第3章 異変
背の弓を急ぎ番え、警戒しながら篝火の向こうを目を凝らしてじっと眺めてみるが、そこには暗がりしかなかった。篝火の炎が音を立てて爆ぜ、その瞬間、細かな火の粉が当たりにぱっと散ると、地面に映った霧雨の影も揺らぐ。しばらく暗がりを眺めていたが、相変わらず奥に広がるのは闇ばかりで、獣の気配すらない。ずっと眺めていると、そこの見えない深い井戸をのぞき込んでいるかのような気にさせられる。
先ほど、女の影だと思ったのは見間違いでもあったのかと思いなおして、番えていた矢を下ろし一呼吸置くと、霧雨が矢を番えているのをみてとった穂高が慌てて向こうから駆け寄ってくる。
「なにかあったのか?」
「いや、大丈夫だ。単なる見間違いだったようだ」
そうはいうものの、霧雨のこめかみに流れる汗をみた穂高は、水でも飲ませた方が良いのではないかと判断し「水を取ってくるから、ちょっと待っていろ」と言うと天幕の方に走っていった。
篝火の炎に照らされて、走る穂高の影は長く伸びて地面に映る。その姿を見た霧雨はふと違和感を覚えた。ここには自分と穂高と二人しかいないはずなのに、地面にぼんやりと映るあの影は一体なんだ?一瞬にして冷や水を浴びたように背筋が凍る。しかも、その影はゆらゆら揺れると霧雨の方に近寄ってくるではないか。慌てて辺りを見ても、そこには誰がいるはずもなく、ただしんとしているばかりだった。人がいないのに地面にぼんやりと映る影だけがあった。それはゆらゆらと揺れ、手探りで母を探す赤子のようによたよたと霧雨のいる方へ寄ってくる。慌てて太刀を抜いて構えていると、突然地面の下で何かが沸騰するような音がし、土が盛り上がった。土竜かなにかだと思いたいところでもあったが、そうでは無いことは明らかで、それは霧雨をめがけ滑るように向かってくる。地面が不自然な形の線状に盛り上がり、蛇行しながらすごい勢いで自分に向かってくるのを見た霧雨は、誰に教えられたわけでもないが、本能的に剣を構えたまま飛びのいた。すると、今度はそれが二つ、三つに分かれて、よける霧雨を逃がさないというばかりに方向を変えて再び襲いかかって来た。霧雨を四方から追い込む算段だろう。確実に標的を見定めている動きだ。俊敏さには自信がある霧雨だったが、よける度に正確にねらいをつけて、更なる素早さでいくつかに分かれてくる目の前のものは、正体も分からず、とても厄介で、太刀を振るう間もないような状態だった。姿形は見えないが、土の中で頭がいくつもある蛇が獲物を求めて暴れまわっているようだ。辛うじてよけられているが、それでもこのままよけ続けるだけだと確実に体力を消耗するばかりだ。かといって、得体のしれないものに対していかに反撃すればよいのかも定かではない。今は確実に追われているのが自分だけだが、下手な攻撃が返って相手の逆鱗に触れ、今以上に暴れまわることになると、神殿や天幕の方まで被害が及びかねない。そうすれば、姉にも危険が降りかかる。どうしようかと考えあぐねていたところ、突然、足元の土がぐっと盛り上がった。考える間もなかった。そこに太刀を突き立てたところ、それは激しくのたうちまわり、渾身の力をためたかと思うと、土の中から一気に噴き出した。怒りの咆哮を上げるかのような勢いで吹き出した目の前のものは、驚いてそれを眺める霧雨の頭上を遥かにこえていく。激しく燃え盛る黒い炎のようだったが、よく目を凝らしてみると、その正体は大量の髪の毛だった。黒くて長い髪の毛の一本一本が意志を持つようかのように蠢いたかと思うと、いくつかの束になって霧雨を襲ってきた。まるで、あっと言う間に、太刀や足元に巻き付き、霧雨の胴までも這い上っていく。蛭が体を這うかのようにぬめっとした感触は気持ち悪い事この上なかった。
