第2話

 目を覚ました少女はたくさん食べた。山盛りのパンと干し肉とたっぷりのミルクを平らげた。

 これだけの量がその体のいったいどこに収まるのかとレベッカは目を丸くして、ただただ唖然と少女を見つめる。


 大口をあけてパンに食らいつく彼女の銀色の髪はつやつやで、新緑を想起させる瞳はらんらんと輝いている。先ほどまで死体のように横たわっていたとはまるで思えない。

 視線に気づいた少女はその薄い緑の眼をレベッカに向ける。若葉色の目がしっかりとレベッカを捉える。


「食事をありがとう。……えっと、僕の名前はセツだよ」

「ど、どうもセツ。私はレベッカよ」

「よろしくね」


 屈託のない笑顔を向けられ面食らう。こんなふうに人から笑いかけられたのは何十年ぶりだろうか。あっけらかんとした態度を、レベッカは人から向けられたことがない。


 セツは口の端についたパンくずを指で拭い、その指をなめている。レベッカをまるで警戒していない。

 自己紹介は済んだし、と彼女はまた大口をあけて山盛りの食事を頬張っている。レベッカを一瞥することなく、ひたすらにパンをちぎっては口に運ぶ。

 こんなふうに人の食事を見ることは久しくなかったので、ついまじまじとみてしまう。


 レベッカにきれいだと囁くとまた気を失った少女をなんとか家に運び、ベットに寝かせて見守っていた。

 その間、レベッカはいつ彼女が目覚めるのかと待ち遠しく、いつになく落ち着きなく、何度も毛先をいじったり、今もなく椅子を立っては座ってを繰り返し、何度も指で頬をつついた。しかし、また彼女はもう目覚めないのではないかと気が気でなかった。


「あなたは、行くあてはあるの?」


 生贄として差し出された以上、あの村にはかえれないでしょう、と言外に告げる。生贄という言葉を口にすることは避けたかった。

 セツは目を丸くし、ぽたりと手からパンを落とす。慌ててテーブルの上に落ちたパンを拾って口に放り込む。それからせきこみながらミルクを飲み干す。一連の慌てようにとまどう。


「ないよ。てっきり君が拾ってくれたものかと」

「え、セツ、あなた」

「レベッカ。……君はこんなにおいしいご飯を僕にふるまったのに、追い出すっていうの?」

「そ、それは……」


 まるでレベッカが悪いかのような物言いに、たじたじになってしまった。

 それに、セツをみていると、食事を必要としないのに、くうくうとお腹がなりそうな気がしてくる。


(わた、私は悪くないわ……。そもそも、私と一緒にいるべきではないのだし……)


「ひどいなぁ君は」


 そんなことをいいながら、満面の笑みを浮かべている。とろけるような、優しい微笑みがレベッカに向けられる。


「レベッカ、君にできないことが僕はできるよ。君を肩に乗せて散歩できる」

「そ、それができるからなんだっていうのよ」

「楽しいじゃないか」


 あっけらかんとそう放言するセツは裏表がなく、子供はそういうことが大好きだと信じきっている。線みたいに細められた目は幼子を見守るような慈愛が滲む。


「わ、私は、子供じゃないわ!!」


 頬が赤く染まる。自分の外見が年相応でないことはわかっている。ずっとむかしに、レベッカの外見の成長は止まってしまった。

 しかし、彼女はその姿形で何十年も歳を重ねたのだ。セツに子供扱いされ、ためらいと恥ずかしさで声が震える。


「100年以上生きているのよ」


 死んだ森。春の森とおそれられるこの森に、ヒトはレベッカだけ。自らの手元に視線をうつす。


 レベッカの前に食事はない。食事が置かれているのはセツの前だけだ。レベッカに食事は必要ないからだ。


「食欲もないの。なのに、村人たちが、私に食べ物をおいていくのよ」


 それは貢ぎ物だ。悪い魔女が出てきませんように襲ってきませんように、と村人は貴重な食料を春の森の前においていく。


「何年も、何も食べずとも生きてきたのよ」


 共に食べる人はいない。空腹も感じない。習慣的に続けていた食事をやめたのは、おじいちゃんがこなくなってすぐのことだった。

 セツは手を止めていた。顔がみれなくて、視線を下げて、セツの柔らかな手をみつめる。


「君は子供だよ」


 彼女の白い手がレベッカに触れた。レベッカの猫っ毛をやさしく撫でる。

 戸惑って顔を上げてしまうと、セツと目が合った。そのあまりにも真剣な目に気圧され、しばしたじろぐ。ちっぽけな自分を見透かされたようで胸がつまった。


「わ、わた、わたし、わたし、子供じゃ……」


 レベッカは日々を思い出す。暖かい日差しが窓から降り注いでは暮れることを。ぬるい空気の停滞と、飢えも渇きも老いもない起伏のないときを。増減のない動物たちの鳴き声を。それは気の遠くなるほどの時間で、レベッカはもう自分の齢を知らない。数えるのをやめてしまった。

 一人ぼっちで、退屈で、頭も目もくらくらしている。

 胸に空いた穴から、泥が溢れた。


「……あなたも、化け物になるのよ。この森にいれば、きっとあなたも化け物になる」


「君は化け物なのか?」


「そうよ。私は化け物よ。傷つかない。老いない。死なない。……母が、呪っている」


 この世界と私を。

 母は、父がいなくなってからずっとこの世を呪っている。私も呪われている。私のために、父はもう一度剣を握ったから。この子の未来に戦争はいらないから、と父は母に告げ、私たちを置いていった。私のせいで、母は父のそばにいられなかった。

 唇を噛み締める。耳の奥で悲鳴がこだまする。脳裏に、母の憎悪が焼き付いている。


 ――母は、何も許していない。


「傷も変化もないならば、発展はない。私は変化のない化け物だわ。村人たちに恐れられている不老不死の、化け物」


 くすんだ赤色の毛先を強く握った。指先が血の気を失い白くなる一方で、頭の中は激情が渦巻き荒れ狂う。


「私はあなたと違うのよ。あなたは年老いることができるもの。私と違うの」


 何もない机に視線を落とす。この椅子に座ったのも久しぶりだった。食事をしないレベッカはここに座る必要がなかった。

 たじろぐ様子もなく、セツはレベッカから目をそらさない。彼女の新緑の瞳は、全てを見透かすように、レベッカをずっと射抜いている。


「僕も化け物じゃないか。胸にナイフが刺さって死んだのに、今はこうして君と会話をしている。死んで蘇ったんだ、化け物に違いないよ」


 ハッとしてセツをみつめる。それが大したことではないかのような口ぶりだった。彼女の色の薄い唇は脂で艶やかにひかっている。


「二人で、化け物でいようよ」


 レベッカ、と優しい声が彼女の名を呼んだ。そうだ、長いこと誰にも名前を呼んでもらっていない。そもそも、セツを除いて春の森にすむ魔女の名前を知っているものはもうだれもいない。


 ひとひらの花弁がレベッカの机の上に落ちる。

 開け放たれた窓からさした光がセツを照らした。彼女の新緑の瞳は光をうけて瞳孔が細まっている。

 揺れるレベッカの眼をすくいあげるように、セツはレベッカの手をつつみこむ。


「わ、わた、私と一緒に、いてくれるの……?」


 静かにセツはうなずく。


「あなたは私を、嫌いにならない……?」


「もちろんだよ、レベッカ」

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嫌われ魔女、愛をしる ポン吉 @sakana_kumo

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