第5章 決着
「あああああああああああああ!」
聴いたものが思わず耳をふさぎたくなるほどの叫び声が辺りに響き渡った。同時に疾風が起こり、その叫び声が木々のざわめきにかき消されて空気に溶けていく。どさっという重たい音と共に、地面に倒れたのは霧雨の方だった。否、自分から倒れこんだのではなく、倒れこまされてしまったともいえるだろう。太刀を持つ右腕に経験したこともないような激しい痛みを感じたために、我慢できずに悲鳴を上げてしまったのだ。腕にはしった激痛のせいで、呼吸もままならない上に、腕が重くて地面に倒れたまま身動きが取れなくなった。起き上がろうとすると、右の前腕に言葉にならないほどの痛みが走り、あまりの痛さゆえに視界が歪む。いったい全体、自分に何が起こったのか、全く分からなかった。首を傾けて右腕を見ると、女に向かって振り上げられた太刀は霧雨の掌に握られたまま、手首を髪の毛の束が貫通し、そのまま地面に突き刺さっていた。許しがたい罪人が、腕に太い釘を打ち付けられ磔にされているかのようだ。磔にされている場所が地面であり、手首を貫通しているのは釘ではなく髪の毛だという違いこそあったが、今の状況が処刑をされる直前の罪人のようになすすべもない状況であるということは変わりなかった。利き腕を地面に磔にされている以上、腕を肘から切り捨てるか、手のひらにかけて割いてしまわない限り、起き上がることすらできないだろう。
先ほど、形勢逆転かと思われた状況はあっという間に覆されてしまっていた。女が地面から起き上がると、女の袖から一房、長い髪の毛が見えた。それが霧雨の手首を貫通していたのだ。女は地面に倒された霧雨の右腕を踏みつけて高笑いをする。歯を食いしばっていないと、痛みに気が狂いそうだった。もはや霧雨の生死はこの化け物の掌中にあるということを化け物自身も確信しているようだ。笛を追いかけていた髪の毛が体の方に戻ってくると、その中央にもやもやとした白いものが浮かび、先ほどの女の顔となった。女は霧雨の苦痛に歪む顔を心底楽しそうに見下ろしていた。この表情を直接霧雨に見せ、より一層の精神的な打撃を与えたいがために、顔の形を取ったのだろうと思わせるような嬉々とした表情だ。体の底から湧き上がる喜びをこらえきれないというように女は笑って言った。
「ふふふふふふ、あははは。痛いよのう?わらわの髪には毒がある故。先ほどの表情はなかなか良かった。そなたの信じられないというあの顔と苦痛に歪む顔じゃ。わらわの髪は先ほどまで笛を追っていた。なのに、どうしてそなたの腕を刺せるのじゃと思っているのだろう?そなたの疑問は手に取るようにわかる。わらわはね、体を守るために、いつも一房は髪を残している。万が一のためじゃ。気が付かなんだか?」
自らの勝利を確信しているのだろう。女は霧雨をあざ笑い、尚も続けて言う。
「そなた、命に代えても守るといった側から、笛をおとりに使ってわらわを狙うとは。よく考えたものよ。おそらく鈴をつけた矢でわらわを試したのだろう。わらわが体を守ったから、わらわの弱点は体にあると確信したのじゃ。山の道の中ではわらわが力を使えないと思い、笛はあえて山の方に飛ばした。わらわが笛を優先しておいかけるだろうと見込んでの事だろう?そのすきにわらわの体を始末しようと考えたのじゃな、賢い、賢い」
言葉には明らかな皮肉が込められていたが、それだけでは足りないというように、化け物は、踏みつけている霧雨の右手首にさらに深く髪を突き刺す。霧雨の表情は苦痛に歪み、固く引き結ばれた唇の端からうめき声が漏れた。
「じゃが、しょせんは子どもの浅知恵。確かに体はわらわの弱点ともいえるが、わらわが、それを考えなしにその場に残すと思ったか?もっと言えば、わらわにたばかられたと思わなんだか?そなた、笛が何かも知らぬのだろう?笛を持つそなたを、わらわは多少の力で脅すことは出来ても、致命傷を与えたり、殺すことは許されないのじゃ。笛や笛の主を壊すことは、わらわ自身を壊すことだから。それをわざわざ自分の身から離すとは、なんと愚かなこと」
女は残酷さと悪意を煮詰めたような歪んだ笑みを浮かべ、霧雨を見下ろすと冷たい声で言った。
「わらわは笛が欲しい。力を取り戻すには笛がいる。それに、そなたが自分で笛を遠ざけてくれた故、好都合じゃ。そなたを喰ってからでも、笛を手に入れるのは十分、間に合う。そなたの仲間がそなたと笛を追っているかもしれぬが、あの山の中じゃすぐには見つけられまい。笛はもともとわらわのものじゃ。痕跡を辿ればすぐに見つかる。笛さえ手には入れば、姫巫女などは怖くはない。」
