第7話 暗殺
侍女は小さな溜息をつくと、顔を追っていた布を取った。見間違える筈がない。姉さんだった。ついさっきまで、姉に会ったら色々と聞くことがあると意気込んでいた霧雨だったが、いざ姉を目の前にすると、言葉が胸につかえて出てこない。それもそのはずだった。飛鳥姉は十の時に大巫女に才を見込まれて修行に入った。年に一度は家に帰って家族と過していたが、それも修行が始まって三年くらいまでだった。修行が進み、禁秘の場所に移ってからは、ほとんど家族と顔を合わせなくなった。巫女の掟上、普段の修行中は、限られた人にしか姿を大っぴらにさらすことが許されていないため、里の神事の際に見る時以外は、飛鳥姉の姿をほとんど間近で見ることもなくなっていたのだ。霧雨にとっては5年ぶりの姉の姿だった。
「飛鳥姉は姫巫女になったのではないのか?」
「ええ。なったわよ。だからこの姿なの。」
「じゃあ、あの裳を着て担ぎ上げられているのは、なんだ?」
「あれも姫巫女よ。」
「一体どういう事なんだ」
混乱する霧雨と穂高を見ながら、姉は穂高の叔父と目で頷きあう。この様子だと隊長は姉が侍女だということを知っていたようだ。姉は短く言った。
「事情は後でしっかり説明するわ。まずは笛が優先。笛は私が呼びます」
そう言うと、飛鳥姉は空中に何か印のようなものを描いた。その印から金色の粉のような
ものが浮かびあがって来たかと思うと、それは一瞬で沢山の金色の蜻蛉の姿になった。光で出来た蜻蛉がさっと空気中に散っていく。所謂、巫女が持つという“不思議な力”というものを始めて目の当たりにした霧雨だったが、それは穂高や隊長も同じらしい。空中に金粉がまき散らされたかのような光景に、ほうと息をのむ自分達であったが、それをよそに、姉は空中に描いた印に片方の掌を押し当て、片方は人差し指と中指を口にたて小声で呪文を唱えている。霧雨は先ほど、傷を手当してくれた青年を思い出した。彼も“呪文”を唱えていた。巫女だけが持つ“秘儀”の力と思っていたが、案外そうではないのだろうか?頭の中で疑問が渦巻く。しばらくすると、何匹もの蜻蛉が笛を巻き付けた霧雨の矢を運んできた。白い絹にくるまれ、その上を額飾りで何重にもまかれている。確かに霧雨が放った矢だ。姉がさっと手を振ると、金色の蜻蛉は細かな金粉となってすべて消え、手元に矢だけが残った。飛鳥姉は丁寧に絹を開けると笛を確かめた。傷一つない、翡翠の小さな笛が光沢を放っていた。その笛を大事そうにまた絹にくるみ、袂に入れた姉は、矢を霧雨に返すと、三人に向き合って真剣な表情で言った。
「これから行くところは禁秘の場所です。限られたものしか出入りできない。こうなった以上、仕方ありません。申し訳ないけれど、一緒にきて力を貸して下さい。」
穂高も叔父も、もちろん霧雨も姉の頼みを断るなんてことは出来なかった。前を颯爽と行く姉についていくと、先ほどの開けた場所に出た。霧雨がまさに髪の毛の化け物と死闘を繰り広げた場所だった。
姉は泉の側に行くと、笛を取り出し、それに口を当てた。聴いたこともないような調べが奏でられた。限りなく優しくて、それでいてどこか切ないその調べは、たとえ、自分には帰る場所なんてないと考えている者の凝り切った心にも染み入るように浸透してその凝りを慰撫し、懐かしくて安心できる“故郷”を思い起こさせるだろう。穏やかな波打ち際にいるかの如く、安らぎや温かさが静かに心に打ち寄せてくる。そのような調べだった。しばらくすると、草の中から淡くて白い光がひとつ、ひとつ、とやってきては、姉を取り囲み、空へと舞いあがっていく。空から雪が降ってくるのではなく、地上から空に向かって雪が降っていくようだった。この調べとこの景色の中にいつまでもとどまっていたいという気持ちを起こさせる。空に舞い上がる雪のような光の中がつぎつぎと立ち現れてきた中に、ひときわ大きいものが姉の側に寄って行く。姉がそれに手を差し伸べると、それは一房の髪の毛になった。姉はそれを持っていた壺のようなものにそっと入れた。笛から口を離すと、蝋燭がきえるようにそっと調べが消えていく。すると白い光も一つ一つ消えていき、最後の一つも消え、あたりはしんと静まり返った。
―りん―という音が辺りに響き、三人は、はっと我に返った。姉はいつの間にか笛をしまい、入れ物に入れた髪の毛を片手に、もう片手には魔除けの鈴をつけた霧雨の太刀を持っていた。
