第2話

 避暑地の一角に、奇妙なカフェーが在る。店員は黒い燕尾服の主と大パンドラ人形の様に美しい給仕の巻き毛の少女のみ。珈琲と共に供じられる洋菓子は駅前の表通りの物だ。酒類の提供も無く、珍妙な飾りや置物に囲まれた其のカフェーは、夕暮れ時、閉店後に訪れると、人成らざるモノの影が蠢き、珈琲と洋菓子に興じて居るのだと噂は絶えない。


 夏の日差しの中、久子は日傘もささずに一人、商店街を歩いていた。生来、ぼんやりとしていると父母から注意を受ける事が多かったが、此処の所、自分でもぼんやりが加速していると言う自覚が有る。今も然うして、何故、自分が此処に居るのかが思い出せないのだ。暑さと日の眩しさに眩暈を覚え、日陰を求め歩く。と、目の前に一件の店が在った。古い造りの古物商の様な佇まい、奥に置かれた黄金と宝石で彩られた珍妙な顔の飾りが妙に目を惹いた。からり、と軽快な音を立てて戸が動く。否、久子が手を掛けたのだったか。扇風機の冷気が顔を撫で、久子は漸く人心地つけた気がした。珈琲の芳ばしい香が鼻腔を擽る。久子の背後で戸が控えめな音を立てて閉まり、大パンドラ人形の如き美少女が椅子を引いて着席を促した。素直に応じた久子に冷やし珈琲が出される。否、此れは氷珈琲だろうか。珈琲なぞは男の飲み物だと言ってうちでは飲むのは父だけだ。

 見回せば、やはり古物商なのだろう、店内には奇妙に思える物が幾つも並ぶ。金銀宝石で装飾された猿の頭骨、人程の大きさの河童の置物、天球儀、壺、象の親子の置物、羽織袴の犬の置物、流木、巨大な木の面……。所狭しとそんな物が並んでいた。其の中に、見覚えの有る顔を見つけた。顔が綻びる。

「お姉様、こんな所に居たのね」

 そ……と手を伸ばし、立ち上がって近付くと、抱き寄せる。

 奥では店主だろう男性がブラックの燕尾服を着てグラスを磨いて居る。

 窓の外を氷屋が自転車で通って行った。

「わたくし、ぼんやりとしておりますもので、なぜ、姉は此処に居るのでしょうか? ええ、わたくしも、なぜ此処に居るのでしょうね」

 独り言の様に囁くと、久子は給仕の少女へと顔を向けた。ゆっくりとした動きで席へ戻り、【姉】を自分の隣に座らせると、目を閉じ、再び口を開く。

「少うし、思い出しました。話を聞いて下さる?」


 【久子】は大店の一人娘であった。母は身体が弱く、久子の幼い頃に他界した。久子の生家は庶民ながら金だけは有ったので、貴族華族の子供達と何ら変わりのない贅沢をしてきた。其の一環が人形集めだった。常日頃より仕事を理由に母親似の娘を避け、乳母やに任せきりにしていた久子の父も、何も愛情が無い訳では無い。国内海外問わず取り寄せた人形を次から次へと届けさせる姿は、外からは愛情深く映っただろう。しかし、久子の寂しさは埋まらなかった。

 然して久子の五つの誕生日に、彼女は来た。春の花の盛りを少し過ぎたやや蒸し暑い日、十四世紀に作られたと言う小パンドラ人形は、久子の心を捕らえた。久子は小パンドラ人形に【とわ子】と名前を付け、妹の様に可愛がった。赤ん坊をあやすように揺すり、背に括り付けて何処へでも連れて行った。使用人達にも【妹】の【とわ子】を紹介して回り、久子のお姉さんぶる姿は見る者の心を和ませた。

 【とわ子】が来てから季節が二つ過ぎ、家の主人の久しぶりの帰宅が成る事となった。報せが有ってから連日、久子の母も使用人達も浮き足だっていた。愈々明日、久子の父の帰宅となる日、子守りのねえやと使用人数名で、準備の為の買い出しに息抜きを兼ねて骨董市へと足を運んでいた。久子も我が儘を言って連れて行って貰っていた。空が高く、秋の風が心地好かった。買い出しと言っても食材や必要な物は既に手配している。何か良い物があればという本当に息抜きがてらの散策の様なものだった。賑やかな市をねえやと手を繋ぎ、店を冷やかして歩くのは、其れはとても楽しかった。と、並ぶ露店の一つの店主だろう老人が久子を見留め、目を細めると無言で、久子に古い本を手渡してきた。思わず受け取ろうと手を出すが、ねえやが取り上げて老人へ返す。老人は、小柄で白い髪と髭が長く、丸で仙人の様だと、久子は思った。仙人が、口を開いて言った。

「お嬢ちゃん、あんた、人形が生きてたら良いと思わないかい?」

 仙人の声は、久子の脳を揺らした。其れは、五つの久子にはとても素敵な事に思えた。【とわ子】が本当に本当の妹になって、喋って、笑って、一緒に過ごすのだ。だが、ねえやは其れ以上を其処に留まる事を良しとせず、人混みへと手を引かれて紛れてしまった。

