奇妙なカフェー

右左上左右右

第1話

「カフェーを始めようかと思っていてね」

 唐突に、叔父の陽治がそう言った。

 明治から大正になったばかりの昨今、どちらも特権階級向けだが、まだカフェーよりもダンスフロアの方が余程多い。カフェーよりもダンスフロアの方が人気があると言うことだ。

「ま……あ、女給達が何をさせられているか知っていらっしゃいますの?」

 一瞬、言葉を失った後、母の蓉子が口を開いた。

「あの下品な店の事を言っているのかい?」

 姉さん、と陽治は続ける。

「英国のカフェーはあんなんじゃない。お座敷遊びとカフェーの区別もつかない凡夫の店じゃなく、女性でも入れる純粋な珈琲の店を出したいんだ」

 英国に留学経験のある陽治は、いつも英国の良さを語り、残してきた恋人の事を語って聞かせてくれる。

「あちらではね、女性も働いてカフェーで珈琲も飲むし、男性の給仕がいるんだよ。まるで執事のようにあつらわれたブラックの燕尾服を着てね」

 それに、と陽治は少女を見た。

「祖父さんの店をそのままカフェに繋げてしまえば、この娘の奇異しさも紛れるじゃないか」

「美弥に女給をさせるつもりなの、あなた!?」

 蓉子が、声を荒げた。

 香島澤美弥。十六歳。背は高くも低くもなく、顔は目立たず、目が悪く祖母の合わない眼鏡を愛用しているが、高価な為買い換えもできず、先日、許嫁が急逝し、許嫁の家の援助で女学校へ通っていたので女学校を退学したばかりだ。もさもさと切れては跳ねる髪は櫛を通しても綺麗に纏まらず、お下げにせねばどこまでも広がる。麗しい女学生の中でも一際地味な存在である事は自覚している。

 若さしか取り柄の無い美弥には、何処ぞのヒヒ爺の後妻くらいしか行く宛も無いだろう。

 それが、曾祖父の店を継ぐとは。

「正確には、継ぐのは僕だよ。そして、美弥には看板娘をして貰おうじゃないか」

「あなた、そんな」

 蓉子が狼狽えるのも無理は無い。


 母の蓉子が夫に離縁されて実家に戻された原因は娘である美弥だった。

 産まれてすぐの美弥は、首に臍の緒を巻き付け、真っ青な顔で泣きもしなかったと言う。死産だったと誰もが思った。顔に打ち覆いを掛け赤子用の布団に寝かせて置いた所、不意に息を吹き返し産声を上げた。出産から一刻も過ぎた頃だった。やがて成長するにつれ、美弥は何も無い場所へ手を伸ばし笑うようになった。其れを大人達は不気味がり、死に戻った赤子だ、妖しの者の取り替え子だと、産んだ母子諸共、生家へと突き返したのだ。

 蓉子の生家は没落を辛うじて免れているだけの華族だった。いくら稼いでも大きな屋敷をいくつも持っている為、維持費と使用人の給料に消えていく。莫大な税金も掛かり、一つ二つ売ろうにも買い取ってくれる宛もない。精々が銀行から融資を受ける担保に入れておくくらいだ。だが、担保にしたからには価値が下がると困るので、使用人を雇って管理させる。堂々巡りである。

 跡取りとして世界を見据えて行かねばならぬと陽治が留学を決めた時も、銀行から融資を受けたものだ。

 その陽治がカフェーを始めると言う。

 蓉子には崖に向かって突き進む自動車にしか思えなかった。

 溜め息を吐く蓉子の目に庭のオートモ号が飛び込む。陽治の物だ。海外輸出用の其れを自分に重ね合わせ、態々購入し日本に逆輸入したのだ。

 あんな道楽品を買う位なら、美弥に似合いの眼鏡の一つでも新調してやりたかったが、如何せんもう何処をどう遣り繰りをすれば良いのかと頭を抱える日々だ。

 美弥の許嫁は大層な大店の嫡男だった。気の良い優し気な年上の彼を、美弥は兄の様に慕っていた。彼の親は彼を婿養子に入れる事で華族との繋がりを求め、美弥の生家は援助を受ける約束だった。だが、そんなものは只の表向きである。美弥と彼の祖父達が二十代の頃に遊学の為、阿蘭陀へと向かった船の中で意気投合し、数年を親兄弟よりも共にし、いつか自分達の子が異性同士ならば縁組みさせようと固く約束を交わしたと言うのだ。そして、孫の誕生に寄って現実と成った折り、彼の親が納得する理由として、香島澤の家格を息子が手に入れると言う話に発展した。金で爵位を買った、との思いも無きにしもあった。だが、それが立ち消えた。今まで援助した分を借金としなかっただけ、有り難い。母娘共々、相手に恵まれぬとは。

「お祓いにでも行こうかしら」

 呟いた蓉子の視線は、愚弟へと注がれていた。


 曾祖父の店迄は、実家から車で5時間はかかる避暑地に在った。夏に成れば金持ちが訪れる。そして別荘の維持の為、使用人達の住宅街がすぐ近くに存在していた。駅前には土産屋や飲食店が建ち並び、一本裏に入れば商店街があった。商店街の精肉店は表通りで軽食屋を営み、金物屋は表通りで金具細工の土産物を売る。その表通りの最奥、別荘地との間に、曾祖父の店は在った。