「これは、あなたの太刀よね。返すわ。」
そういうと姉は霧雨に太刀を渡す。
「その髪の毛は……」
「そうよ。あなたが戦ったもの、これがその正体」
姉は陶器で出来た小さな壺を掲げる。骨を収める壺を小さくしたような形だった。この一房の、無害そうな髪の毛に自分が殺されかけたのかと思うと、なんとも言えない気持ちになる。
「その化け物は、笛はもともと自分のものだって言っていた。」
「……そう……」
肯定とも疑問とも取れない曖昧な返答をすると、飛鳥姉はその場で考え込んだ。しばらくすると霧雨に言った。
「この髪も、元を正せば悪いものではない。術で歪められてしまった期間が長すぎて、自分でももともとの姿を忘れてしまったのね。あなたには申し訳ないことをしたわ」
霧雨は何も言えなかった。姉は更に続けて霧雨に言った。
「あなたは知ってしまったから、それに巻き込んだのは私の責任でもあるんだけど、神殿に帰ったら話しておくべきことがあるの」
そう言うと姉は真剣な表情で霧雨を見つめた。姉の表情にただ事ではない真剣さを感じ取った霧雨は無言で頷くしかなかった。
「さあ、帰りま―」
途中まで言いかけた姉だったが、急に瞳孔が見開かれたと思うと霧雨に向かってゆっくりと倒れる。何が起こったのか全く状況が飲み込めない霧雨だったが、倒れて来た姉を自分の胸で真正面から受け止めざる負えなくなった。胸に姉の体の重さを直接感じる。
「姉さん?」
そのまま崩れ落ちる姉を支えようと姉の背に手を回すと、何か固いものが手に触った。その周囲はべっとりと生暖かいもので濡れている。しかもそれはじわじわと広がっていくのが手の感触を通して伝わってくる。信じられない思いで自分の手を眺めると、手のひらは真っ赤に染まっていた。血だ。
「姉さん」
慌てて姉の背中を見ると、背中に刺さっていたのは、真っ黒な太い釘だった。それが姉の左の鎖骨の下を貫通している。崩れ落ちる姉の体を抱えて動揺しきっている霧雨の目に、姉が背にして立っていた泉が映った。先ほどは鏡の表面のように美しく光りを反射していた泉だったが、今はその一部が黒く変わり、そこが不自然な形に盛り上がっている。黒い水は湖面に頭をつけて逆立ちをしたような人型をとっていて、それは姉が倒れたのを見届けると、そのまま泉の中に吸い込まれるように戻っていく。
「待て!」
あまりに受け入れがたい出来事に呆けたようになって身動きが取れずにいる霧雨の代わりに、咄嗟にそれに向かって矢を射たのは穂高とその叔父だった。
しかし、いくら矢をその人型に放っても、人型の実態は水のようで、矢はそれを通り抜けてしまうばかりだった。結局なすすべもなく、黒い水はそのまま泉の中に消えてしまった。霧雨は姉の背中からじわじわと流れ出る血を何とか押しとどめようと傷口に手を当てるばかりだが、霧雨の努力もむなしく、傷口からは新しい血がどんどん溢れ、もともと色白の姉の顔はますます白くなるばかりだった。
姉はうっすらと目を開き、霧雨に言った。
「お願い、私を急いで神殿に連れて行って」
刺さったところが大分悪いのかもしれない。姉の声はかすれ、一言言葉を発する度に、口の端からも血があふれる。
「姫巫女はお前が」
隊長はさっと穂高に指示を出すと、霧雨の肩に手を置き言った。
「急ごう」
神殿への道をどう帰ったかなんて、霧雨には記憶がない。道すがら何度も姉が崩れ落ちる瞬間の映像が糸巻きのように繰り返され、それを振り払うためにただ走った。霧雨を探しに来たことは穂高と隊長、そして、隊長の二人の側近しか知らない内密の事だった。夜も更けていたということもあり、留守を任された二人の側近だけが、篝火の番をし、返って来た霧雨達を迎え入れた。隊長の表情や青ざめている霧雨の様子から、大変な出来事が起こったと悟ったようだが、二人とも、表立っては動揺を見せずにきびきびと動いた。一人は姫巫女がいる奥の間に続く神殿の裏口に案内し、一人は薬湯を用意する。
奥の間にとされると、姫巫女の衣を着た見知らぬ女性がいた。ただならぬ様子を見て取ると、穂高に姉をそこに寝かせるようにと指示をする。女性がさっと手を振ると、空気の層がわずかに厚くなったような気がした。目には見えない帳が部屋を囲むように降りて来たような感覚になる。敷物の上に寝かせられた姉は、眉にしわを寄せて「うう」と苦しそうな声を出した。
「薬湯をお持ちしました」