 屋敷へ戻った久子は、考えた。

「ねえ、【とわ子】、お姉ちゃまは【とわ子】が本当の妹になって一緒に遊べたら良いなと思うのよ。お人形じゃあなくて」

「【とわ子】もお姉ちゃまともっと遊びたいわ」

「然うよね。やっぱり其れが良いわ」

 【とわ子】と向かい合ってお人形遊びの様に声に出すと、久子には、其れはとても正しい事に思えた。

 翌日の昼前、だから久子は、大人達の目を掻い潜り、市へと走った。高い空と吹き抜ける秋風は前日と変わらないが、丸一日経ってしまっている。もしかしたら彼の本は売れてしまったかも知れない。と言う焦燥感から、一時間も走っただろうか。市の賑わいは昨日と変わらず、そして、あの露店の仙人も昨日と変わらず、其処に居た。ゴロリ、と遠雷の音を聞いた気がする。目を細めた仙人が煙管を置き、無言で本を差し出す。久子がその本を無言で受け取ると、仙人は“失せろ”とばかりに手を振った。ゴロリ、と、今度は確かに遠雷が鳴った。久子は、踵を返し、屋敷迄の道を走った。風が強くなり、急激に雨雲が空を覆う。久子は凄い宝物を手に入れた気になっていた。誰にも知られてはいけない、凄い凄い宝物だ。【とわ子】を人間にする凄い秘密の魔法の本だ。雨がポツリと久子の肩を叩いた。誰にも見られ無い様に抱え込み乍ら走り、自分の部屋へと飛び込んだ。外からは雨が強く地面や窓を叩く音がする。荒い息を整えるより早く、【とわ子】と目が合った。早く、早く、誰にも知られる前に【とわ子】を人間にしなくてはならないと思った。震える手で抱え込んでいた本を床に置く。そう……と、破れかけた表紙を捲ると、ビッシリと異国の文字が書かれていた。久子には、未だ、文字が読めない。ましてや、異国の文字はちんぷんかんぷんだ。だが……。【とわ子】の口が、動いた、気がした。

「お嬢様、久子お嬢様」

 ねえやに揺すり起こされた時、窓の外は既に夕焼けで真っ赤に染まっていた。

「旦那様がお帰りになられてますよ。お夕飯の準備も整っております。久方振りですものね。楽しみ過ぎて疲れておしまいなんですね。さぁ、顔を拭きますよ」

 にこにこと、ねえやが濡れ手拭いで【久子】の顔を拭う。

「あら、外に出たんですか? 髪も服もしっとりして……」

 ぼんやりと、ねえやを見上げ、久子は霞掛かった頭を一つ振る。

「ねえや、なんか、頭、ぼうっとするの」

「あら、お熱でもあるのかしら?」

 その後、そのまま意識を飛ばし、久子は数日寝込んだ。

 寝込んでいる間に、不思議な夢を見た。大海原で、見た事も無い大きな豪華な客船の甲板で、背の高い洋装の男性を父と呼び、笑って遠くの島を指差し何かを話していた。空も海も見た事が無い位に青かった。すると突如現れた海賊達が船を蹂躙し、人を、父を、殺し、然して船に火を放った。【私】の抱いていた小パンドラ人形が、甲板を滑り、海に落ちる。黒煙が青い空へと吸い込まれ、自分が倒れている事を知った。背が、腹が、焼ける様に熱かった。【私】も死ぬのだと思った時、目の端に、海に落ちた筈の小パンドラ人形の靴が見えた。【私】を見下ろす小パンドラ人形の向こうに、青く高い空が、見えた。

 数日後、久子は目を覚ました。だが、後遺症だろうか、其れ以来【久子】は常にぼんやりとする事が増えた。名を呼ばれても反応せず、丸で霞掛かった世界で生きているかの様に、目の前に居る相手すら見えていない事もあった。

 然して、時折、譫言の様に口を開き、「お姉ちゃまはどこ?」と繰り返した。その都度、ねえやが「ねえやは此処ですよ」と答えるも、首を振る。そして「お姉ちゃまはどこ?」とほろほろと泣いた。あれ程執心していた【とわ子】にも他の人形にも一切目を向けなくなり、人形達は手放されていった。


 【久子】と名乗った女性は、氷珈琲に口を付け視線を伏せたまま微笑む。

「気付かなかったのですもの。姉が、人形に成って居たなんて」

 然して、【私】が【久子】に成って居たなんて、と続け、【姉】と呼ぶ、隣に座らせた小パンドラ人形の髪を撫でる。

「こうして居ると、【久子】であった頃の記憶が甦ってくるのです。きっと、【姉】と【私】が一緒に、ずっと一緒に居る為に、必要だったのですわね。ただ、もう、私は【私】が【久子】なのか【とわ子】なのか、それとも別の【誰か】なのか……わからないのです……」

 窓の外は既に夕焼けで真っ赤に染まっていた。店の扉を開けて外へと出る彼女の手には、宝物の様に大切に抱き抱えられた小パンドラ人形が夕焼けに彩られ、其の瞳は丸で大火の中に沈むかの如く照り返していた。

 【久子】が店を後にし、給仕の巻き毛の少女が閉店の札を掛け、店内へ戻ると、かちゃりと小さな音を立てて、小柄な長い白髪と髭の老人が珈琲カップを置いた。大きな革鞄から破れかけた革の表紙の異国の本を卓上に置くと、山高帽を被り店の主人へと会釈する。じわりと闇に溶け込むその姿は、数秒も立たず完全に消え失せた。


 避暑地の一角に、奇妙なカフェーが在る。店員は黒い燕尾服の主と大パンドラ人形の様に美しい給仕の巻き毛の少女のみ。珈琲と共に供じられる洋菓子は駅前の表通りの物だ。酒類の提供も無く、珍妙な飾りや置物に囲まれた其のカフェーは、夕暮れ時、閉店後に訪れると、人成らざるモノの影が蠢き、珈琲と洋菓子に興じて居るのだと噂は絶えない。

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奇妙なカフェー 右左上左右右 @usagamisousuke

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