第2話 難波宮の海鳥
木簡に書かれた文字が葛城王本人のものであることは一目で分かった。短い文章の裏には葛城王からの命令がある。鎌子は卓の上から小刀を取り、木簡の表面から葛城王が書いた文字を削り落とした。
もう一度墨を磨り下ろし、削られた木簡の表面に新たな文字を記していく。
――策有り。但し王命が必要。
墨の乾きは木簡の方が早い。鎌子は炭火の鉢に木簡を軽くかざしてから、もとの絹に包みなおした。
「直ぐに葛城王にこれを」
待機していた舎人に渡すと、舎人は足早にその場を去った。馬と船を使えば鎌子のいる飛鳥宮から葛城王のいる播磨の国までは五日とかからないはずだ。
雪は降っているが荒れた天候ではない。鎌子は雪の舞う海面を滑るように進む伝令の船姿を思い、返事の木簡が早く葛城王の手元に戻ることを願った。
先月、正月六日に難波宮を出港した斉明天皇の水軍は、ひと月経っても未だ戦陣を敷くべき筑紫国に到着していなかった。老いた女王は海路の途上にある伊予の温泉で体を伸ばし、淡路島で早々に本隊から船団を分けた葛城王は播磨国で徴兵を行っていた。
天皇を中心とした国造りは始まったばかりだった。
飛鳥宮からの伝令だけでは地方の豪族から兵を徴収することはできない。難波宮を出たのは朝廷の有力豪族が出した千人程度の兵だけだった。
馬は百。葛城王や大海人皇子を始めとする高位の人物が使う馬や荷を引く馬を除くと、兵馬として使える馬はほとんどなくなる。
足りない兵も馬も、行軍の先々で葛城王が自ら徴収する必要があった。
有力な豪族が治める土地が近づくと船を降りて館に出向き、葛城王が豪族の長に直接命じる。それからその地での徴兵が始まるのである。
豪族が治める地域すべてに命が行き渡るまで時間がかかり、徴兵された兵が集合するまでまた時間がかかる。集まった数が要求した数に満たないことも珍しくなかった。
「せいぜい時間を稼ぐことにするさ。鎌子はそれが望みなのだろう?」
難波宮で見送る鎌子に葛城王はそう告げた。徴兵に時間がかかることは当初から予想されていたことだった。
「お心遣いありがとうございます、葛城王」
「どうせ兵は思うように集まらないだろうし、蘆原が造った船は快適だ」
鎌子は港に並ぶ新しい船を見た。中でも黒烏の旗が掲げられたひと際華麗な船が王族の乗る船だった。美しい造作は内海の穏やかな海原に映えるが、外海はどうだろうか。
斉明天皇の命令に応じて倭の軍船を作った蘆原君は、駿河国の豪族だった。彼は大陸に通じる海の冬を知らない。かの海の上に吹く強い北風は昼夜を通じて止むことなく、うねる波頭が飛沫をあげ船体の横から叩きつける。不二の山に見守られる駿河の湾とはまるで海の性質が違う。
葛城王は鎌子の視線の先を見て、鎌子が言わんとすることを察した。
「吾は水軍の陣には立たない。これは遊覧には適した船だが戦ができる船ではない」
「賢明な判断です」
「この船を作った蘆原には一度、唐や新羅が使う船を実際に見せる必要があるな」
「那津に着けば嫌でも目に入るでしょう」
「唐の船が、か」
「新羅の船もです」
鎌子とのやり取りの中で葛城王の視線が鋭くなった。
唐や新羅の船がこの国の近海に姿を見せるとき。それが倭国侵略の軍隊なのか、友好の使者なのか未だ予測は不可能で、運命は鎌子の外交手腕にかかっていた。
「鎌子、唐や新羅との交渉にどのぐらいの時間稼ぎが必要か」
「短くて三ヶ月、できれば半年」
「吾が半年も飛鳥宮を空けるわけにはいかない。何もかもが中途半端に放り出されたままだ」
今からおよそ二十年前に始まった大化の改新は、有力豪族の根強い抵抗に遭い遅々として進んでいなかった。宮廷に残る古株の豪族たちが改革の中心人物である葛城王の遠征を喜んでいるのは明らかだった。宮廷の権力を牛耳ろうとしているのは、かつて葛城王が自ら滅ぼした蘇我氏だけではない。
「三ヶ月だ。それまでに結論を出せ」
葛城王の焦燥を知っている鎌子は拱手し、それ以上何も言わずにその命を受けた。
宮廷に残された豪族たちの専横を抑制し、進められる改革は推して進める。それは葛城王が宮廷にいるときにも鎌子の役目だった。鎌子には葛城王が飛鳥宮を不在にする間もそれらの仕事をこなしつつ、唐や新羅が倭の完全な敵国にならないという言質を得るための外交交渉を続ける任務が与えられた。
「母上には石湯行宮にしばらく留まって頂こう。良い温泉があってしかも亡き父上との思い出の地だ、異存はないだろう」
「大海人皇子様はどちらに従いますか」
「吾の方に来てもらう。いつ誰が裏切るか分からないからな、実の弟がいれば心強い」
「それを聞いて安心いたしました。できればいつもご一緒に行動してください」
「あいつも狙われる可能性があるのか」
「はい」
「気楽なの母上ばかり、か」
身内のことを口にする時、葛城王の口調からは鋭さがなくなる。それは親族への優しさというより迷いの気配が強かった。
改革に反対する有力豪族に叛逆の刃を向けられかねない状況は先の孝徳天皇の頃から続いていた。せめて血の繋りが濃い親族を信じたいという気持ちと、血のつながった相手からも命を狙われる猜疑心は、互いが互いの尾を食む龍蛇となって葛城王の内に常に渦巻いている。
それは時として母である斉明天皇や弟の大海人皇子に対する曖昧な評価となって現れるのだが、そんな葛城王の心中の揺らぎを鎌子は十分に分かっていた。
海鳥が小さな影を落としながら葛城王と鎌子の頭上を飛び去った。葛城王は己の迷いから目を逸らすように海鳥の白い翼を追って空を見上げ、鎌子も葛城王の視線を追って空を見た。
あの時、葛城王と共に見上げた難波の空は穏やかに晴れて澄む冬の青空だった。
鎌子は部屋の格子窓から外を見た。今、静かに雪を降らせ続ける飛鳥の空は一面の灰色だった。
唐の郭務悰、新羅の金多遂への書簡は書き上げた。
高句麗の賀取分からは返事を待っているところだった。
――馬が足りない。兵が足りない。なにもかも、戦のためのものが全て足りない。
それらを調達する道筋をつけろ、という葛城王からの新たな命令に対し、兵や武器に関しては策があるという鎌子の返事は偽りがないものだった。
だが馬は。
鎌子は紙の束を卓から退かし、代わりに文字が書かれていないまっさらな木簡を積み上げた。朝廷の内臣、中臣鎌子として東国の豪族に命を下すためだった。
信濃の金刺氏と上野の上毛野氏、そして常陸。
朝廷へ従属するそれらの豪族に宛て至急馬を送るよう木簡に書き綴りながら、彼らがいつもどの程度馬を生産し、現在何頭を朝廷に供出できるのか、全く把握していないことを改めて思い知らされた。
早急に仕組みを整えなければならない。
百済救済に反対する葛城王が今回の遠征に従ったのは、これを機に倭国の軍事力を再構築するためだった。
兵を、武器を、馬を、王の命令で徴収し、すみやかに王の軍を整える仕組みを作ること。
百済の救済ではなく、唐・新羅の撃退ではなく、それこそが今回の遠征における葛城王の真の目的だった。
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