233 深淵の呼び声


 ファーニャが前哨基地アウトポストに戻ると、すぐに守衛に報告を行った。


「地下1階層の霧の中で新種の魔物に遭遇しました。しばらくは新たな冒険者の進入を控えた方がいいでしょう。あとで父にも報告します」


 彼女の顔には疲れが浮かんでいたが、その目には決然とした意志が宿っていた。

 守衛はすぐに頷き、警告を掲示することを約束した。


「ロランさん、クルバル、とりあえず戻りましょう。馬車が待っています」


 ロランは頷いたが、心は落ち着かなかった。

 あの霧の中で聞こえた声――自分の名前を呼ぶあの声が、どうしても頭から離れなかった。


 *    *    *    *


 揺れ続ける馬車の中で、ロランはわずかに冷たい汗を感じながらエリクシルに意識を集中させていた。


{{……あれは間違いなくダンジョンの深淵、異形の手のものです}}

《だったとして、なんで俺の名前を!?》


 ロランの問いに、エリクシルは慎重に答えた。


{{ダンジョンコアに触れ、深淵に呼び出されたときに名前を知られたのでしょう}}

《そういえばエリクシルが俺の名前を呼んでいたな……》


{{おそらく、ダンジョンはあなたの魔石や行動を読み取っていると思われます。強化個体が現れることや、新種の出現においても、ダンジョンの反応や意志が関与していると見ていいかもしれません}}

《ダンジョンの意思……『タロンの悪魔の木』であれが現れたのも偶然じゃなかったって説はあったけど……でも別のダンジョンでそれがあり得るのか? もしかして、全てのダンジョンが繋がってるとか!?》


 ロランの動揺を感じ、エリクシルは少し間を置いてから慎重に答えた。


{{そうした直接的な繋がりがあるか、あるいは、すべてのダンジョンに共通の「源」が存在するのか。今は確証を持てませんが、可能性は捨てきれません}}

《じゃあ甦りの鉱山ルハ・シャイアも? あそこなんかもろにやばい気がしてんだけど! コスタンさんたちも危険じゃないのか?》

{{今回の呼び声があなたを名指ししていたことから、コスタンさんたちには即座の脅威は及ばないと考えられます。それでも、注意を促すのは賢明でしょう。次に潜る際は入念な準備を整え、万が一、対話の余地があれば試み……}}


 ロランは焦りを抑えきれずに遮った。


《対話だって!? ……襲ってきた相手に、それが通じるとも思えねぇけどな……》

{{……それが不可能なら即座に撤退しましょう}}


 エリクシルの冷静な考察が続くも、答えの見えない状況にロランは深くため息をつき、窓の外に目をやった。

 ファーニャとクルバルが、不安げに彼に声をかける。


「ロランさん、震えてるようだけど大丈夫?」

「あの声は……。あれは異様すぎて、どうしても頭から離れません。名前を呼ばれた瞬間、冷たさが骨まで染み渡るようで……」

「確かに、あの声には只ならぬものを感じました。タロンの主と対峙した時とも違う、得体の知れない不気味さがありました」


 ロランは小さく頷いたが、不安はまだ消えないままだった。

 馬車は街の中に入り、夜の闇が静かに彼らを包み込む。

 やがてファーニャの屋敷に到着すると、彼女は一息つき、真剣な表情でロランを振り返った。


「まずは父に報告を……。ロランさん、あなたも一緒に来てくれますか?」


 *    *    *    *


「……ふむ、新種の魔物か」

「魔物の顔は喰童鬼バグベアに似ているようにも思えました」


 カディンは表情を曇らせ、思案深く眉をひそめる。


「……『霧霞きがすみの平原』に出現するはずがないが……」


「それよりも、あの真っ黒な蔓よ……! 見たこともなかった!」


 ファーニャが黒い蔓について触れた瞬間、カディンの表情が一瞬こわばり、微かに肩を震わせたように見えた。


{{ロラン、今の反応に注目を。カディンさんは黒い蔓について何か知っているようですね}}


 エリクシルの指摘を受け、ロランはカディンの表情に意識を集中させた。

 カディンはロランの視線に気づくとわずかに顔を引き締め、手元の盾に目を落として傷跡に指先を滑らせながら呟く。


「異様だ……これがただの腐食でないのは明らかだ。ギルドにはこの異変についても知らせておこう」


 言葉に少し硬さを感じさせながら、カディンはロランとファーニャを見つめ、いつもより厳しい表情で言葉を続ける。


「……ファーニャ、しばらくダンジョンには入らないように」

「でも、お父様――」


 ファーニャが抗議しようとするのを制し、カディンは真剣な眼差しを向ける。


「お前もロランさんも無事だったからいいが、その黒い蔓のような存在が再び現れない保証はどこにもない。未知の脅威が潜む以上、今は慎重を期すべきだ」


 ファーニャは不満げだったが、父の言葉には従うべきだと理解したようで、小さく頷く。


「……わかりました」


 カディンはファーニャに念を押し終えると、再びロランのほうに向き直り、その表情をやや和らげた。


「それと、ロランさん。君が娘を無事に連れ帰ってくれたこと、心から感謝している」


 そう言って、カディンは給仕を手招きし、銀の盆に載せられた巾着袋をロランに差し出した。


「これは今回の報酬だ。この一件はくれぐれも他言無用で頼む。受け取ってくれ」


 ロランが巾着を手に取ると、驚きの表情を浮かべた。


《ずっしりしてる……》

{{それよりも、これ以上首を突っ込まないでくださいね……!}}

《わかってるよ……》


 エリクシルに釘を刺されたロランは、カディンに向かって静かに頷く。


「あの、盾、ありがとうございました。あれがなければ深手を負っていたと思います」

「盾が立派に仕事をしたようで、セイル氏も本望だろう。この傷を見れば彼の創作意欲も高まるはず」


 高価な盾の損害をまったく気にしていないようなカディン、むしろこれをきっかけに、と商人らしい顔つきを見せている。


《根っからの商売人だな……》

{{ふふふ、そうですね}}


 セイルガードを手放し、身軽になったロランの横にファーニャが並び立つ。


「……お父様、彼を送ります」


 カディンは娘の予想外の対応に一瞬大きく目を見開くと、その顔に穏やかな笑顔を称えた。


「あぁ、ファーニャ頼む。……よくやったな」


 ファーニャも静かに微笑みながら、ロランに向き直る。


「ロランさん、今日の訓練、本当に役立ったわ。もしよければ、また指導してもらえない? 今度はギルドの修練場でもいい。絶対に安全よ」

「……俺より……クルバルさんの方がもっと教えられることが多いと思いますけど」


 ロランは軽く肩をすくめて答えた。

 クルバルはその言葉を聞いて、びしっと背筋を伸ばす。


「……そう、まぁ、無理強いはしないけど、残念ね」


 ファーニャは少し寂しそうに面を下げた。

 彼女が気を許せる相手ができたことは喜ばしいことだろう。

 だが、ロランにはやるべきことがある。


 彼は皆に一礼をすると、ファーニャとクルバルに屋敷の外まで見送られた。


 *    *    *    *


 ロランは宿の自室に戻り、エリクシルの声を聞きながら再び考え込んでいた。


「これからどうすればいい……?」

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