第8話 吉野の龍宮

 斉明天皇五年一月三日。

 有間皇子の事件から二ヶ月が過ぎて年が明け、斉明天皇は紀湯から飛鳥へと帰還した。

 蘇我赤兄による後飛鳥岡本宮の造営はほぼ完成しており、特に斉明天皇の意向を受けて王宮の北西側に造られた庭園はこれまでにない新たな景観を飛鳥の地にもたらしていた。


 庭園の地にはなめらかに磨かれた玉石が敷き詰められ、張り巡らされた石樋や水路を通って絶え間なく水が流れている。王宮のすぐ西側を流れる飛鳥川から導かれた水は石造りの庭園にせせらぎの音を響かせながら大きな池へと注がれて、池の広い水面には飛鳥の山稜が映し出されていた。


「この石造りのわざは百済のものか」

 そろそろ山里の梅の花もほころび始める二月。

 穏やかな春の日差しの下で庭を散策する葛城王は後ろに従う鎌子に尋ねた。既に葛城王は百済の工人が工事に携わっていたことを承知しているが、より詳細な情報を求めての問いだった。鎌子はいつものように丁重に葛城王に答えた。

「はい。ここまで細かに石を切り出し加工できるのは百済の技に他なりません。山城の記憶はなくしても水利の技術はしっかり継承されております。彼の国では平地にも石を積み上げ王宮と成しているとのことです」

「しかしこの技を発揮するためには大岩が必要だ。この庭の造営のために石を随分運んだ。飛鳥の周辺ではもう石が見つからないとも聞いている」

「石が豊富に手に入る百済と木材が容易に手に入る我が国とでは自ずから建てられるものも違ってきましょう。葛城王が今、考えておられるものにはさほど大きな石は必要ないように思います」

 葛城王は鎌子の言葉を聞き終えると振りむいて、鎌子の肩越しに庭園の北側へと視線を向けた。

「吾が造ろうと思っている時を刻む仕掛けには風雨を遮る建屋が必要だが、石ではなく木で充分か」

 鎌子も葛城王の視線の先を追って背後を見た。

「唐で作られている水刻には特に建屋については言及されておりません。問題ないかと」


 水刻は水が流れ落ちる速度で時を計る装置である。この装置の設置は葛城王が以前から考えていたことだった。

 改新によって王宮に仕える者達は官人としての身分を与えられた。要職にある臣らの出仕の時間だけでなく、宮廷で立ち働く多くの官人たちの働きを管理するためには、明確な時の基準が必要だった。


 葛城王は鎌子を見て軽く頷き、諾了の意を示した。

 水刻については重要な話題ではあったが急を要するものではない。二人して庭に出てきたのは他の話題を話し合うためだった。


「大海人皇子が額田王を妃にするといっている」

「はい、後宮の女官長からも内々にその話を聞いております」

 鎌子は目を伏せて頷いた。そのことは鎌子を含め王族に近いものにとっては既に公然になっていることだった。

「額田王には鏡女王という姉がおり、その者も女官として仕えている。妹である額田王の前に、姉である鏡女王に婿を取りたいと額田の長から頼まれた」


 大海人皇子が額田王を娶るならば、姉である鏡女王はそれより上位の王族に娶せるのが順当だ。現在その地位にあるのは葛城王だけだった。

 だが同じ額田の一族から二人が、しかもほとんど同時期に有力な王族の妃となれば権力の均衡に綻びが生じかねない。今のところ額田氏にその気配はないとはいえ、以前の蘇我氏のようになってしまっては困る。

 葛城王の懸念は、鎌子も理解していた。


「ならば鏡女王は尼僧として寺院に預けましょうか」

 鎌子の冷静な進言を聞いた葛城王は、少し空を見上げるような仕草をみせた。まだ春の柔らかさよりも冬の冷たさが勝る空には薄い雲が流れている。

「そうではなく、鎌子」

 葛城王はどこか呆れたような、面白がるような目で鎌子を見た。

「鎌子、鏡女王をお前の妻にすれば良い」

 鎌子は思わず葛城王の顔を見た。

「葛城王、ですがそれは」

 葛城王は鎌子の肩を親し気に軽く叩いた。

「定恵が唐に渡った後、お前は車持の娘と離縁したではないか。妻がなければ子はできない。鎌子の子ならばこれから後の世に繋がる働きをするだろう」

「それは有難いご配慮ですが……」

 思いがけない話の流れに鎌子は狼狽した。

「鎌子、これは命令だ。鏡女王を一度吾の側に上げる。妃にするには障りがあるといってすぐに後宮を下がらせるから、そうしたら鎌子が鏡女王を妻にしろ。そうだな、鏡女王への求婚の歌を吾が書いてやろう。鎌子は歌が苦手だから」

