第6章 邂逅
少しの間、気を失っていたのだろう。背中に当たる地面の感覚はなかった。温かい。ぼんやりと視界が戻って来た時に、飛び込んできたのは見知らぬ青年の顔だった。どうやら、上半身はその青年に抱えられていたようだ。
「気が付いたか?」
自分の体を起こそうと、とっさに右腕をつくと激痛が走った。その激痛により、先に起きた一切のことが思い出された。再び地面に倒れこみそうになる霧雨を青年が支えて助け起こした。親切は有難いとはいえ、見知らぬ人に全面的に助け起こされるのも気が引けた霧雨は、左手で体を支え、自ら起き上がる。後頭部がずきずき痛んだ。先ほどの衝撃で頭を打ったのだろう。首や脚をそろそろと動かしてみる。きしむような痛みはあるが、不幸中の幸いで、どうやら折れてはいないようだった。
―生きている。自分は生きている―
体の芯から深い安堵と喜びが湧き上がってきたが、その喜びを味わい尽くす前に、はっと我に返って霧雨は言った。
「笛、笛は?」
“笛”という言葉を聞いて、見知らぬ青年の表情がほんのわずかに曇ったような気がした。
「そなた、里のものか?」
逆に、青年に尋ねられた霧雨は、自分を助け起こしてくれた青年をまじまじと見つめた。瞬きをしているうちに、少しづつ視界が戻る。良かった、視力も何とか失われてはいない。年は霧雨の少し上だろうか。気品のある端正な顔立ちの青年が霧雨を見つめ返していた。その瞳は琥珀のような薄い色をしている。整った顔の輪郭をなぞるように覆っていたのは白銀の艶やかな髪だった。月明りに照らされて内から光を放っているような清浄な色合いは、霧雨に懐かしい風景を思い起こさせた。今の両親に引き取られて間もない時、夜中に悪い夢を見て何度も泣き叫びながら起きる霧雨に両親は胸を痛めた。日中は聞き分けがよく賢い霧雨だったが、そんな時は母がいくら宥めてあやしても、泣き止まない。姉が側にいてもダメ、しまいには夏彦も起き出してきて泣き出す始末で、ほとほと困っていた。それならば、と父は霧雨を一緒に連れ出した。真冬の時期であったため、母は幼い霧雨の体調を案じたが、父は、寒く無いよう毛皮の上衣を霧雨に着せて一緒に夜狩りに連れて行くことを決めたのだ。夜、しんと静まり返った世界で唯一と言っていい音は、父と自分が雪を踏んで歩くきゅきゅという響きとお互いの呼吸の音だけだ。音もなく降り積もったあたり一面の雪は、月あかりに照らされて銀色に光り輝き、昼のように明るい。背の高い木々の淡い影がそこに落ちる。優しい蒼をした影が幾重にも折り重なって幻想的な風景だった。雪は、さらに冷やされると、星のような氷の粒になるのだろう。銀色に輝く中に時折きらきらと眩しく光る結晶がちりばめられ、それは、それは息をのむほど美しい。この青年の髪の色は、霧雨が幼い頃に見た銀世界と同じ色合いだった。凛として美しく、厳かな雰囲気を湛えている。
懐かしい思い出と共に、目の前の青年を見つめていた霧雨だったが、青年越しに馬にのった男たちが青年の元に慌ただしくやってくる気配を感じると慌てて目を伏せた。よく知らない人に見入ってしまった自分が少し恥ずかしく、また失礼なことだと思ったのだ。
馬に乗った男たちは、十には満たない数であったが、その男たちを見た霧雨は一瞬で身を固くした。青年と同じ濃紺の衣を身に着けているが、誰が誰だか分からないように全員が顔の上半分を奇妙な面で覆っていたからだ。一目見ただけでも、何か訳ありの集団だろうと言うことが察せられる。
その中の一人が青年に歩み寄って耳打ちする。
「面を。我らがここにいることは、人に知られてはなりません。急ぎましょう、時間がない」
「分かっている。そう時間は取らない」
青年はそう言うと、きびきびとした動作で懐から薬らしきものを出した。霧雨の顎を持ち、顔を上向かせると、頬に薬を塗り、それから手首にも薬を塗った。じりじりと熱をもっていた皮膚に、ひんやりとした軟膏が心地よい。青年は薬を塗りながら、呪文を唱える。すると、右の手首がぼおっと青白く光り、貫通していた傷口から黒い煙が出て空中に消えていく。手首だけでなく、頬も不思議な温かさで包まれ、焼け付くような痛みがどんどんと緩和されていくようだった。霧雨は再び驚いて青年を見たが、青年は霧雨の表情を横目でさっと一瞥しただけで霧雨の手首に再び視線を戻す。そして、傷口の具合を慎重に確かめてから立ち上がると霧雨に言った。
「毒は除いた。骨はそれていたから、多少時間はかかるが元通りになるだろう。そなた、幸運だったな」
「急ぎましょう」
一緒にいる男たちは彼の部下なのだろう。随分と急いでいる様子だ。その中の一人が声を落として再び青年に呼びかけた。青年はそちらに向かって頷くと、彼自身もまた顔を隠すために面をつけた。人に見られたくないとでもいうように、髪の毛もまとめて濃紺の被り物覆ってしまう。青年は馬に飛び乗り、手綱を巧みにさばいた。
