第2章 出立

辰の刻 長の大広間にて


  霧雨が身なりを整え、長の館の大広間に入ると、そこにはもうほとんどの人が集まっていた。

  男たちは皆、魔除けの鈴をつけた太刀を佩き、護衛役の正装である白い内着に単衣の水浅黄の衣をまとっている。水浅黄の衣には、一見すると分かりにくいが白銀の糸で繊細な草模様が織り込まれていた。この白銀の糸はこの里山にしか育たない特別な木の皮を時間をかけてなめして作った糸だ。この糸は見目の美しさだけでなく、縫い込むことで生地の丈夫さをも増す。羽のように軽いが獣の皮のように丈夫であり、獣の牙や爪を容易に通しはしない。美しさと強さを兼ね備えた実に合理的な代物だった。

 男たちは衣だけでなく、髪も護衛の正装であるみずらに結い上げ、額には護衛の印である白瑪瑙を縫いつけて編み上げた額飾りをつけている。衣も額飾りも大層優雅ではあるが、かといって軟弱さは全く感じられない。何故なら、それらを身にまとう30人ほどの男たちは皆体つきも引き締まっており、また、その身にまとう空気も抜き身の剣のように鋭く、一見して、鍛え抜かれているのが分かるからだ。護衛を任されたこの30人は村の中でも特に精鋭の男たちだ。

 末席に座る後ろ姿の中に、幼なじみの見知った姿を見つけた霧雨は、その隣の円座が空いているのを見ると、隣に座った。長の話を聞いていた幼なじみは、隣に座った霧雨を、視線だけを動かして確認すると、またすぐ正面に視線を戻した。幼なじみの穂高は霧雨よりも大分大柄で背丈も頭二つ分ほど高い。霧雨と並んで座ると、二人は同い年でありながら父と子のようだ。霧雨も穂高の視線を追い、正面を見つめる。 

視線の先には、顔に幾筋もの深いしわが刻まれた大木のような男がいる。この里の長であり、穂高の父親でもある男だ。厳しいが強くて公平な男なので、里の民からの信頼も厚い。だから、実の息子である穂高を血縁だからという理由で優遇もせず、年功序列の村の掟に則って、公平に末席に座らせている。その長の隣には、長の弟である男が控えている。穂高の叔父にあたるこの人が今回姉の護衛の長を務める大役を担っているのだ。こちらは表では目立たない大分寡黙な男ではあるが、剣術や弓の腕前から言うと、里の男たちからは、長以上に一目おかれている頑健な男であり、なかなか賢く決断力もあるので、長の右腕として働いている男であった。

里長が低く太い声で厳かに告げた。

 「出立の儀を行う。皆、拝礼せよ」

 長の一言で、その場にいた男たちは皆、頭を垂れた。

 奥の扉があき、衣擦れの音が聞こえてきた。歩くたびに幾重にも連ねた珊瑚や瑠璃、メノウや翡翠の玉飾りが擦れあってさらさらと鳴り、その澄んだ響きが空気を揺らした。その響きはまるで、天から舞い降りた白鳥が軽やかな足取りで光の泉を歩いているかと思わせる程にこの上なく清らかで美しかった。音ですらそうなのだ。正式な聴き人の衣を着て姫巫女となった姉が彩雲のごとく美しいだろうことは姿形をその目で見なくても分かりきっていた。姉は彩の滝で最後の儀を無事に終えたのだろう。儀と共に聴き人としても完成し、今の姉は、里では大巫女に次いで尊敬の的となる姫巫女となった。姫巫女となり、清らかな霊力をその身に宿した姉は、姉ではあるが、もはや親族といえども顔をあげて姿を拝むことは許されない遠い存在となった。その姉は、短い間祈りをささげると、拝礼した男たちのいる広間の中央を通り、用意された輿に向かってしずかに歩き始めた。

 玉飾りのかすかな音が霧雨の座る末席の方にだんだんと近づいてくる。舞でも舞っているのだろうかと思わせるほどの体重を感じさせない歩みだ。跪いて拝礼している霧雨の視界に、薄紅色の絹衣の裾が映った。衣に香をしたためているのだろう。姉の歩みと共にかすかな香りが鼻孔をつく。さわやかな香は橘だろうか。絹衣の優しい色と相まって明るい春を思い起こさせた。色白の姉に、この薄紅色の衣は大層よく似合うだろう。姉の存在を近くに感じたことで、温かな気持ちに満たされながら霧雨は考えた。