普段は冷静な霧雨も、度を越したあまりの出来事と感触の気味悪さに、まとわりついてきた髪の毛を慌てて体から払いのけようとしたが、それは余計に強い力で霧雨の足元から銅を締め上げてくる。もがけばもがくほどに自由を失う様は、蜘蛛の巣にかかった獲物のようだった。髪の毛は体全体に絡みつき、霧雨は身動きが取れない。手で引きちぎろうとしても、あざ笑うかのように却って動きを封じられてしまう。なすすべもないまま、足元から体を伝って這い上がって来た髪の毛は、あろうことか霧雨の顔にまでまとわりつき、まるで目隠しするかのように視界を奪ってしまった。今の状況で視界が奪われると、恐怖が一気に押し寄せてくる。叫び出そうとした瞬間、霧雨のなじみのある声が聞こえたような気がした。聴覚に神経を集中させると「こっちよ、こっちに来なさい。早く、急いで」という姉の声が聞こえてくる。霧雨が渾身の力でもがくと、一瞬であるが締め上げていた力が緩んだので、その機を逃がさずに太刀を振り回して、そこから抜け出す。目隠しをしているかのように目に髪の毛が巻き付いているので、ほとんど視界は奪われたままではあったが、太刀を振り回せば、手ごたえはあり、徐々に体の自由を取り戻しているような感覚もあった。急いで声のする方向に向かって走る。
「こっちよ、こっち。急いで」
盛り上がった地面に足を取られながら、顔に絡みついていた髪の毛を払いのけると、視界が戻ってきた。そこには巫女の服をまとった姉の姿があった。
「こっちに来なさい、急いで」
姉は霧雨の腕を取ると、神殿から離れて、暗がりの方に向かって霧雨を引っ張った。神殿の方が気がかりではあったが、振り向くと、すぐそこに黒い髪の毛が火柱のように立ち上がってこっちに迫ってくるのが見えた。考えている間なんてなかった。それを見た姉は切羽詰まった様子で「ついてきて」と言い、霧雨の手をひいてそのまま神殿から離れた山の中の方へ向かった。
姉は霧雨の手をひいて、無言で走る。篝火の炎もとっくに届かない山の奥深くまで来た。仄かに月明りに照らされているが、様々な木々が鬱蒼と生い茂ったけものみちが続く。度々木の根に足を取られてよろけながら、姉にしばらくついていくと、いつの間にか後ろに不穏な気配もなくなった。初めて体験した出来事からくる恐怖感が言葉にならずにいた霧雨は、まるで小さい子どもの頃のように姉に手をひかれ続けて姉の後ろを歩いていたが、ぼんやりと手元を見ると、袖の裾から姉の白くて細い手首が見える。久しぶりに見た姉の姿に安堵と共に、色々な思いが胸から湧き上がって来た。聞きたいことは沢山あった。
「姉さん」
霧雨が姉に呼びかけると、霧雨の心を見抜いたかのように、姉は口を開いた。
「怖い思いをしたわよね。私があなたに笛を預けたせいなの。あなたも色々尋ねたいこともあるでしょう。ただ、今は少し我慢してね。この先に巫女にしか入れない泉があるの。そこに行けば、先ほどの化け物も入れないわ。あなたは化け物に魅入られてしまっているから、今から安全なその場所にあなたを連れて行きます。」
姉に連れられてしばらく山中の道なき道を歩くと、ついに、ぽっかりとそこだけ開けた場所についた。そこ一体に生えている木々自体が低いのか、夜空からの月の光が直接降り注ぎ、辺りを明るく照らし出す。ふくらはぎほどの丈の草で一面が覆われており、それが夜風に吹かれると、草同士が擦れあってさらさらと音を立てた。風が吹くと、柔らかい草が同じ方向に倒れ、その上を鈍色の月光が風と同じ速さでどこまでも滑っていく。辺り一面、寄せては返す波のようだ。もしかしたら、かつては小さな集落があったのかもしれない。人工的に切り出されたかのような不思議な形をした大小の岩がところどころに無造作に聳え立っている。草の上を滑る光を目で追うと、少し離れた先に、月の光を反射して、銀色の鏡かと思う程に輝いている小さな泉があり、その周りを取り囲むように赤い花が群生していた。この鬱蒼とした山の中に、こんなに美しい場所があったのかと思うと驚きだ。
