霧雨奇譚

にこす玄

第1章 暁光

 この村で一番美しい瞬間を問われたら、間違いなく今だろう。

 幾重にも連なる紫紺の稜線が薄雲とも霧ともつかない白い霞に覆われていたところに、柔らかな光が差し込む。初めは銀の針のように細い点でしかなかった小さな光が山の輪郭を徐々になぞりながら集まっていく。そして、ある瞬間を超えるとあふれんばかりの光の帯となり、その帯が山々の斜面を滑るように照らし出す。やっと長い夜が明けたのだ。

 夜の間中、村はずれの物見台で獣や夜鬼(獣の物の怪)の見張りをしていた少年は、ほっと溜息をついた。もうすぐ春の訪れとはいえ、里山の夜明けは殊の外冷えるために、少年の吐く息は白い。待ち望んだ朝の訪れによって、夜の間の緊張がほぐれたのか、また柔らかな温かさが却って少年の常の感覚を取り戻させるのか分からないが、少年はぶるっと1つ身震いすると、軽く伸びをし、白くて清らかな光をその瞳に映しながら、山の稜線をじっと見つめた。朱金の手毬のような太陽が山の端から現れ空に昇っていく。

 朝の光が柔らかく少年を照らし出す。この村の人には珍しい色の長い巻き髪を無造作に結い上げ、矢筒を背負ってまっすぐ立つ、整った顔立ちの少年がそこに居た。銅を光で溶かしたような色合いを帯びた豊かな巻き髪は、朝日を受けて輝き、まるで光そのものをまとっているかのように神々しく美しい。彼の瞳は磨かれぬいた黒曜石のように艶があり、瞳を覆うまつげもまた瞳と同じように濃い。雪解けの透明な水で洗った白い絹のように穢れのない肌は、柔らかい日の光を浴びてやっと血が通ったようになった。

 もうすぐ十六になる少年の顔は一見すると美しい少女のように優しい顔立ちであった。それでも少年から決して女々しさが伝わってこないのは、偏に少年の瞳にあるだろう。少年の瞳には強い意志が垣間見えるのだ。体つきも村の他の男たちに比べると少々小柄ではあったが、しなる竹のようにのびやかで瑞々しく、姿形はどこをとっても他の男たちに見劣りしなかった。それどころか、そんな華奢な体のどこにそんな力がと村人が不思議がるくらいに弓の腕前は素晴らしく、村の力自慢の男でも片手で引くには少々てこずる弓の弦を、楽器でも弾きこなすかのように軽々と引き、遠い空を舞う黒い点のようでしかないフクロウを射てみせたこともある。身のこなしも俊敏で、夜目もきく。だからこそ、少年は夜の見張り(夜守り)を任されている。二十歳でやっと一人前とされるこの村では、まだそれに満たない霧雨が一人で夜を任されるというのは珍しい事だった。そして、だからこそ、少年は白境への姉の護衛という大変誉れ高い役に、わずか十六という若さにもかかわらず抜擢されたのだった。

姉と言っても、そこに本当の姉弟の血のつながりはない。少年の両親は少年がまだ幼い頃に狂った獣によって殺されてしまった。少年の母親の遠縁にあたる女性が今の姉の実の母であり、少年は本当の両親の死後は、この家に引き取られてそこで一緒に育てられた。ありがたいことに、この義理の母に当たる人も、その夫で義理の父に当たる人も、よく人間が出来た人であった。少年の事を自分たちの実の子である姉や他の兄弟と分け隔てなく、本当に愛情をかけて育ててくれたのだ。そのため、少年は孤児が引き取られた時によくありがちな、実の兄弟とのあからさまな差別等とは無縁に育った。だからこそ、姉や他の兄弟と間に、血のつながりこそなくとも、少年にとって姉は本当の姉と言えるほどの存在で信頼を寄せる相手であり、他の兄弟もまた同様であった。そして月日がたつうちに、姉への信頼は少年の胸の中で密かな憧れともつかぬ思いに変わっていったのだ。