 ―姉を無事に送り届ける―

 自分の前を過ぎ、輿の方へ遠ざかっていく姉の気配を感じながら、霧雨は改めて胸に誓った。

**************************************

 辰の刻に里を出てから、一行はしばらく歩いた。里から白境への道のりは健脚な男でも歩いて丸一日はかかる。何しろ山を越えていかなければならないのだ。里から白境までの道はこの一本だけで、他に選択肢はなく、この山の中に敷かれた路を通るしかなかった。山を抜けると白境はすぐそこである。

 路の傾斜具合からして山の中腹辺りまでは登って来たと思いたいところだが、何しろこの山は鬱蒼としており、昼にもかかわらず、陽光はそびえ立つ木々に遮られてほとんど届かない。そのため、陽の高さや影の長短による時の推測が難しい。

 山には、里と白境との往来のために、一応、路らしきものは敷いてあるものの、幅が狭く、また路を敷くために中途半端に切り崩された岩のおかげで、返って足場が悪く、散々だった。里を出てから陽は高く昇っている筈なのに、周囲は里を出た時よりも薄暗く湿気を含んだ重たい空気で満ちている。

 山越えの肉体的な大変さに加え、里に古くから伝わる伝説が、さらに険しい路を行く一行の気力を少しずつ削いでいた。姉の都入りというおめでたい時であるので、もちろん誰も口にはしなかったが、里の子どもは皆、この山にまつわる伝説を小さい頃から聞かされている。内容はこうだ。昔からこの山は行方知れずになるものが多かった。険しい路であるので、獣や夜鬼に襲われたものも多かっただろうが、そのせいだけとは考えにくい奇妙な出来事が起こったのだ。山に向かったまま行方知れずになった者を里の男たちが探しまわっていたところ、路の途中に行方知れずになったものが来ていた衣がきれいに畳まれていたのだ。しかし、当人の姿形はどこにもない。畳まれた衣の上には、この辺りでは見かけない赤い花がおいてある。そのなんとも言い難い奇妙な光景に、男たちは初め、誰も薄気味わるがって近づこうとしなかったが、一人だけ、かねてから力自慢の豪胆な男が衣に近づき赤い花をつまみ上げた。男が花を手のひらに持つと、花はみるみるうちに枯れて煙のように消えてしまい、種に似たものだけが残った。よくよく眺めてみると、その種は奇妙な形をしていて、人の髑髏に似ていなくもない。男の周りは、その種を捨てていくように説得したが、男の方は、ここまで来たら何が起こるか見届けてやるという心持になったのか、それを持ち帰って山の麓にある自宅の庭に埋めた。すると、たちまちのうちに芽が出て育ち、つぼみを付けた。

「なんだ、なんともないじゃないか」男はそうやって初めのうちは笑っていたが、つぼみがだんだんと花開くにしたがって、力自慢で大柄だった男がみるみる痩せていく。男の様子を心配した里の人が、里にある診療所に男を連れて行き、食事をとらせたり、薬湯を飲ませたりと世話を焼いたが、男は憑かれたように自宅に戻ってしまう。そんな男の様子とは対照的に庭の花はどんどん美しく赤くなっていく。そうして花が見事に咲き切るころには男はまるで生気そのものを花に吸い取られたかのようになり、青黒くなってやせ細り、とうとう死んでしまった。何か悪いものに魅入られたのだ、そう思った里の人が聴き人の巫女に相談したところ、魔除けの銀鈴を貰った。それを男の庭に持っていき、花と一緒に埋めたところ、花はすぐに枯れたという。それでも、この奇妙な出来事があってからは、極力山には近づかず、また白境へどうしても行かねばらならぬ時は、この魔除けの銀鈴を持っていくようになったのだ。

出来るだけ早く山を越えたいところではあるが、今回は男たちだけの旅ではない、姫巫女である姉と、姉に付き従う侍女たちを伴っての旅なのだ。侍女たちはよく教育されており、朝から文句の一つも言わずに付き従って歩いている。その様子からは、見た目よりも芯の強さをうかがわせるが、かといって疲れていないわけではあるまい。少し息をつく時間を取った方が良いかもしれない。そう霧雨が考えていると、おそらく同じことを穂高の叔父も考えていたのだろう。山の中腹にある社で、しばし休憩をとるという伝令が穂高から伝えられた。