「姉さん、ここは一体?」
「言ったでしょ?ここは安全な場所よ。さあ、早くこっちに来て」
そういうと姉は踊る様な足取りで泉に向かって歩き、泉の側で膝を折ると、その泉を両手ですくい、月に掲げてごくごくと美味しそうに飲んだ。月明りでまじまじと見ると、姉の唇は紅を刺したかのように赤かった。その赤い唇の端から泉の水が一筋こぼれ、白い喉を伝って鎖骨から胸元へとゆっくり落ちていく。その光景に立ち尽くし、目が離せなくなってしまっている霧雨を姉は横目で眺めると、にっこりと微笑みを浮かべて霧雨を手招きした。
「さあ、こっちに来て、この泉の水を飲みなさい。この泉の水は魔を払ってあなたを助けてくれるから」
姉の声を聞くと同時に、頭の中にりんと鈴の音が鳴り響いた。一瞬はっと我に返った霧雨だったが、姉は霧雨をじっと見つめ、更にゆっくり口を開く。
「こっちに来なさい。あなたを守ってあげる。」
姉の美しい顔を見ると、頭に靄がかかったように何も考えられなくなった。ただ姉に言われるまま、そろそろと歩いて泉に近寄っていくと姉は優しい声で霧雨に言った。
「太刀をそこに置いて。怖いことはもうあなたに何も起きないわ。私が守ってあげる。すべて、あなたの持っている笛のせい。さあ、私に渡して。」
姉は微笑みながら霧雨に手を差し出した。月明りを受けた華奢な手は、血の気がなく白に白を塗り重ねたかのようだ。この手が自分をここまで連れ、あの化け物から守ってくれた。白境入りが決まった以前からずっと憧れていた姉の手だった。頭の中で鈴の音がうるさいほど鳴り響いていたが、どうでもよくなり、霧雨は太刀を捨て、姉の手を取った。その手はひんやりと冷たい。その手に優しく導かれるままに、泉の側で姉の近くに並び立つ。姉にしばらく会わないうちに自分の背はずいぶん伸びてしまっていたようだった。姉の視線が自分の胸元にずっと注がれている。気恥ずかしくなった霧雨が、重ねている姉の手から視線を逸らすと、鏡のような湖面が視界に映った。どこからともなくさっと風がふき、さざ波が立つと、湖面にはっきりと映し出されていた美しい月と星が揺れ、自分の姿も揺れる。その光景をぼんやりと見ていた霧雨であったが、ふと違和感を覚えた。湖面に反射しているものの中に、姉の姿がどこにもないのだ。心の中に小さな不安が沸き起こってくると同時に“そんなこと、捨て置け”というような自分の声も聞こえてくる。先ほどから頭の中でりんりんとうるさいほどに鳴り響いていた鈴の音がさらに大きくなった。その鈴の音に少し意識を傾けると、不思議と頭が冴えわたってくるように思えた。今まで姉だと思っていた目の前の人物に対する疑念が心の中に沸き起こってくる。神殿を守るはずの姉が、なぜすべてをほおって、今、自分の目の前にいるのか?暗くて足元の悪い山道を、知り尽くしているかのように歩くということが姉に出来るのか?今までの事を思い返すと、不自然なことばかりだ。恐る恐る自分の手と重ね合わされた姉の白い手から視線を上げて目の前の顔を見ると、能面のような笑顔を貼り付けてほほ笑む姉の顔があった。相変わらず美しかったが、それが却って不気味であった。ふと口元に目をやると、うっすら開いた口元からは黒い髪の毛がちらちらと覗いていた。
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