その姉が、今日、白境へ発つ。姉にとっては、昨夜が里山で過ごす最後の夜だったに違いない。少年が夜を守る村はずれの物見やぐらからは見えない長の屋敷で、里で過ごす最後の夜を姉は何を思って過ごしたのだろうか?その思いは、少年の胸をアザミのとげのようにちくりと刺した。そこから淡い痛みが胸全体に広がりそうなのを少年は慌てて押しとどめ、その考え自体を隅に追いやった。姉にとって白境へ行くのはこの上のない名誉なことであるに違いない、もちろん、この里山の人々にとっても。この里山の人は餓えて死ぬほどには貧しくはないが、それでも年がら年中、村の皆が汗水たらして働き、何とかその冬を乗り越えるだけの蓄えを分け合って生活しているようなありさまだ。姉が里山から白境に上がりそれなりの働きをすれば、王からの手厚い加護が受けられ、今よりも里山の生活も豊になるだろう。この里山は聴き人の始祖が住み暮らした村でもある。そこから今の世に至るまで、長きにわたって聴き人となる人の才を見抜き、丁寧に教育し、良い聴き人を王に召し出してきた。聴き人とは、いわば巫女のようなもので、五感に大地の声を宿し、神の声を伝える役割をになう人の事を言う。不思議な力をその身に宿し、王の巫女、上手くいけば王の補佐として王を支えていくという重要な存在なのだ。飛鳥姉は歴代の聴き人の中でもひときわ才能があり美しい乙女でもあった。小さい頃に飛鳥姉の才を見抜いた村の長は期待を込めて飛鳥姉を教育した。長同様、里山の人々も期待と愛情をこめて飛鳥姉を育て、見守った。姉自身もそれを受け、聴き人として王を補佐することを、いつのまにか自然に自分の望みでもあるかのように受け止めて巫女の修行に励み自分自身を育てあげてきた。そんな姉にとってこの白境への渡りはこの上なく幸せなことに違いない。

 その姉を無事に白境に送り届けることこそ、自分の任務だ。命に代えても、絶対に姉を無事に送り届ける。そう一人胸に誓ったところに、「霧雨兄さん―!」と自分を呼ぶ明るい声が聞こえてきた。

 少年が振り返ると、馬に乗った黒髪の輝く目をした丸顔の男の子がこちらの方に向かってくるのが見えた。弟の夏彦だ。夜が明けてからすぐに里山の家を出て、急いで馬を走らせ霧雨の守る物見やぐらに来たのだろう。この寒さにもかかわらず頬は薄紅色に上気している。真新しい衣を羽織って新しい鉄でうったばかりの太刀を腰に佩いており、見るからに余所行きの正装だ。夏彦がかける度に、太刀に着けた魔除けの銀の鈴が、りんりんと澄んだ音で鳴った。夏彦は物見やぐらの下まで来ると、側の木立につないでいた霧雨の馬の隣に自分の馬を繋ぎ、綿のような霜を被った木梯子に手をかけた。

「夏彦、ちょっと待っていろ。これを使え。滑るなよ」

 霧雨が上から麻布の籠手を投げてやると、夏彦と呼ばれた黒髪の少年は落ちてきたそれを器用に受け取り、手にはめた。

「ありがとう。今行く」夏彦は梯子に手をかけ、慣れた様子であっという間に梯子を登ると、霧雨の隣に立った。

「母様からこれを預かってきた。」

 夏彦はそういうと、懐から笹の葉の包みと竹筒を渡した。大好物は匂いで分かる。菜花の握り飯と鳥と茸の汁物だ。

「夏彦は食べたのか?」

「俺の分は、俺の分であるんだ。それは霧雨兄さんにって。それに、昨日は長の家で祝宴だっただろ。夜おそくまでみんなに酒が振る舞われてさ。ずいぶんと賑やかだったんだぜ。全く今日から護衛に付き添う俺たちにとっちゃ、とっとと休ませてくれって言いたかったくらいだけどさ」そう言うと、夏彦は懐からまた別のつつみを取り出し、笹を剥くと菜飯をむしゃむしゃとほおばった。隣で聞いていた霧雨はその様子に吹き出しそうになったが、慌ててこらえた。兄の様子には全く気づきもせず、当の夏彦は菜飯をほおばっている。

護衛といっても、夏彦が付きそうのは山裾までだ。そこから先は、里の中で選ばれた精鋭と姉、そしてその従者のみで山越えをすることになる。長の家から里の山裾まではせいぜい2キロほどの距離にもかかわらず、夏彦が、いっぱしの表情で護衛といって張り切っているのはおかしかった。それでも十四の夏彦にとっては、重要な役割で名誉なことには変わりないのだろう。そんな弟を微笑ましく思いながら、霧雨も夏彦から渡された竹筒を開け、汁を啜る。母は冷たい夜を過ごす霧雨を思い、少しでも温かくなるようにと酒も入れて煮込んだのだろう。肉に歯を立てると弾力のあるそれは柔らかくはじけ、ほんのりと甘い油が口いっぱいに広がると同時に茸と酒の香りが鼻に抜ける。まだその香りが抜けきらないうちに、菜飯にかぶりつくと、今度は、菜花のさわやかな苦みが口の中に広がり、油の甘さと汁の香りと混じりあっていく。小さい頃から慣れ親しむ安心する味が体に入ると、凍えていた芯が満たされていくのを感じた。無言で汁と飯を交互にほおばり人心地つくと、霧雨は夏彦に聞いた。