 休息が目の前にあるとなると、とたんに体も元気になるのだから不思議だ。隣に戻った穂高が小声で言う。

「……この山の中に、神殿なんてあったんだな」

 霧雨も穂高と同様で、この山に神殿があるとは初耳だった。しかし休めるということはとにかくありがたい。霧雨は気を引き締めると、姉から預かった笛に懐の上から触れた。その時、ふと、山間の木立の合間から「ふふっ」と笑う女の声が聞こえてきた。

 若い女の声だが、どこか悪意に満ちており、神経をざわつかせる響きがあった。驚いた霧雨は身を固くして周囲を見渡したが、もちろん女の姿はどこにもなく、皆、何事もない様子で歩き続けている。気のせいだろうか。霧雨がいぶかしく思っていると、また「ふふっ」という女の不吉な笑いが、今度は霧雨のすぐ耳元で聞こえた。一瞬にして体中の血の気が一気に引き、全身に鳥肌が立つ。あまりの気味悪さに霧雨はついその場で立ち止まってしまった。

 穂高は、隊列を乱すのは誰だとでもいうように厳しい目で隣を見やったが、自分の隣を歩いていたのが霧雨だったと思い出すと、驚きの表情を瞳に浮かべた。同時に霧雨の顔色を見て、ただ事ではない様子を察したのだろう。

「お前、どうした?―だいぶ顔色が悪いぞ、体調でも悪いのか?」と小声で声をかけた。

 霧雨は何度かためらっていたが、やがて小声で答えた。

「女の笑い声が聞こえた。お前には聞こえたか?」

「……いいや。」

 霧雨の予想外の答えに驚きながら、穂高は霧雨に確認する。

「女の笑い声?思い違いではないのか?」

「……思い違いではないと思う。」

穂高は重ねて尋ねる。

「いつだ?」

「ついさっき。」

「……笑うだけか?他に何か言ったりはしていないのか?」

「今のところ、笑うだけだ。気味が悪いが、笑うだけならば捨て置いていればいいのかも知れないが……」

二人とも黙ったまま、しばらく歩いたが、先に口を開いたのは穂高だった。

「山に伝わる……その、その怪の類なのか?」

 正直なことを言うと、これが一体何なのか当の霧雨も知るところではなかった。この世には道理で説明のつかぬことがあることを、もちろん霧雨も知っている。なんといっても霧雨が生まれ育った里は、まさにこの領分のいわば専門といえる聴き人を長年世に出してきた里なのだ。

 妖魔鬼怪の各々の細かいところの違いに関しては、巫女の修行を受けたわけではない霧雨は無知ではあったが、根本は繋がりあっていて、元は八百万の精霊だったということを聞いたこともある。それが様々な要因で自然の中から切り離され、歪められ、貶められ、結果的に行き場を亡くして未来永劫苦しめられているのが妖魔鬼怪なのだ。

 それらの声を拾うのが巫女である。その巫女の中でより一層特別な力を持つのが聴き人であり、その中でも特に力を持つとして選ばれたものが姫巫女だ。巫女はいわばその神の声を聴きとる耳であるが、どのようにその神を宥めればよいのかは知らない。それを知り、鎮める力を与えられているのが聴き人なのであり、いわば、神と人との中立ちをする存在であった。神の声を正しく聴き、その正体を見極めた上で自然の調和の中に収めてやる。

 しかし、巫女も聴き人もいわば女性の領域にあるものだ。里には古くから産屋には男が入れないという慣習があったが、巫女の修行ももちろん、秘儀のあれこれも古くから女性が担うという慣習があり、男である霧雨たちには触れることは許されない領域だった。今までの生の中で朧気ながら、この世には理では通らぬ物事が存在するらしいことは知っていたが、霧雨にとっては、一生の間、自分とはほとんど関わりあいになることはないであろうと思っていた領域だった。

「分からない、なんとも言えない。ただ今まであった獣とも、夜鬼とも違う、何かもっと……」

―禍々しい―

穂高は穂高で霧雨の答えを聞きながら、色々と考えていたのだろう。少し間を置き躊躇いながら言った。

「確かに、この山はどこか気味が悪いが、とは言え、まだ日は落ちていない。夜鬼や物の怪の類が出てくるのはもっと日が落ちてからで、薄暗いとは言えまだ日もあるこの時分から出てくるという話は今まで聞いたことはないぞ。」

