白雉の微睡

葛西 秋

第一部 不時の王

第1話 雪の飛鳥宮

 雪がしんしんと降り続いていた。積もる雪の白さは過ぎる時間を包み込む。

 今が昼前なのか昼過ぎなのか、あるいは夕方が近いのか。白い雪は時の感覚を失わせながら茫とした光を屋内に投げ込んで、ひたすらに紙に文字を記していく者の手元を淡く照らした。

 筆を持つ手はひとときも止まる様子なく、傍らに無造作に置かれた珍しい異国の墨がおしげもなく磨り下ろされていく。紙の端まできてようやく筆の先が紙から離れ、そうして文章の末尾には職位も氏もなく、ただ仲郎とのみ手紙を書いた者の名が記された。


 中臣鎌子は書き終えたばかりの手紙を卓から持ち上げて文章を読み直した。

 この手紙は密書だった。倭国の内臣である自分の職位も、朝廷の神祇を司る中臣の氏も記すわけにはいかなかった。すでに何度も手紙を交わした相手には仲郎という名の方が通りが良くなっている。


 読み返してもまだ墨跡には湿り気があった。雪が降る今日の天気では墨の乾きは遅い。鎌子は書き終えた手紙を脇の卓に置き、新しい紙を自分の前に置いた。今度も迷いなく、先に書いた手紙と同じような内容でありながら微妙に表現を変えて文字を綴っていく。


 鎌子のいる飛鳥の宮殿の中は、雪が積もる音が聞こえるほどの静寂だった。


 今より四十年ほど前、推古天皇の御代に海の向こうの大陸の覇者は隋から唐に代わった。始祖である高祖から二度、代が変わってもその基盤に揺るぎはなく、勢力はますます盛んになっている。唐の勢いは朝鮮半島にある高句麗、新羅、百済の三つの国の力関係も変容させた。


 倭国は長年にわたりこの朝鮮半島の三国と友好と対立の関係を繰り返してきた。その中でも取り分け百済とは推古天皇の時代より親密に、言い換えるならば倭国が支配的な権力を行使した関係が続いていた。


 半島の先端を領土とする百済が、大陸と地続きの高句麗と政治の巧みな新羅に対抗するためには海の向こうにある倭国の後ろ盾が必要だったのだ。


 その百済に唐が目を付けた。

 さらに唐の勢いを借りて新羅が百済への侵攻を開始した。唐は新羅の百済侵攻に同調して高句麗への攻撃を始め、朝鮮半島は戦乱の渦中にあった。


 倭国はどこまで百済にこだわるのか。


 これは非常に難しい線引きだった。

 今、二度目の在位となる斉明天皇は、百済の救援要請を受けて直ちに援軍を送ることを決めた。だがこれは唐への反逆と捉えられる。もし百済が滅亡すれば、唐と新羅は次に倭国に侵攻してくるだろう。


 鎌子が先ほど書き終えた手紙は唐の高官に宛てたもので、今書き始めた手紙は新羅の臣へ向けたものだった。


 鎌子は自ら百済への救援軍を率いて筑紫国に向かった斉明天皇の背後で、唐と新羅と密書を交わし、倭国が唐に対しては反抗するつもりが無いことを説き続けていた。

 それは同時に唐や新羅の要求を倭国がどの程度まで受け入れるかを見極める、極めて高度な外交知略を必要とする仕事だった。


「新羅が唐と組む目的は半島の統一にある。唐が新羅と組む目的はいずれ新羅すら滅ぼして半島を手に入れるためだ。いずれどちらかが食う食われるの争いになる。既に滅亡したも同然の百済にいつまでも肩入れするわけにはいかない」


 斉明天皇が出陣することを決めたとき、事も無げにそう言って古くから宮廷に使える重臣たちの眉を顰めさせたのは斉明天皇の息子であり皇太子ひつぎのみこである葛城王だった。


「鎌子もそう思うだろう?」

 鎌子よりも十二歳年下の葛城王は、日頃の気の置けない態度そのままで同意を求めてきた。

「そう思うも何も、唐との関係が最も大事なものであることを貴方に説いたのは私です」

「そしてそれをお前に説いたのは南淵だ」

 葛城王は光芒鋭い目に笑みを浮かべた。その表情は三十六歳の青年である葛城王をもっと年若い少年の様に見せた。


 葛城王の云う南淵とは、遣隋使と遣唐使を長年歴任した学者の南淵請安のことである。もともと渡来人の氏族に生まれた南淵請安は大陸の言葉に堪能で、使者として派遣される度に大陸の文化や知識を倭国に持ち帰った。

 斉明天皇は今の座に就く前から請安を呼び寄せては異国の話を聞いていたのだという。


 だが学者としての請安の薫陶を受けたのは鎌子の方である。

 葛城王との会話を思い出した鎌子はそこで思わず苦笑した。四十八歳の鎌子だが、葛城王と話すときは時折自分も青年だった頃に戻ってしまうことがある。


 葛城王の手によってこの宮廷を人の血で溢れさせたあの頃の。


 飛鳥の宮の宮殿はひどく静かだった。

 今、斉明天皇は葛城王と皇太弟を連れて筑紫国へ向かっている。


 唐に滅亡させられた百済の復興を後押しするため、百済と約束した倭国の救援軍は五千人。戦に長けた豪族の長を軒並み引き連れ、足りない兵を行く先々で徴兵しながらの行軍は時間がかかるが、真冬の飛鳥で兵が揃うのを待つよりは、温暖な内海の船旅の方が老いた女帝には心地よいのだろう。


「我々が筑紫国に着くまでに、唐と新羅を説き伏せて欲しい」

 旅立つ前に鎌子は葛城王から命じられた。それは二人の間だけで交わされた密命だった。


 真白な雪に覆われる主のいない虚ろな宮殿の中、鎌子はひたすらに唐と新羅の臣に手紙を書き続けた。


 ――ただ長年の百済との信義には背きがたく……


「申し上げます」

 部屋の戸の外から舎人の声がした。

「なんだ」

「たった今、葛城王からの文を預かった伝令が届きました」

 鎌子はすぐに筆をおき、椅子から立ち上がって戸を開けた。舎人から手渡されたのは絹の布に包まれた木簡一つだった。


 ――馬が足りない。兵が足りない。なにもかも、戦のためのものが全て足りない。

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