「飛鳥姉は、どうしている?」

 夏彦はほおばったときに頬についた米粒をぬぐいもせず、答える。

「今朝、最後の支度のために彩の滝に入ったよ。そこで例の“告げ”を受けたら正式な姫巫女になるそうだ。それで出発だとさ。辰の刻になったら、広間に集まれって長が言っていた。あ、あと、そうだ。これは飛鳥姉から、昨日、霧雨兄さんに渡すように頼まれたのを預かっていたんだ。」  

そう言うと夏彦は霧雨に絹の包を渡した。夏彦は興味津々と言った様子で茶目っ気のある瞳をくるりと回して霧雨の手にある包をのぞき込む。

「何が入っているんだろう?開けてみてよ」

「多分、魔除けの銀鈴だろう」

 そう言いつつ、霧雨が絹の包を開けると、そこには翡翠で出来た小さな笛が入っていた。笛には赤い糸で縒られた組み紐に小さな魔除けの銀鈴がついている。

「……」

 二人は驚いて顔を見合わせた。

「こ、これって……。呼び笛じゃないか?……なんだって飛鳥姉はそんなものを霧雨兄さんに持たせるんだ?」

 先に口を開いたのは夏彦だった。そしてそれは、まさに霧雨の心の声でもあった。呼び笛は、例えるなら鬼に金棒、武士に太刀という具合で、聴き人に呼び笛…と言っても過言ではないくらいに聴き人とは切っても切り離せない関係にある。呼び笛は大地の神々と交流し英知を授かるためのものであり、危機にさらされたときには、守護する精霊を呼び集めるためのものでもある。本来なら聴き人その人が肌身離さず持つべきもので、ましてや姉弟とはいえ、そう簡単に他人に預けるものではない。そんな大事なものを霧雨にわざわざ寄越すとはいったいどういうことなのだろうか?

「……まさか、霧雨兄さんに」

 夏彦は途中まで言って、あまりに現実離れした自分の考えに自分自身で可笑しくなったのか、途中で激しくむせてしまった。年頃の夏彦だ。男女間の贈り物と言えば、真っ先に妻問を連想するのだろう。妻問といっても、二十歳が一人前とされるこの里なので、男女が婚姻関係を結んで家庭を築くのが許されるのは二十歳以上だ。ただ、それ以前に、気に入った相手がいれば、相手に特別な品を渡たして思いを伝えることもできる。渡された方は、相手を気に入れば、品を受け取る。そうでなければ品を返す。品を受け取った者同士は、互いの家族公認の特別な仲になれるのだ。婚姻の約束と言っていい。

そんな夏彦を無言で眺め、夏彦が言わんとしたことを察した霧雨は呆れ顔で夏彦を見る。夏彦はそんな霧雨には目もくれず、小声で呟く。

「……いや、ない。いくらなんでもあり得ないや。だって血のつながりがないとはいえ、霧雨兄さんは兄弟だし。それにあの姉は、生まれてこの方、万年修行の事しか頭にない人だった。そんな姉に限って、誰かを想った、想われたなんて想像出来るわけない。」

 確かに、夏彦の意見には霧雨も同感だった。第一、巫女の修行をするものは、そういう事は許されていない。確かに、姉を年頃の娘とだけ見ると、想った想われた云々の色恋をそろそろ経験し始めるのが普通の時期なのかもしれない。修行で禁止されているとはいえ、人が人の心の中までは制限できるものではない。そのため、許されないと知りながら、修行をしつつ特定の誰かを想う娘も中には居るのかもしれないが、どう考えても姉はそういう性分ではない。万年修行の事しか見えていない姉と巷の色恋が全く結び付かないのだ。だからこそ、この笛を霧雨に預けるのは、思慕の情というよりも、おそらく何かもっと他の特別で重要な事情あっての事だろうということは容易に想像できるが、そこから先の姉の意図を図り兼ねてしまう。

