第10話 粛慎の羆皮

 吉野から飛鳥に戻った斉明天皇は、その足で近江に発った。

 近江行の目的は誰にも知らされず、けれど斉明天皇はすぐに王宮へと戻ってきた。再び飛鳥の宮の王座に座る老いた女帝の威厳ある姿は、これまでと何ら変わるところはなかった。


「高句麗の使いの話は聞いたか。ひぐまの毛皮の話だ」

 初夏の香気を含んだ夜風に当たりながら、葛城王は傍らの鎌子にそう尋ねた。

 鎌子は唐草模様が精緻に施された銅の瓶子を取り上げて、葛城王が手にする盃に酒を注いだ。

「いえ、聞いておりません。羆の毛皮ならこしの国司である阿倍比羅夫あべ ひらふ殿がもってきたもののことでしょうか」

「その越の毛皮のことだ」

 二人が盃を傾けているのは葛城王の邸だった。蔀戸しとみどを空けた部屋には心地よい夜風が流れ込み、満月の光は微かに掛かる薄雲に遮られることなく庭に落ちている。そこかしこの草むらからは途切れない虫の音が聞こえていた。


 葛城王が云う羆の毛皮とは、阿倍比羅夫と交戦して負けた東北の民、粛慎みしはせが比羅夫に献上したものである。比羅夫は七十枚に及ぶ羆の毛皮をすべて王宮へ送り届けてきた。


「高句麗からの使者が大陸の熊の毛皮を都のいちに持ち込んだらしい。三十匹の綿と熊の毛皮一枚を交換しろと勝手なことを云い出したのだが市の役人は相手にしなかった」

「確かに妥当な取引ではありませんね」

「その話を聞いた都の絵師が、使者を自分の家に招いたのだという。その絵師は高句麗からの渡来民の一族の出で、祖国の話を聞きたいからと使者を誘ったのだそうだ」

「高句麗一族の絵師と云うと、狛堅部子麻呂こまのたてべ こまろでしょうか」

「そうだ。狛堅部子麻呂は長らく王宮の装飾を手掛けている。比羅夫がもってきた七十枚の羆の毛皮を官人から借り出して、使者をもてなす宴の席に並べたらしい」

 それは倭国を侮る使者の態度を戒めるためのものだった。倭国に高句麗の使者は自分の浅はかな見識を深く恥じた。

「倭国が異国に軽んじられてはならないのはもちろんだが、異国の者が倭国に持ち込む品物と倭国の物を適切に交換するにはどうしたらいいのだろうか」

 葛城王は鎌子に意見を求めた。

「葛城王、唐では価値が決められた貨幣が用いられて遠方の国との取引にも使われております。貨幣の価値は皇帝が決めているとのことです」

「なるほど、貨幣か。いずれ倭国も自らの貨幣を作る必要がありそうだ」


 この頃にはようやく西国への国司の配置も進み、東国からは租庸の品々が飛鳥へと運び込まれるようになっていた。租庸のついでに運び込まれた各地の品々が都の市で物々交換されることは自然なことである。それは倭国内の品だけでなく外国から持ち込まれた品物についても同様のことだった。

 西国の支配が完了すれば、さらに多様な品物が都に運び込まれることになる。

 葛城王と鎌子はその先のことまでを考え始めてた。


「そういえば葛城王、阿倍比羅夫殿といえば同様に陸奥むつ蝦夷えみしと交戦している上毛野稚子かみつけぬ わかこ殿から報告がありました」

「何といってきた」

「陸奥に鉄の砂でできた浜辺がある、と」

「それはおもしろい」

 この時代、鉄器を作るための鉄鉱石は主に百済からの輸入に頼っていた。倭国が百済との関係を簡単に切り離せなかったのはこの鉄資源にも理由がある。

「もし陸奥の国の砂鉄から純度の高い鉄を錬成することができれば、倭国が百済にこだわる必要は減じます。三韓との関係は大きく変化するでしょう」

 鎌子の言葉に葛城王は頷いた。

「鎌子、上毛野に命じて陸奥の砂鉄を調べさせよ。工人を派遣し炉を作らせて鉄を取り出させるのだ」

「はい、わかりました。三日後には蝦夷を饗応する宴があります。阿倍と上毛野の使者も参列する予定ですので、その場で彼らに葛城王の命令を伝えます」


 斉明天皇の時から推進されてきた阿倍比羅夫と上毛野稚子による東北地方への領土拡大は、耕作地の確保だけでなく資源探索の任務も帯びていた。もし陸奥に官製の製鉄所を造ることができれば、倭国の軍備も大幅に拡張できる。