 葛城王は勝手に話をどんどん進めていく。鎌子は言葉を挟もうとして、けれど心から楽しそうな葛城王の様子に何も言うことができなくなった。


「"――美しいお前を今夜抱かずにはいられない"。うん、このぐらいの情愛は詠みたいところだ」

「葛城王、私は今年で四十六歳になりました。それほど女人に対して熱意は感じません」 

「それでは求婚が成り立たない。いいから吾に任せろ。歌に入れる季節の草花は……」


 葛城王はさっそく歌を作るから、と足を自邸の方に向け、鎌子は来た時と同様にその後ろに従った。できたばかりの王宮の石庭には早春の日差しが束の間、穏やかに降り注いでいた。


 二月の終わりになって吉野宮が完成したという知らせが飛鳥に届いた。

 斉明天皇は知らせを受け、間人皇女だけでなく、葛城王の皇女である大田皇女と鵜野皇女も連れて吉野宮に出向くことを決めた。その一行には龍神祭祀のための吉野宮の設計に携わった鎌子も随行を命じられた。


 斉明天皇が吉野まで用いた道は、かつて葛城王が古人大兄王討伐に使った山越えの道ではなく、曽我川を遡る平坦だが遠回りな道だった。

 輿に飾られた色とりどりの衣や幟を風に泳がせて、王族の行列は早春の野を行く。その様はまるで仏の教えにある天の国か、神仙の世界を思い起こさせる光景だった。


「下ろして。わたしは自分で歩いてみたい」


 途中、鵜野皇女うのおうじょがそんなことを言い出した。鵜野皇女は輿が地に下ろされるのを待たずに身軽に飛び降りて、言葉通りに自分の足で歩き始めた。

 前を行く輿に乗っていた姉の太田皇女は困ったように妹を眺めたが、何も言わず、鵜野皇女は止める女官の手を振り切ってそのまま行列の中をどんどん歩いて行く。

 乱れた行列に気づいた鎌子が乗っていた馬の足を速めて近づくと、鵜野皇女の目は鎌子の馬に釘付けになった。


「馬に、乗ってみたい」


 鎌子をまっすぐに見上げてくる十四歳の鵜野皇女には、他の姉弟の誰よりも葛城王の面影が色濃く受け継がれていた。鎌子は馬から降りて鵜野皇女の前に膝を付いた。


「私の馬に置かれているのは女人が乗る鞍ではありません。申し訳ございませんが皇女様お一人で乗ることはできません」

「額田大王はどんな鞍を置いた馬にも乗れるといっていたわ。鞍がなくても馬を走らせることができるのですって。わたしが乗れないことはないでしょう?」


 言い出したら聞かない性質はますます父である葛城王の若い頃にそっくりだ。

「吉野からの帰り道には乗れるよう、鵜野皇女様の馬をご用意します」

 鵜野皇女は小首をかしげて鎌子の提案を吟味した。

「わかったわ。あまり皆を困らせてはいけないわね。もう少し歩いたら輿に戻ります」

 我を張らずにあっさりと折れて後腐れがない性質にも、鎌子は感心を覚えた。

 

――鵜野皇女の教育係は誰だったろうか、あとで話を聞いてみよう


 鵜野皇女はそれ以上鎌子に構うことなく、太田皇女の輿のまわりを軽やかに歩き回り、姉とのおしゃべりを楽しみ始めた。


 日暮れ間近な吉野宮で斉明天皇を出迎えたのは古人大兄王の娘である倭媛やまとひめだった。

 倭媛は葛城王の妃となることが決まっていたが、古人大兄王の喪が明けてもこの土地を離れようとしなかった。古人大兄王を弑したのが葛城王である、という風説が吉野に根強く漂っていたのも一因だろう。それでいて葛城王の後宮に入ることを拒否する倭媛を斉明天皇が叱責することはなかった。


 三月朔日の月のない夜、飛鳥からやってきた王族を迎えて篝火かがりびが皓々と焚かれる中、吉野の古い民である国栖くずの者達が赤い炎の中で歓待の舞楽を披露した。腰帯に杉の木の枝を挟んで尾のようにして背に垂らし、オンオンと唸り声をあげて踊る舞人の姿は、この地に住む人々の歴史の深さを物語っていた。


 吉野に住む者達から一通り即位の言祝ぎを受けた後、斉明天皇は時季外れの新嘗にいなめの祭祀を執り行った。本来ならば前年の秋のうちに行う祭祀だが、飛鳥宮が未完成だったので先送りになっていたのだ。


 吉野宮には東西二十歩、南北二十歩の方形に石を敷き詰めた祭祀を行うための一角が造られていた。祭祀の場に設けらた祭壇の左右には、白と青の幣が懸かり鏡が結わえられた若木が立っている。祭祀に臨む斉明天皇は白髪交じりの長い髪を一つにまとめて背に垂らし、朱の袴に同じ色の帯、白い衣の上からは唐から伝えられた橙の錦の巾を羽織って祭壇の前に立っていた。