笛について確かに霧雨は全く何も聞かされていない。だから、化け物が語ることも全く知らなかった。だがもはや笛が手元にない以上、その真実を知ったところでどうしようもない。それに、笛を自分が持っていたところで、この化け物をどうすることも出来ない以上、やはり、どうにかして姉にそれを渡すのは自分の責務のように思えた。
「終わりじゃ」
そう言うと、女の顔を取り囲んでいた髪の毛は黒い蛇のようなものに変わった。それが自分の喉をめがけて襲ってくる。一瞬が永遠とも感じられるほどに時間が引き延ばされた中で、身動きが取れない霧雨は、この蛇の牙で自分は喉元をかみ砕かれて死ぬのだろうと冷静に考えていた。空を見上げると、女の残酷な顔越しに、きらりと光る星のようなものが音もなくこちらにまっすぐ落ちてくるのが見える。
それこそ、まさに、霧雨の最後の切り札だった。
-お前は間違っている-霧雨は心の中で思った。霧雨がおとりにしたのは、笛ではない。自分の命だ。自分が女を殺し損ねたとしたら、女は自分を殺すだろう。武器がない以上、その時は髪の毛で自分を刺し殺すはずだ。先ほどから、執拗に自分に攻撃を仕掛け、脅し、嬲ることを楽しむ残酷な化け物だ。霧雨が笛を持っていた時は、笛のおかげで致命傷を与えられなかったにしろ、化け物が人の苦痛を喜びとする残酷な性質であるのは変わりがない。それであれば自分を殺す瞬間は愉悦に浸り、隙が生まれるはずだ。自分が死んでも確実に女をしとめる。仕留めるのは難しくても、少しでも長い時間、この場に留め置く。だからこそ、化け物の弱点を探るために、鈴をつけた矢で女の心臓を狙ったのだ。どこが弱点かを知るだけなら、女がどこを守るかをみればよいだけだが、霧雨は正確な距離を知りたかったからあえて鈴をつけて矢を射た。それから、時間差を考え、最後の矢はあえて高い位置に放った。落下の威力も加えて確実に心臓を貫くために。
ただ、先ほどから自分達の立ち位置が代わり、当初、ねらいを定めた位置から微妙にずれてしまっている。これでは、心臓を貫くのは難しいかもしれない。
―これまで、なのか?―
霧雨が目を閉じると、様々な思いが胸の中にあふれて来た。両親を亡くして不安でいっぱいの霧雨を優しく家族として迎え入れてくれた母、寡黙だが強くて安心感のある父、夏彦とのけんかと仲直り、弓を父に教えてもらい、霧雨の初めての獲物で家族一緒に食事を囲った時の事、幼い霧雨の手をひいて、夕焼けの道を歩く姉の背中、聴き人になるために修行に出ると言った時の姉の強い意志を宿した輝く瞳-こんなところで、終わるはずではなかった。否、終わって良いはずがなかったが、もはや何も考えられなくなり、目をつむった。
どすっと何かが突き刺さる音が近くでしたものの、全く痛みは襲ってこなかった。顔に水滴がかかったような気がして、恐る恐る目を開けると、女の左目に霧雨の放った矢が貫通していた。そこから飛び散った黒い血が自分の顔にかかっていたのだ。それだけではない。見知らぬ矢が女の側頭部から反対側の側頭部に貫通し、女の顔を串刺しにしていた。
「ぎゃああああああ」
金切り声を上げたのは、今度は女の方だった。頭に二本の矢が貫通しているのにも関わらず、まだ生きて悲鳴を上げていた。
側頭部を貫通している矢には、霧雨が見たこともない不思議な文様が描かれた和紙が貼り付けられている。特殊な札のようだった。その効果なのだろうか、女の側頭部からは何かが焦げたようなにおいがし、そこから黒い煙のようなものが出ていた。女の顔が少しずつではあるが、黒い煙とも砂ともつかないものになっていく。それと共に、矢にかかれている不思議な文様も端からゆっくり火で焼かれているかのように形を失っていく。
何が起こったのか分からないまま、霧雨が呆けていると、低く澄んだ男の声が聞こえた。
「札は長くは持たぬ。早く太刀で胸を刺せ」
はっとして右腕を見ると、手首を貫通して霧雨を地面に打ち付けていた髪の毛は消えていた。悠長に呆けている場合ではないと極限状態の本能が霧雨を動かしていた。霧雨は何とか起き上がると、感覚を亡くしている右腕の代わりに左で太刀を拾い上げ、右の掌に持たせて左手でそれを強く握った。全身の力をこめ、女の胸を刺した。そこに肉の感触はなかった。女の胸から黒い煙がどっと噴き出したかと思うと、耳をつんざくような叫び声と共に、ものすごい爆風が起った。その風を真正面から受けた霧雨の体は、まるで濁流に飲み込まれた木の葉のように、その勢いで軽々と吹き飛ばされてしまった。
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