 葛城王と鎌子は互いの盃を軽く打ち合わせ、満たした酒を飲み干した。


 葛城王はしばらく月の光が白く照らす庭を眺めていたが、やがてその手から盃を下ろした。

「鎌子、蘇我の血を絶やしたいという母上の願いをどう思う」

 鎌子は吉野から飛鳥に戻ってから、彼の地で直接聞いた斉明天皇の意向を葛城王に伝えていた。ただ、葛城王だけでなく大海人皇子にも親としての情愛を持てないという斉明天皇の言葉は鎌子の心の内だけに留めていた。

「蘇我赤兄は確かに油断がなりませんが、連子むらじこ殿は信用に値する人物です。彼は自らの氏の名を変えたいと以前、私に打ち明けています」

「ならば赤兄を滅ぼしたのち、連子に新たな氏を与えれば蘇我を滅ぼしたことになるか」

「大王がそれで納得されれば、ですが」


――王に従えば他の誰かを裏切ることになる


 鎌子はかつて蘇我入鹿が零していた言葉を思い出した。


――王に従いながら王を裏切ることを為す


 そう言い換えて通じる現状を思い、鎌子は盃に残る酒に目を落とした。葛城王は月を見上げ、二人して夜の中で沈黙した。


「鎌子」

 やがて葛城王は視線を鎌子に向けて呼びかけた。

「吾は血の繋がりのある親兄弟よりも、鎌子の方を吾が身に近しく思う」


 王族の、しかも生まれた時から王位継承が望まれていた葛城王は、幼いころから親から引き離され、養育を行う一族に預けられている。加えて斉明天皇は幼少期の葛城王と大海人皇子を共に忌避していた。叔父である孝徳天皇との軋轢を思えば、葛城王の周りに肉親の情と呼べるものは極めて希薄だった。


 百済大井宮で、葛城王と鎌子が互いを見知った時から二十年近くの歳月が過ぎていた。今、月の光に照らされた飛鳥宮の地面は白く光り、まるでうっすらと雪が積もっているようにも錯覚する。


――彼方まで続く白い雪原をどこまでも……


 あの時の約束を、葛城王は憶えているのだろうか。

 

 問おうとして上手く言い出せず、鎌子が言葉に迷ううちに、

「鎌子には先日、子が生まれただろう。女子だと聞いた。いずれ吾の息子の妃にしたい」

 鎌子は喉元まで出かかった問いを飲み込んだ。

 葛城王の云う通り、昨年、葛城王から下賜されて鎌子の妻となった鏡女王はひと月ほど前に鎌子の子を出産していた。葛城王の申し出は臣下として断れるものではないが、鎌子には端から断る気などなかった。

「分かりました。私の子孫は葛城王の血筋と血を幾度も重ねて交え、必ずこの先も裏切ることなくお仕えしましょう」

「吾が欲しいのは中臣ではなく、鎌子の血筋だ。吾と吾の子々孫々を支えてほしい。これからも」

 幾たびかの酒が互いの盃に満たされて、満月はやがて西の山の端へと移ろっていった。


 このころから大海人皇子は宮廷の表に出始めた。

「葛城王に一つ違いのご兄弟がおられるとは聞いていた」

 王宮の所々での噂話は咎められることはなく、大海人皇子の存在を周知するために放置された。

「生まれた時から身体が弱く後宮でずっと女官たちに世話をされていたらしい」

「噂には聞いていたが御姿を見るのは初めてだ」

「……あれだけお身内で殺し合えば、ひとりくらい隠しておきたいと思われるのも無理はない」

 葛城王と見間違えるほど似ている大海人皇子の容姿は、ひげかみを葛城王とは異なる形で整えることで胡麻化された。そして葛城王の娘である大田皇女と鵜野皇女が二人ともに大海人皇子の妃となり、大海人皇子が王位継承権を持つ王族であることが公となった。


 盛夏八月十五日、斉明天皇により飛鳥周辺の寺院に盂蘭盆会の開催が命じられた。

 僧尼に盂蘭盆経を読ませて父母七世の慰霊とするこの法会は、これまで陵墓で行われていた祖先祭祀を、今後は仏教寺院での行事へと移管することを決定づけるものだった。

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