 もちろん、霧雨も同様だった。さらに言えば、この手のものの扱いというのを、今まで穂高も霧雨もよく知らずに来た。確かに夜には獣もでるし、たまに夜鬼も出る。普通の獣ではない彼らを巫女の祈りが込められた弓で狩り鎮めてやる場面にも度々出くわしたこともあるが、それは決まって夜の話だ。それに、夜鬼にはここまでの悪意はない。

 しばらく霧雨の話を聞き、どうすればよいのかを考えあぐねていた穂高だったが、念のためという所で、隊長に報告に行った。神妙な顔で穂高の話を聞いていた隊長は、輿を守る一の侍女に耳打ちした。一の侍女は聴き人である姫巫女の護衛も務める立場を担っている。護衛でも影武者でもある存在であり、顔の半分は垂布で覆われているので、目元しか普段は見えない。その侍女は物腰は柔らかいが、芯の強さを感じさせる優美さもあり、きりりとした横顔は美しかった。長に対して軽く一礼した後で、輿の外から何やら姉に耳打ちし、御簾を持ち上げて中に入っていった。姉に何か打ち明けているのだろう。一行はしばらくそこに佇み、親や姉の指示を待った。

 一度止まると、否応なしに周りに意識が向いてしまうのだろうか。先程からやけに鳥が騒がしい。耳を傾けているとそれはまるで長い間生き過ぎて右も左も分からなくなり、さまよい続けている悲しい老婆のしわがれた声が恨みとなってそのまま吐き出されているようだ。あたりは夕刻のようにほの暗い。木々が鬱蒼と立ち込めた森の中はそれだけで日の傾きや時間が分かりにくいものだとは思っていたが、徐々に足元に白い霧が立ち込めてきていることも相まって、今では、つい先ほど来た道や進むべき道の方向感覚すら忘れさせるような感じがある。霧はぎりぎりまで水分を含み、生ぬるく重々しい。沼のぬかるみに足を取られてしまっているような感覚に襲われる。いや、もっというなれば、まるで水にぬれた女の長い髪の毛が束になってねっとりと足元に絡みついてくるような気持ち悪さがあった。その感覚から霧雨の意識を引き戻させたのは、隊長の声だった。姉からの指示を受けたのか、長は隊列に対して声を張り上げて皆に言った。

「皆、急ごう。もう少しだ。あと四半時ほどで神殿につくので、そこで休もう」

長の命令を受けて一行は霧の中、何とか目的地である神殿についた。社の入口には岩に彫られた白狐が対で並んでおり、社を守っている。何故かそこだけは霧が立ち込めておらず、清涼な空気で満ちていた。一行はその入口を通り、神殿に入った。神殿自体は決して大きくはないが、こざっぱりとして清潔な空気で満ちていた。同じ山の中だとは思えないほど、そこは清らかで、少し休んでいると先ほどの気持ち悪さが嘘のように洗い流されていくのを感じた。

 姫巫女となった姉は侍女たちと一緒に神殿で祈りを捧げる。幸い神殿の裏には小さな水場もあるようだった。男たちが水場で一息ついていたところ、姫巫女の代理として一の侍女が隊長のもとにやって来た。しばらく二人で話していたが、隊長は皆に対して新たな指示を出した。

「皆、今日はこの神殿で夜を明かすことになった。ひとまず、野営の準備を」

先を行こうと思えば、まだいけるのに―

おそらく、護衛の誰もがそう思っているだろうが、それを口に出すものはもちろんいなかった。里の大巫女がいない今、姫巫女の決定は絶対であり、隊長も、もちろん隊長の命を受けて付き従う護衛達もそれをよく心得ていた。隊長の命を受けた男たちは、きびきびと動き、その神殿の前庭に借りの宿舎を立て天幕をひく。侍女たちの数人は社の入口から前庭を含む神殿周りをぐるりと囲むように榊を立てていく。何やら結界のようだ。夕時になり焚火を起こすと、炊事を任された侍女たちは男たちに指示を出し積んできた荷の中から米や干し茸、棗などを入れ煮炊きし始めた。あたりに粥がたける温かい湯気と匂いが満ちると、不思議と張り詰めていた雰囲気が和らいでいく。