「破魔の矢は一時しのぎにすぎぬ。そなたも早めにここを去れ。」
そう言うと、驚くような速さで仲間を引き連れて足場の悪い路を慌ただしく、里の方向へ駆けていく。何か特別な術でも使っているのだろうか。なんて早い馬なのだろうという感嘆と共に、あの青年たちは一体何者なのか、や、この山に馬で走れる自分達の知らない道でもあるのだろうか等、色々な疑問が頭をよぎり、はっと気が付いてそれが口をついて出かけた時には、一行の姿はとうに見えなくなっていた。霧雨は茫然としてしばらく彼らが去った方向を見ていた。
風が、さらさらと何事もなかったかのように音を立てて草を揺らす。あっという間の出来事過ぎて、それ自体が夢のようだったが、夢ではない証拠に、自分の手首にはうっすらとした痣があり、不思議とそこはぼんやりと温かい。それを見ていると、今まで味わったことのない不思議な心持ちになった。
―神殿に帰ろう―と霧雨は思った。ひとまず生きていることに安堵していたが、守ると誓った笛をこれから探さなければならないという大仕事がまだ自分には残っている。そして、姉に直接、笛の事を尋ねなければならない。里に伝わる笛の存在は知っていたが、その役割や聴き人との関係など、これまでは自分が知らないことで、知る必要もないと思っていたことだった。ただ、こうなった以上、何故こんなものを自分に預けたのか、やはり姉の意図を知りたいところだ。もちろん信頼し、憧れを抱く姉ではあるが、霧雨は聖人ではない。事なきを得たとはいえ、実際に死の恐怖を味わった以上、笛を預かったことで巻き込まれた災難について姉に文句の一つも言いたいというのが本音でもあった。
霧雨は里の中では弓の名手であると言っても、超自然的な力を持つわけではなく、あくまで人の子である以上、もちろん万能ではない。化け物から笛を遠ざけるために、神殿の方向に笛を結び付けてとっさに矢を放ったものの、それが神殿まで届くはずもないことは、当の霧雨自身が百も承知だった。額飾りが目印にはなるかもしれないが、それでも周辺のめぼしいところを探して歩く羽目になるだろう。
霧雨はのろのろと立ち上がると、重たい体を引きずって、神殿の方に向かって歩き出した。傷口のうずきは先ほどので大分よくなったとは言え、化け物と死闘を繰り広げた後なのだ。すぐにでも倒れこんでしまいたいほどの疲労感を抱えていることは間違いなかった。
何とか泉のある開けた場所を抜けようとした矢先、遠くの方にちらちらと明かりが見え自分を呼ぶ声が聞こえる
「おーい」と手をふって答え、急ぎ足を引きずってそちらに向かいながら、何度か声を張り上げて叫ぶと、それを聞き取ったのだろう。松明の明かりが徐々に近づいてきた。「霧雨」と呼ぶ太くてよく通る声は、もちろん穂高であったが、目を凝らすと、穂高の他に隊長と侍女の一人がこちらに向かってくる。合流まではそんなに時間がかからなかったが、幼馴染とその叔父の見知った姿を見た瞬間、安堵と疲労が込み上げてくる。一方、穂高や穂高の叔父の隊長は、霧雨が満身創痍の姿をして血走った眼で、自分達と合流するなり「笛、笛を」と真剣に言い募るので、何が何だか訳が分からずに目を丸くした。侍女だけは何があったのかを悟ったようだった。穂高が、神経が高ぶった獣のようになっている霧雨に手を貸して木の影に座らせると、同行していた侍女は竹筒に入れた薬湯を霧雨に飲ませた。苦くて甘いどろっとした液体が喉を滑り落ちる。霧雨は昔からこの味が苦手だったが、それでも傷には一番よく効くし、気持ちが落ち着く効果もあるのだ。
「篝火の番をしていたお前が調子が悪そうだから、天幕に水を取りに行ったんだ。そうしたらお前が太刀を振り回していて、見えない何かと戦っているようだった。急いで叔父に知らせて、姫巫女に伝えたんだが、その時、既に結界から走り去るお前が見えてさ。慌てて追っていたんだが、全然姿が見えなくなってしまったんだ。神隠しにでもあったようだった。ただ、ところどころお前の矢が落ちていて、それを辿ってここまで来たんだ。笛と言っていたな?いったい何があったんだ?」
霧雨は、神殿で体験したこと、開けた場所にある泉、髪の毛の化け物との死闘、笛の事、助けてくれた見知らぬ青年の事、自分の身に起きた一連の出来事をかいつまんで話した。
霧雨の話を聞いていた穂高や叔父は、一緒に笛を探すと言ったが、それを遮るように今まで黙っていた侍女が言葉を発する。
「その必要はありません」
その声を聞いた霧雨ははっとして思わず叫んだ。
「飛鳥姉?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます