第4章 正体
ぎょっとしてひっこめようとした霧雨の手を、すかさず姉がつかんだ。今まで煌々と辺りを照らしていた月をどこからともなくわいた暗雲が覆い隠した。
「どうしたの?私の言うことがきけないの?楽にしてあげると言ったじゃない」
華奢な見た目からは想像もできないような力で、その指はじわじわと霧雨の手首を締め上げた。霧雨の骨がきしむ。もう姉ではないのは明らかだった。頭の中で鳴り響く鈴の音に意識を集中して目の前の姉を見直すと、姉だと思って眺めていた人は似ても似つかない別の女性であると気付いた。化粧が落ちるように、姉だと思っていたものは徐々に別の姿に変わっていき、ついに、自分が全く知らない別人の女性の顔になった。
「お前は一体何者だ?」
すっかり頭が冷えた霧雨は、手首を掴まれながらも、じりじりと後ずさった。体だけは女と距離を取り、先ほど落とした太刀の位置を視界の端で捉えると、女の隙をついてさっと太刀の方に手を伸ばす。すると、太刀はまるで霧雨をあざ笑うかのように霧雨から遠ざかり、生き物のようにするすると女の足元まで滑っていった。その太刀を女は足で踏みつける。驚いて目を見張ると、女は心底面白そうに霧雨をみて、くつくつと笑った。
「何故、太刀を取るの?私を疑うなんて、悪い弟ね」
「お前は姉ではないだろう?」
目の前の女を睨みながら霧雨は声を荒げる。
「あら、化粧が落ちてしまったか。あのまま、幻夢の中で笛を渡していれば、苦しまずに自分の見たい夢の中に一生いられたものを……。さあ、もう逃げられないから、素直に笛を渡せ」
女は悠々と言った。霧雨など、取るに足りないものと思っているのだろう。力の差がありすぎる故の余裕ともとれる言動を見せつけられると、霧雨の中で恐怖よりも怒りの方がこみあげてくる。
「お前は、何故俺が笛を持っていると思うんだ?」
「馬鹿なことを。そんな分かり切ったことを何故聞くのじゃ?そなたの姉から託されたことを、わらわが知らぬとでも思ったかえ?」
「俺が既にそれを姉に返したとは思わないのか?」
きょとんとした表情を一瞬浮かべた女は、からからと笑った。
「あははは。とんだ嘘で姉をもおとりにするのか。無駄なことじゃ。わらわは、もともとその笛の正式な持ち主なのだぞ。どこにあるかくらいは、はっきりと感じ取ることが出来るのじゃ。さあ、わらわに寄越せ」
霧雨は真正面から女の目を見据え、きっぱりと言い放った。
「命に代えても笛は絶対に渡さない」
霧雨の覚悟を“子どもが大人に駄々をこねている”としかとっていないように舐め切っている女は、逆にそう言われるのを待っていたとでもいうように、目を三日月のように細め、にたにたと残酷な笑みを浮かべた。口元からは黒い髪の毛が蛇の舌のようにちらちらと出ている。
「ああ、嬉しい。嬉しいのう。実はのう、素直に笛を渡されたら、どうしようかと思っていたのじゃ。」
霧雨に怪訝そうな表情がよぎったが、女は全く関係ないとでもいうように、くつくつ笑いながら霧雨に向かって言った。
「笛を渡さないというのなら、殺して奪うしかないではないか?わらわは忠告したけれど、そなたは渡さない。仕方がないから殺して奪う。のう?のう?そなたもそう思うぞえ?」
霧雨に意見など求めていないのは明らかだった。自分の考えにかなり興奮しているのか、尋ねておいて返答は待たず、女は嬉々とした表情で、一人でぶつぶつと呟いている。
「強情で笛を取り上げるには殺すしかなかった……そういえば、きっとあのお方も納得なさるじゃろう。わらわはそなたを食いたい。そなたの力が欲しい。久しぶりの美味な食事じゃ。目覚めたばかりで術にやすやすと引っ掛かってしまうそなたに、勝ち目はないぞ。」
そういうと、女の顔は口元からぱっくりと二つに裂けた。そこから大量の髪の毛が束となって霧雨に向かってくる。手首をねじってとっさに身をかわしたが、髪の毛が頬にかすると、ちりりと痛みが走り、血が頬を伝うのを感じた。鋭い釜で切られたかのようだ。しかも、毒でも塗ってあるかのように、切られた傷口がひりひりと痛む。正面から受けていたら即、息の根を止められていただろう。先ほど、女の姿だったものは、女どころか、もはや人の姿すらしていなかった。体の上に顔はなく、首から上は黒い炎のように髪の毛が立ち上がり、それが先端に行くにしたがって数十もの細かな束に分かれ、それぞれの束が鎌首をもたげた蛇のようにゆらゆら揺れている。それらが代わる代わる、次々と霧雨に襲いかかった。右に左に飛び退って辛うじて身をかわす霧雨に対し、追い打ちをかけるように女の声が頭の中に響く。
「弱いのう、弱いのう。先ほどからそなたは逃げているだけではないか。何も出来ぬそなたはわらわにとっては赤子のようなもの、ひねり殺すなどたやすいのよ。」
悔しいがその通りだった。先ほどから完全に髪の毛の化け物に翻弄されてばかりだ。化け物が、わざわざ太刀を気にして霧雨から遠ざけたことを考えると、太刀や弓矢などの攻撃を多少は警戒しているようではあるが、効果のほどは定かではない。しかも今、霧雨の太刀は女の足元にある。背にはいつも背負っている弓の気配を感じるが、これは霧雨の切り札ともいえるものなので、むやみに持ち出して却って相手に気取られることは避けたかった。逃げ続けるだけで、やられてしまっては元も子もないが、反撃をするにしても、武器の効果が定かでない以上、適当な時分を見極める必要はあった。それに今優先すべきこととしては、何とかこの笛をあの化け物に渡さずに守り切って、安全な神殿に持ち帰ることだけだ。聴き人である飛鳥姉であれば、笛の力を借りて、あの化け物を何とかできるかもしれない。化け物の攻撃をかわしながら、死角になりそうな岩や木立を探し、そこに隠れて体制を整える。ひとまず、確実にあの化け物をここに足止めする方法を考えなければならない。とにかく時間を稼いであの化け物より先に神殿を目指すのだ。どう楽観的に考えても、無傷で逃げ切れると思えない絶望的な状況でしかないが、それしか方法がなかった。霧雨は覚悟を決めると、全速力で走り、近くの岩に身をひそめる。それまで身を躱すだけであった霧雨が突然走り出し、岩の後ろに隠れたことをみて、化け物はあざ笑うように言った。
「無駄なことを……そこに隠れてどうしたね。どれ、どれ」
時間はあまりない。霧雨は急いで懐から絹に包まれた笛を取り出し、音がしないように鈴を手のひらでくるむと、魔除けの鈴が括りつけている組みひもを歯でかみ切った。笛の方は絹でくるんだ後、布がめくれて笛が傷つかないよう、額飾り細い紐を何重にも巻き付けた上で懐にしまう。同時に素早く背負っていた弓に不具合がないかみて、矢の本数を確認すると、筒に残された矢は5本もなかった。おそらくここに来るときにでも落としたのだろう。運が良ければ、それを追って穂高が応援を連れてここまで来てくれる可能性もある。
弓をぎゅっとつかみ、隙を伺いながら息を殺して岩陰に身を潜めていると、化け物は心底馬鹿にした様子で霧雨に尋ねた。
「来ないのかえ、それなら、仕方がないねえ。」
先ほどは小さな蛇が沢山うごめいているかのように見えた髪の毛が一つにまとまり束となって振り上げられ、鞭のようにしなりながらこちらに向かってきた。とっさに岩陰に身をかがめると、頭上でものすごい音がして、ぱらぱらと砕けた小石が上から降って来る。見ると岩の半分が砕け飛んでいた。
―驚いた。なんて威力なんだ-
細身の女の胴体から出ているものではあるので、束と言っても人の胴くらいの太さだ。普通であれば、いくら束になったところで、岩の半分が砕け散る様な力は出せない筈だった。