「お前な……」

確かに、霧雨とてそれは分かる。ただ、そこまできっぱり夏彦に兄弟であると言われると、自分が姉に抱いている淡い気持ちが少し疼いた。もちろん、霧雨の方にも、姉とどうこうなりたいとか、そういう願望は毛ほどもない。それに姉へ思いは一生胸に秘めるつもりでいる。夏彦はそんな霧雨の心中を露知らず続けて言った。

「霧雨兄さんだって、同じだぞ。家族の中で、飛鳥姉に一番性質が似ているのが、霧雨兄さんだって、口では言わないけれど、皆、思っているよ。頭の中は万年、弓の事ばかりでさ。見た目だって悪くはないのに、女の子に全く関心なんてないんだから。俺、時々心配になるよ。兄さん、まだ若いからって安心してると大変なことになるぞ。若いうちなんてあっという間で、すぐに年寄りになってしまうって、隣の家のじい様も言っているし。霧雨兄さんもそろそろいい年だろ。たまには周りを見渡して、気に入った子を見つける努力をしなきゃ?」

「……」

 この歯に布着せぬ物言いは、小さい頃の姉に少し似ているなと霧雨は苦笑しながら思った。夏彦の言い方は、あけすけすぎるとも言えるが、思ったことを素直に表現し、裏表がない夏彦の性質を霧雨はなんだかんだ言いながら気に入っている。人目を惹く髪の色や朗らかな見た目から、性格も屈託のない明るい性格と思われがちな霧雨だったが、実はそうでもない。家族以外にはあまり知られてはいないが、見た目とは裏腹に、どちらかというと内向的な性格の霧雨は言いたいことや思ったことを飲み込んでしまう癖があった。だから、霧雨とは正反対ともいえる性格の夏彦とは案外相性が合うのだ。ただ、そうはいっても、こういう事を、自分より年下の弟に言われることの気恥ずかしさと言ったら、なんとも言えないものがある。ここで弟にくぎを刺しておかないと、兄としての沽券にかかわる。そう思った霧雨は反撃に出ることにした。

「お前の方こそ、奈津女とは上手くやっているのか?」

 奈津女という娘の名前が出たとたん、夏彦は口いっぱいにほおばっていた握り飯を思いっきり口から吹き出し、ごほごほと激しくむせた。胸をこぶしで力づよく叩きながら顔を真っ赤にしている。ただ単に、むせたから、というだけの理由ではなかろう。

「な、な、な、なんで、奈津女が出てくるんだよ!あいつはただの、幼馴染だろう。」

「畑仕事の帰りに、しょっちゅう寄っているのに?」

「兄ちゃんだって知っているだろ!それは、あいつの父親は足が悪いし、俺は母親に言われて、用事を、というか、入用のものを持って行っているだけだ、次いでだし、それに……まあ、」

 夏彦はもごもごと口ごもりながら、霧雨に応える。分かりやすいやつなのだ。そんな弟と微笑ましく思いながら、霧雨はきゅっと片方の眉を挙げて夏彦の顔を覗き込みながら言った。

「へえー?そしたら今度から俺が行ってやるよ」

「いいよ、いいよ、だって兄ちゃん忙しいだろ」

 ついさっきまで顔を真っ赤にしていた夏彦は、今度は顔を真っ青にして慌てて両手を振る。まあ、よくこうも表情が変わるものだ。これでは当の奈津女にも、夏彦の気持ちはまるわかりだろう。まあ、弟をからかうのは、ここまでにしといてやるか。

とはいうものの、霧雨は夏彦の言うことを聞いて、今までごまかしていたが、自らの事にも向き合わざる負えなくなった。確かに、今のところ、弓以上に興味をひくものがないということは事実だし、むろん村の若い男女が品を交換したり、花をしたためて文を交わしたりするような出来事について言うと、今だ無縁であり、これから先も自分にそのようなことが起きるのかと言ったことが想像すらできないのもまた事実なのだ。

「まあ、俺の事の、そういう事は白境に姉を無事に送り届けてからでも遅くはないわけだろ?おいおい考えるさ。」

 この話はこれでおしまいとばかりに、いそいそと霧雨はやぐらを降りる支度をし、荷物を夏彦に投げると自分はさっさと木梯子を降りる。霧雨から不意に投げられた荷を両腕で受け止めた夏彦は一瞬きょとんとしたが、兄の姿が梯子の下に消えると、これがどういう事かにやっと気が付き、頬を膨らませて慌てて兄の後を追いかけた。

