる祭祀を預ける。蘇我の言いなりにならない国造りは、わたしと田村皇子との共通の願いだ」
「大王、葛城王と大海人皇子様に母としての心情は」
「ない。実のところ、どちらが皇太子でも良かったのだが……」
斉明天皇は再び夜空を振り仰いだ。
「ただ内臣、いや中臣鎌子、憶えているか。前に百済大井宮でお前は成人する前の葛城王と会っていただろう。あの時、葛城王はお前とともに王宮から逃げ出そうとしたらしい。自分の大事な物を持ち出して、身支度までして」
それは鎌子が初めて聞く話だった。
「お前が約束の日に百済宮に現われなかったから葛城王はひどく落ち込み、しばらく部屋の外にも出ずにふさぎ込んでいた」
――あれは寒い冬の日で、乗っていた馬が川に落ちて。馬を引き上げるために鎌子は全身を濡らし、その夜からひどい風邪を引いてしまった。だから。
――鎌子は、雉子と名乗っていた葛城王を王宮からそう離れていない大和川の川原へ連れていくだけのつもりだった。だけど。
約束を反故にしてしまった理由と謝罪を、鎌子は葛城王に伝えていなかった。
「……大海人ではなく葛城王を皇太子にしたのは、わたしができなかったことをしようとしていたから、かもしれないな」
老いた女王の最後の言葉は独り言のように立ち消えた。
斉明天皇はそれですべてを語り終えたのか、鎌子の傍らを通り過ぎると吉野宮の奥へと姿を消した。
満天の夜空の下には鎌子が一人、残された。
あの時、鎌子が葛城王と交わした約束は。
――彼方まで続く白い雪原を、どこまでも……
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