 祭祀を取り仕切るのは鎌子の従兄弟で中臣の長者である中臣国足と忌部いんべの長者である。

 国足と忌部がそれぞれ神を呼ばわる祝詞を読み上げた後、間人皇女と倭媛が並んで斉明天皇の前に進んだ。その後ろには大田皇女と鵜野皇女が従っている。間人皇女と倭媛は器に盛られた米を掲げ、太田皇女と鵜野皇女は土器かわらけの空皿を運んでいた。

 

 祭壇に米と土器が置かれると、斉明天皇は自らの手で米を数枚の土器に盛った。


 絶え間なく鳴らされる琴や鈴の音が邪を払う中、斉明天皇は降りてきた神とともに前年に取れた米を口にして、実りを神に感謝した。斉明天皇に引き続き、間人皇女らが米を食べる。王族の女性たちによる祭祀はやまとの一族に伝わる古の祭祀の姿を彷彿とさせた。


 鎌子は王族の女性の後に傅く神官たちの背を篝火の明かりの中に見た。彼らの姿は中臣の本来の姿でもある。だが祭祀の場を離れて見守る鎌子は、神官としての自分がすでにそのどこにも存在していないことを自覚していた。


――中臣の名を、いつまでも名乗っていて良いのだろうか


 鎌子の脳裡には、蘇我の名前を捨てたい、と言っていた蘇我連子の言葉が過っていた。


 時季遅れの新嘗祭祀の三日後に、間人皇女は大田皇女と鵜野皇女を連れて吉野を発った。

 行きの道中で鵜野皇女が告げた希望通りに、飛鳥宮からは小柄な馬が牽かれてきた。が、鵜野皇女は女官に抱えられて馬上に上げられ、女官に抱えられたそのままで馬は歩き始めた。最初のうちこそ明らかな不満の表情を見せたものの、やがて鵜野皇女は馬の上から見る景色に気を取られたか、文句も言わずに馬の背に揺られながら飛鳥宮へと戻っていった。


 斉明天皇は一人、吉野の竜神を新たな離宮である吉野宮へと迎え入れる祭祀の時を待つため吉野宮に残っていた。


「内臣様、大王がお呼びです」

 その夜、深更を過ぎてからの斉明天皇からの呼び出しに、鎌子は一瞬身構えた。


――祭祀に関することなら国足を呼ぶはずだ。


 そう思いながらも一方で鎌子は自分が呼ばれたことに疑問は感じなかった。わざわざ鎌子を名指して吉野宮への随行を命じたのは斉明天皇その人である。葛城王に聞かせる必要はなく、おそらくは斉明天皇の忠臣であった父、中臣御食子の後を継ぐ者として呼ばれたのだろうという予想はあった。


――斉明天皇は、葛城王と大海人皇子の出自に関する何事かを自分に伝えるのに違いない。


 鎌子は素早く判断すると、衣を整えて部屋の戸口で自分を待っていた女官の後に従った。


「来たか」

 鎌子が女官に案内されて向かったのは吉野宮の西の端、吉野川の渓流の音が間近に聞こえる内庭だった。


 夜空には満天に星が輝き天の川が白く滲んだ光芒を放っている。老いた女王は纏った白い衣を淡く光らせて、昏い夜の中にただ一人、佇んでいた。


「蘇我赤兄。葛城王は彼の者をどうするつもりだ」

 斉明天皇は前置きなく鎌子に尋ねてきた。

「政の中心には置かず、いずれ遠国の国司に任じようというおつもりです」

「遠国、か……」

「ご不満でしょうか」


 斉明天皇は有間皇子の事件の際、蘇我赤兄を罪に問うなと葛城王に厳命した。どのような要求をするつもりなのかと考えを巡らせる鎌子に、

「しばらく王宮の近くに赤兄を置け。また謀叛を企むだろうから、その時こそ言い逃れできぬように追い込み滅ぼせばよい」

 星の光のように温度を感じさせない口調で斉明天皇はそう言い放った。鎌子は斉明天皇の言葉の中に見逃せない懸念を見出した。


「大王、蘇我の者達は謀叛を企むとき必ず王族を巻き込みます。次に謀叛を企むなら巻き込まれるのは」

「葛城王か大海人皇子だろうな」

 斉明天皇は微塵も揺らぎを見せない目で鎌子を見据えた。


 しばらく互いに無言のまま、やがて二人の頭上を星が流れた。

 斉明天皇は流れ星の行く先を追って鎌子から目を離した。


「蘇我を、わたしが生きているうちに滅ぼしたい」


 流れ星とともに零れ落ちたその言葉は、大王ではなく宝皇女という名の一人の女人の言葉だった。

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