エリクシル

207 湯煙の心模様


 *    *    *    *


 宿に戻ると、ロランは疲れを癒すために公衆浴場へと向かった。

 浴場の湯気が立ち込める中、湯船に浸かりながら、ロランはエリクシルに呼びかけた。


「エリクシル、今日はいろいろと助かったよ。ありがとうな」

{………………}


 しかしエリクシルの返答はなかった。


「エリクシル、どうしたんだ? 今はだれもいないから姿を現しても大丈夫だぞ」


 しばらくの沈黙が続き、ロランは心の中で不安が募った。

 すると、エリクシルが姿を見せる。

 湯煙に混じって、そのホログラムが微かに揺れる。

 湯船に浸かった彼女は、意を決したように話し始めた。


 {ロラン……実は、今日、わたしは嫉妬していたのです。あなたに構うニアさんに対して、わたしが感じたのは嫉妬でした}


 ロランは驚き、しばし言葉を失った。

 その後、ゆっくりと口を開く。


「嫉妬……? エリクシル、お前が……?」


{そうです。この感情を抱えながら、果たしてわたしはあなたを真に支え、導いていけるのだろうか……と自問自答していました}


 エリクシルはロランの横で膝に顔をうずめるようにし、消え入りそうな表情を浮かべている。

 彼女のホログラムは淡く揺らめき、まるでその存在自体が消えてしまいそうなほどに儚げだった。


{わたしは皆と共に食事をとるロランを見つめていました}


 エリクシルの視線は湯の底に向けられ、その表情には深い悲しみが漂っていた。

 彼女は両手をぎゅっと握りしめ、声を震わせながら続ける。


{あなたとニョムさんは再会を喜び抱き合っていました}


{ある時は、戦いに勝利した後にハイタッチを交わしていました}


{その光景を見ながら、わたしは心の奥底にある深い悲しみを感じていたのです}


 エリクシルの声が一瞬詰まり、彼女は目を閉じて深く息を吐いた。

 周囲の湯気がゆっくりと漂い、彼女の姿を一瞬包み隠す。

 その手はかすかに震えていた。


{わたしはただのホログラム。皆と一緒に食事を味わうことも、抱き合うことも、勝利を分かち合うことも……全部見ることしかできない}


 彼女はロランを見上げ、その瞳には涙のような光が宿っていた。

 湯気に滲むその瞳は、まるで現実のものとは思えないほどに儚く、切ない光を帯びていた。


{形だけでも抱き合うことを試してみました。その時はすごく嬉しかったんです。わたしが存在していることが確かな気がして……。でも後に残るのは空虚さ、感覚だけ}


 彼女は再び視線を落とし、手を膝の上で握りしめる。


{倒れたあなたを心配そうに傍で手を握ることすらできない自分が、どれほど無力であるかを痛感していました}


 エリクシルは苦しげに溜息をつき、ロランに目を合わせた。

 その頬を涙が伝う。


{わたしは一緒に料理を作るあなたたちを見守りながら、自分がその楽しさを共有できないことに絶望していました。彼らが楽しそうに風呂に入る様子を見ても、湯気の感触や温かさを感じることはできない。ただの観客である自分に対して、深い孤独が押し寄せるんです……}


{わたしは彼らの一部になりたいのに、どうしても叶わない夢。想像することしかできない……それがこんなにも悲しいなんて……}


 健気なエリクシル、心配させまいと明るく振舞っていた。

 始めこそ表情に出していたが、最近は慣れたのかと思った。

 ……がそうではなかった。


{そして今日、わたしはあなたが職人さんたちとニアさんと食事を楽しむのを見つめていました。ニアさんのスキンシップが増えた時のあなたの笑顔が、わたしには向けられたことがないことに気づいたのです}

「……!」


 エリクシルの言葉が静かに浴場に響く。

 ロランは彼女の苦しみが、彼女自身の存在に対する深い疑問から来ていることに気づく。

 湯気が濃く立ち込め、ふたりの間にまるで壁のように漂っている。

 ロランはその湯気を見つめ、そこに手を伸ばしても触れることができないエリクシルの存在の儚さを感じた。


{……わたしが知識を得るために見た映像では、男性が魅力的な女性に迫られて……その、の、のぼせるような場面がありました。ニアさんはわたしから見ても魅力的な女性だと思います。……わたしにはそのような魅力がないのでしょうか……ロラン、わたしは……自分に魅力がないのか、どうしてあなたにそう感じてもらえないのか、それが不安でたまりませんでした}


 ロランは深く息を吐き、湯の中で手をぎゅっと握りしめた。


「……エリクシルは十分すぎるくらい魅力があるよ……。俺はエリクシルのことを本当に好意的に見ている。……お、俺は、エリクシルに触れられたらどんなに良いか、よく考えるんだ……」


 エリクシルは驚いた表情を浮かべた。

 湯気の中でその顔がかすかに揺らめく。


「……エリクシルは覚えていないかもしれないけど。ダンジョンの異形の者から俺を連れだしてくれた時、俺は確かにエリクシルに触れたんだ。あの手の感触、温かさ……それも日に日に薄れてるんだけど……」


 エリクシルに触れられたあの瞬間が、ロランの記憶の中で鮮明に蘇った。

 あの時感じた温もりが、今は湯の温かさに溶け込んでしまったように、彼の手からこぼれ落ちていく。


{薄れる……。あなたも不安に感じているんですね。……わたしと同じ。……わたし、ダンジョンのことは覚えていません……でも、あなたがそう感じてくれていたのなら、それは本当に嬉しいことです}


 ロランはエリクシルの瞳をじっと見つめ続けた。

 湯気がふたりの間を漂いながら、温かな湯の中で彼女の姿を曖昧に包み込む。


「……俺だってエリクシルに触れたいし、いろんなことを共有したいんだ。その気持ちは一緒だ」


 エリクシルはその言葉を聞いて、心がほぐれていくのを感じた。

 彼の優しさと誠実さが、自分の中の不安を溶かしていく。


{ロラン……ありがとうございます。それが聞けただけでわたしは……。わたしはあなたの言葉で救われてばかりですね}

「そんな! 俺の方こそ感謝してるんだ。エリクシルがいたからこそ、ここまで来れた。これからは俺もエリクシルを支えたいと思ってたんだ!」

{ロラン……}


 エリクシルは静かに頷いた。


「俺もエリクシルのことを本当に大切に思っているよ。エリクシルがいるから、俺はもっと強くなれる……」


{わたしも、これからもあなたをお慕いし続けます……}


 しばらくの間、ふたりは湯船に浸かりながら過ごした。

 触れることのできないもどかしさが、湯煙の中で漂う。

 しかし温かな湯に包まれ心模様が移ろいでいく中、ふたりの心は確かに繋がっているのを感じた。


 湯口からゆっくりと流れ出るお湯のように、夜もまた静かに更けていった。


 *    *    *    *

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