 熱い粥が皆に配られ、また同時にショウガを下ろして入れた温かな濁り酒もふるまわれると、歩き通して、くたくたの体に染みわたり男も女もほっとした。男たちは談笑しながらこれからいく白境の街の話をして盛り上がっている。その中の一人が口を開いた。

「いや~、里の出身者が姫巫女になるのは大分久しぶりの事ではないか?」

「確かに……今までは里に修行に来た外ものが、結局は聴き人として召し抱えられることが多かったしなあ。」

「いつもは都の使者が迎えに来ているのではないか?」

「なんでも、都の使者が事情で迎えには来れなくなったそうだ。今の王になってから、都も物騒になったと聞くぞ。だから、こうして里の出身者という理由で、俺たちが護衛にあたっているんだ……でも、そのおかげでこうして俺たちは白境に行く機会を与えられたんだ。獣や人相手に太刀では負けない。山には魔が住むとはいっても、その方面は姫巫女がいるから安全だろ?」

「そうだな。」

「それに、白境はなんといっても都だから、豊かで人も多いし、美女も多いと聞くぞ」

「美女かあ、無事に送り届けた暁には、俺たちも歓迎の宴に入れてもらえるのかなあ?」

「労いの酒ぐらいは振る舞われるだろうよ。運が良ければ酌などしてもらえるかもしれんぞ」

「いいなあ」

「お前のところのかかあに、六輔が鼻の下を伸ばしていたって言っといてやるよ」

「……それだけは勘弁」

男たちの朗らかな笑い声が辺りに響いた。緊張感がほどけていく和やかな会話を聞くと、心からというわけにはいかないが、霧雨もその中に混じって笑う余裕も出てきた。ながらまだ見ぬ白境に思いを馳せながら、武彦と母への土産はどうしようかと考え、木の椀の酒を啜っていると、穂高が隣にやってきた。霧雨の隣にどかっと腰を下ろすと、片手で椀を持ち、中の酒を一気にあおる。

「お前、気分はもういいのか?」

強面で体も大きく、不器用なところがあるので誤解されがちだが、根は面倒見がよくて優しい男なのだ。

「ああ、だいぶ」

「そうか。良かったな。あれから、また聞こえたりはするのか?」

「いや、あれきりだ」

「一体……何だったんだろうな。お前以前にもこういうことはあるのか?」

「……いや」

「……この山は、なんだか確かに気味が悪いよな。何かこの山に特別な何かが関係しているんだろうか……昔は神隠しも多かったと聞くし」

もしかして、この笛のせいなのだろうか?霧雨は懐をそっと抑える。穂高は、飲み干した椀を見つめながら言った。

「腑に落ちないものだな。……それはそうと、先ほどお前に伝えるようにと叔父から伝言があった。まず、今日は俺とお前、後は長の側近が守番だ。今夜は特に、火を絶やすなということだ。……銀鈴は必ず身に着けるようにと。……あと、その、声というか、今日、お前にあった出来事は絶対に他言するなとのことだそうだ。だから、今のところ、俺と親父と姫巫女と一部のその従者しか、知らないことになっている。」

「……そうか……」

 今までの自分達の経験では計り知れないようなことに巻き込まれていくかもしれない。ぼんやりとそんな予感を感じながら手元の椀を見つめた。

明日もまた朝早くから険しい路を行くということで、酒盛りは早々にお開きになり、姫巫女をはじめとする侍女たちは皆、神殿の中で各々休息をとることになった。男たちが、社の入口にかがり火を立てると、火ははぜて煌々と燃え上がりあたりを明るく照らした。男は神殿の外で休み、霧雨達は篝火の番を行う。獣や夜鬼が襲ってこないように、一晩中、篝火を絶やさずに守をするのだ。賑やかに談笑していた男たちも、一人、二人と簡易にあつらえられた天幕に次々と去って行く。里の生きた宝ともいえる姫巫女の護衛は、実力のある選りすぐりの男たちとはいえ、やはり重圧なのだった。

霧雨と穂高は、各々、社の周りを見回ることになった。社の裏の方を周り、特に異常がないことを確かめて正面に戻って来た霧雨だったが、ふと視線を上げると、篝火の向こうにさっと女の影が横切った気がした。


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