ささやくような声と共に、わずかに開かれた扉から、姫巫女は薬湯を受け取ると姉のもとに急いだ。女の人は姉の頬に流れた血をぬぐい、姉の手を握る。そうして自分の胸に押し当て目をつむった。浅く早かった姉の呼吸が少し落ち着く。気が付いたのだろうか?姉はうっすらと目を開けると、女の人の手を弱々しく握り返した。
「飛鳥、釘を抜くわ。痛むと思う。大丈夫、私も分かち合うから」
女性が姉の耳元でそっと話しかけると姉はかすかに頷く。姉の呼吸が少し落ち着いたのを見て取ると、姫巫女は袂から鈴を取り出しリンと振った。すると今まで誰もいなかったところに姉と同じ侍女の服を着た女の人が立ち現れる。
「幽、飛鳥を横に」
幽と呼ばれた女性は姫巫女と共に飛鳥姉をうつ伏せにした。背中を確認すると、血でべっとりと濡れている衣を短刀で切り裂いた。姫巫女は袂から札を取り出し、釘に被せると呪文を唱える。幽はその間に飛鳥姉の口に薬湯を含ませた。それから舌をかまないように割いた布を口の中に入れて、その肩を抑えた。
「幽、しっかり押さえていてね」
そう言うと姫巫女は飛鳥姉の背中に刺さっている太い釘を一気に引き抜いた。痛みに耐えかねたのか、釘にかけられた何かしらの術が姉に別の苦しみを与えているのか分からないが、姉の体はばたばたと痙攣し、そのたびに幽は姉の肩を強い力で押し続けた。口に詰められた布越しに聞こえる悲鳴が痛ましい。赤黒い血が噴き出す。姫巫女の女性は急いで止血すると、その上に札を押し当ててさらに呪文を唱える。止血をするための布はあっという間に赤く染まり、それだけにとどまらず、その上の札さえも姉の血を吸って赤く染まっていく。
「姉は、姉は―?」思わず声が上ずったが、その後を続けて言うことが出来なかった。姉の尋常ではない苦しみ様から、姉が大分いけないことは霧雨にも手に取るようにわかる。だから、本当に容体を聞きたいわけじゃない。その先を問いかけた後、もはや霧雨の中で明らか過ぎる答えを誰かに否定してほしかったのだ。女性は一通り呪文を唱えながら、更に止血を行った。ただ、女性の努力もむなしく、衣はどんどん流れる鮮血で赤く染まり、霧雨はこのまま姉が体中の血を流し切ってしまうんじゃないかと気が気でならなかった。やっと血が止まったと思う頃には、飛鳥姉の顔は本当の死人のように真っ青になってしまった。しかし、先ほどに比べて穏やかな呼吸は戻ってきているようにも思える。姉の様子を見て取った女性がリンと鈴をならすと、姉の手当てを手伝っていた女性の姿は掻き消えた。続けざまに、女性は部屋にいる隊長、穂高、霧雨の三人を順番に見つめると、口に人差し指を当てた。
「密」
その女性が言葉を発すると、頭の中で太刀と太刀をこすり合わせたような高い音が鳴り響く。同時にその部屋が一瞬にして崩れ、また一瞬にして元通りになったようになった。これも姫巫女の不思議な力なのだろうか?
「霧雨さん」
女の人に呼びかけられた。よく響く澄んだ声だった。
「飛鳥は―、あなたのお姉さんは―できることはしましたが、状態はあまりよくありません―」
女性は唇を震わせてそこまで言い、最後まで言い切れずに目を伏せた。瞼の先にしずくが見え、体が震えている。
あっけなすぎる、あまりにも。喉元に鋭利な刃物を無理やり突き付けられているかのような受け入れがたい現実に、目の前が真っ暗になる。しかし、それ以上に目の前の女性の方が、自分で自分の言ったことに耐えきれないという様子で、肩を振るわせて嗚咽を漏らした。声を押し殺して泣いているのだ。まとう空気からびんびんと深い悲しみが伝わってくる。姉を想う自分以上に女性が悲しみに打ちひしがれていることが伝わってくるため、霧雨は自分の動揺をどこに持っていけばよいのか分からなくなってしまった。穂高も隊長も姫巫女の一人がなくなるかもしれないという、想定外の事態をどう受け止めたらよいのか分からず困惑している。女性は涙声で言った。
「ごめんなさい。あなたに笛を送ったのは飛鳥ではなく、私なのです。こうなってしまった以上、私はあなたに話す責任がある。この部屋には密をかけました。この話は他の人に聞かれることはないでしょう。」
相変わらず女性の声は震えていたが、その口調からは覚悟が伝わって来た。
霧雨奇譚 にこす玄 @nikosuke
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