ただ、分かってきたことがある。何故、女が霧雨を神殿から遠ざけた後、山道では髪を使わなかったのか。威力はあるが、細かな束すべての動きを自在に調節できるわけではないのかも知れない。ここを出て、山の中に入ってしまえば、あるいはもしかしたら……この状況を生き延びるため、必死で頭を巡らす。
化け物から距離を取り、元来た道を目指すために、出来るだけ、その近くにある、身を隠せそうな岩陰を目の端で捉えると、そちらに向かってまた全速力で走った。化け物はそのたびに髪の毛を鞭のようにしならせて岩を砕く。岩を叩き潰せるくらいの威力であるので、霧雨を殺そうと思えば一撃で殺せるだろうが、女があえてそれをしないのは、霧雨をいたぶるのが目的なのかもしれない。人の心を失った化け物とはいえ、わざと獲物をなぶり楽しむような残酷さに改めて怒りが沸き、心の中で悪態をつく。恐怖が怒りに変わり、怒りが全身に満ちる。体は熱いが、どこか頭の芯がさえて冷静に状況を観察する自分がいた。
よく見ると、髪の毛自体は束になったり離れたりと自由自在で俊敏だが、化け物の胴体の方はあまり俊敏とは言えないようだった。髪の毛に行く方行く方に引っ張られると、その勢いを持ちこたえられずにたたらを踏む。酔っぱらって足元がおぼつかなくなっているか、目隠しをしてよたよたと頼りない子供のようだ。腕をまえにつきだして、ふらふらとおぼつかない足取りで、ゆっくり霧雨のいる方にやってくる。
霧雨は、さらに山道近くの岩陰に全速力で走って隠れ、二本、矢を取り出すと一方の矢羽の形を別の矢尻で整えた。魔除けの鈴を結び付け、向き直ると女の体にねらいをつけて放った。耳元で弦がたわみ、勢いよく矢が放たれた。ひゅんと風を切る音がする。矢は綺麗な放物線を描きながら、女の胸元をめがけて飛んで行く。全身を集中させ、一、二、……と心の中で数を数えた。
びゅんびゅんと音を立てて、今、まさに霧雨の隠れていた岩を打ち砕こうとしていた髪が、急に向きを変えて、自分の体の方に戻っていく。そして女の胸に矢が刺さろうという瞬間、すんでのところで、その矢をはたき落とした。
りんと鈴の音がし、すぐ後に竹が折れる音がきこえた。矢がおられたのだろう。
鈴の音が聞こえた瞬間、霧雨は瞬きをするよりも早く、つづけざまに山の神殿の方に向かって二本同時に矢を放ち、その後、もう一回、空に向かって矢を放った。音を聞き、それぞれの矢の方向の確認すると、自分は女の方に向かって全速力で走りだす。
「無駄なことを……なにっ」
女は言い終わる前に急に、体の向きを変えた。髪の毛は一瞬戸惑っていたようだが、放たれた一本の矢を目指して、束になって追っていく。よく見ると、矢には白い布で覆われた何かが括りつけられていた。
一方、もう一つの矢の方は、ちょうど女の足元に落ちていた太刀に向かって飛んで行き、太刀を空中に弾き飛ばしてそのまま地面に突き刺さった。太刀は空中でくるくると回転し、放物線をえがいて落ちて来た。全速力で走った霧雨は、その太刀を取り、女の脚を薙ぎ払う。どさっと鈍い音がしたかと思うと、女の体はあっけなく地に仰向けに倒れた。その反動で矢を追っていた髪の毛の軌道が矢からわずかにそれる。先ほどの鞭のようにしなって方向をかえ、こちらに来る黒い影が見えた。霧雨は素早く女の胴体にまたがると、矢を女の首元に押し当てた。急所を押えられた蛇のように、女の胴体はすごい力でのたうち回り、霧雨を振り落とそうとする。霧雨も負けじと自分の膝の間に女の肩と二の腕を挟み込んだ。暴れまわるが、身動きが取れない女は怒り狂い、更に激しくのたうちまわる。生きるか死ぬかの極限では、相手に躊躇っている余裕なんてない。霧雨は左手と右膝で首を抑えている矢に体重をかけ、右手で太刀の柄を握りなおすと女の心臓をめがけて一気に刀を振り下ろした。
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