「あ~、兄い、荷物を俺に運ばせる気だな!ずるいぞ!」

「年取っていく兄ちゃんの事が心配なんだろ?それくらい手伝えるよな?」

 霧雨は下りかけていた梯子から顔だけひょっこりのぞかせて、いたずらっぽくニタリと笑うと「あ、忘れていた」と重ねてもう一つ投げた。

「こら!兄い!いい加減に……」

と言い終わらないうちに、兄から再び投げられたものの正体を目にした夏彦の瞳から、不機嫌さは一瞬にして消え、瞬く間に信じられないといった驚きが顔全体に広がる。

「……大フクロウ、仕留めたのか?」

「ああ。母さんに持って行ってくれ。これで少しは食いしのげるだろ?」

 大フクロウはフクロウの中でも高く早く空を飛び、射るのが大変難しい。ただしその肉は兎や他の鳥よりも油がのって比べ物にならないくらいに大層上手く美味だ。肉を食べた後の骨と羽は良い矢になる。春先のこの時期にはなかなか取れない貴重な獲物だった。いったい兄の目はどうなっているんだ。純粋な疑問と尊敬の念が入り混じった心持ちになりながら、夏彦は大人しく霧雨の荷物を背負って梯子を下りた。その間に霧雨はさっさとつないであった自分の馬の縄をほどき、鞍を整えると軽々と馬に飛び乗った。

「先に行っているぞ」

 そう夏彦に声をかけ、霧雨は颯爽と里山の方に馬を走らせる。背中から夏彦の声が追いかけるように聞こえてきた。

「兄貴、長の広間には正装で集合だぞ!辰の刻だからな!」

「ああ、分かっている!少し休んだらすぐ行くよ」

 大きなあくびをしながら霧雨は夏彦の呼びかけに片手をあげて答えた。馬に乗って走り去っていく兄の背中を見ながら、夏彦はつくづく疑問に思う。なぜ兄の凛とした姿勢はあんなにも早く馬を走らせているのに、全く崩れないのか?大フクロウを射て、一晩中、物見やぐらで獣や夜鬼の晩をしていた人間が出来る芸当なのか?弟の贔屓目で見ても、兄の体力や弓の腕は尋常ではないと思う。見た目だって、この里の男の誰にも引けを取らない華やかだ。ただ、村の女の子たちが、どんなに熱のこもった目で兄さんを見ていても、当人は全くそれに気が付いていないし、そもそも娘たちには全く関心がないと来ている。そんな兄だから、夏彦はしょっちゅう女の子から呼び出されて、霧雨の好みや想い人の有無についてしつこく聞かれるのだ。知らないと言ってもそんなはずはないと責められるし、適当なことを言えば、おいおい泣きだされる始末で、ほとほと恋をする娘の扱いは本当に難しいと思う。夏彦はここ最近、そんな経験ばかりしていて疲れ果てていた。夏彦が幼馴染の奈津女のところに通い出したきっかけも、そういう娘たちと距離を取りたいと思ったからだった。奈津女は村の娘たちの中では少し変わり者で、霧雨には全く関心がなく、というか、あまり色恋に関心はないように見える。昔から、そういう事に払う関心が全部書物に向かっているような女の子で、その点では飛鳥姉や霧雨ととてもよく似ていた。だから、夏彦は一緒にいて居心地が良かったのだ。その居心地の良さが、貴重だと感じるようになってきたこの頃、改めて奈津女を娘として意識するようになったともいえる。

「本当に、兄さんは、昔から、無自覚に罪作りだよな」

溜息と共に思わずつぶやいてしまった。夏彦は、兄にはさっさと気に入った娘を見つけて欲しいと思っている。奈津女曰く、他の土地では、男が沢山妻を持てるところもあるようだが、この里では、男が妻に出来るのは独りだけだ。選ばれなかった他の娘たちには新たな人を見つけてもらう必要があるし、そういうことは早い方がいいだろう。いちいち娘たちに拘束される自分の為にも、霧雨に恋心を抱いている数多くの娘たちの為にも、自分が世話焼きじいさんになるほかないではないか……

そう思うと、文句の一つも言いたくなるし、つくづく兄という人間は常人の感覚では測れないと思ってしまう。もはや羨望を通り越して、兄はきっと何か別の生き物に違いないとすら思えてくる。

「考えるのはもうやめよう」

首をふってその場で独り言をいった夏彦は、兄から預かった荷物を鞍に乗せ、自分も馬にまたがった。どうせどんなに急いでも、もう兄には追い付けないだろう。昨日も遅くまで伯父さんたちの酒に付き合ったのだ。体力温存も兼ねてゆっくりのんびり行こう。そうぼんやり考えながら、元来た道に向きなおった。

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