「ああ、懐かしいね。やっと故郷へ帰って来た気がするよ」

 ガタガタと引戸を開ける叔父に、美弥が首を傾げた。

「兄様、鍵は掛けてなかったの?」

 長らく留守をしていたのだから当然の疑問だろう。しかし、陽治はズカズカと中へ入りながら答える。

「要らないのさ。番が居るからね」

 埃の舞うくらい室内でガタガタと音を立てて雨戸を開けようと苦心している叔父を、入り口の外から眺めていると、細く差し込む光が徐々に太く成り、丸で聖者の降臨の様に陽治を照らし出す。何年振りか、十何年、何十年振りなのか、厚く積もった埃は手入れなどされた様子も無い。

「さぁて、掃除だ掃除だ」

 入り口の外で立ち尽くす姪に、陽治は咳き込み乍ら言った。

 口と頭に手拭いを巻き、雑巾を絞る。分厚い埃は采払では歯も立たず、摘まめば一反の綿の様に剥がれる始末である。然うして埃を剥がした後、一つ一つ店に並べられた物を丁寧に拭き上げる。

 店には、変な物が多かった。

 金銀で装飾された猿の頭骨、人程の大きさの河童の置物、天球儀、壺、象の親子の置物、羽織袴の犬の置物、流木、パンドラ人形、巨大な木の面……。所狭しとそんな物が並んでいた。

「此処は何のお店なのです?」

「祖父さんは蘭学を学びに日本を飛び出した御仁でね」

 陽治は奥の日の届かぬ台に寄り掛かると美弥の方へを顔を向けた。

 海外に行くのは血筋なのだなと、美弥は頷く。

「其の時に持ち帰ったり向こうの知人にやろうと面白そうなのを集めて倉庫に放り込んだ。其れが此処だよ」

 店ですらなかった。しかし、建物は店舗の其れである。

「然う言えば、御曾祖父様って船の事故で亡くなったと……」

「僕らが始めるには丁度良い店だろう?」

 美弥の言葉を遮り、陽治は言った。影に馴染む陽治の表情は、美弥には見えなかった。


 店舗の掃除を終え、勝手口から土間に入ると水場があった。水場と店舗の境の廊下は堆く積まれた木箱で埋まっている。

「兄様、私共のお部屋は二階と仰有っていらしたかしら」

「やぁ、あはは」

 等と会話をしつつ、当座通れるだけの空間を掃除と同時進行で確保して行くと、ほうほうの体で階段へと辿り着いた。其処から上は打って変わったもので物の無い階段と物の無い和室が二間続いていた。

「手前が僕、お嬢様は奥が良いだろう?」

廊下も無い二間なので、常に陽治の部屋を通って奧の部屋へと行かねばならない。着替えや諸々を鑑みてであろう、有り難く提案を受け入れる。然うして漸く人心地着いた頃には既に日も傾き、火の入れられた竹細工の行灯は薄暗い室内に優しげな明かりを灯した。水場でなんとか湯を沸かして茶を淹れ、来て直ぐに駅前の商店街で買った握り飯を、頬張る。布団は新しい物を届けて貰ったので、後は寝るだけだ。と思っていた。

 控えめな扉を叩く音。からり、と軽快な音は、店舗からだろうか。ごめんください、と消え入りそうな女性の声が、一階から聞こえてきた。

 ぞくり、とした。厭な汗が一息に吹き出る。

「やぁ、早速お客さんかな」

 腰を浮かせる叔父の服を、思わず掴み、美弥は首を横に振った。

「あ、あれは、あれは……」

 あれは、何か、とてつもなく厭なモノだ。

 言おうとした美弥の喉は干上がった様に息が吐けない。

「大丈夫。アレは僕の昔馴染みだ」

 安心させる様に微笑み、頭を軽く叩くと、陽治が立ち上がる。

「大方、噂でも聞いて挨拶に来たのだろうよ」

 そう言うと叔父は階段を降りて行ってしまった。慌てて後を追おうと立ち上がり、美弥の顔から眼鏡が落ちた。そして、間の悪い事に踏みつけにしてしまったのである。厭な音と共に、眼鏡は真っ二つに割れた。美弥は、目が悪い。眼鏡が無いと何も見えない。其れは、本人でも原理の理解らぬ事象ではあったが、事実であった。美弥は、人成らざるモノが見えた。視界を覆う程の大きい何かが、いつも美弥の目の前に立って居た。眼鏡を通すと物の怪の姿が見えなくなる為、眼鏡を掛ける事に寄って、何とか日常生活を送れて来たのである。其れが割れてしまった。が、一瞬の躊躇の後、美弥は叔父を追って階段を降りた。店舗側入り口には此方に背を向けた叔父と、おすべらかしの華やかな十二単の女が立っていた。この大正の世にそんな姿で出歩く女性は居ない。得も言えず心の臓の凍りついた心地がした。

「あ……兄様……」

 声を喉から捻り出し、叔父を呼ぶと、振り返る叔父と共に、女が此方へ視線を投げた。

「あれ、眼鏡は?」

「佳い目を持っておりますな」

 陽治と女が同時に声を上げる。するりと音も立てずに美弥に迫って居た女は、身動きの取れぬ美弥の頬を撫でると美弥の目を覗き込んだ。

「要次郎譲りの、佳い目じゃ」

「然うでしょう然うでしょう。僕に佳く似て居るでしょう」

 ヨウジロウ、と言うのは曾祖父の名だ。叔父の、陽治の名では無い。

 女の目を覗き返す形に成っていた美弥は、ぐるりと世界が回転するのを感じた。

「……言祝う。我が……の名に……」

 女の言葉が遠く、遠くなる。


 美弥には、渡英前の陽治と帰国した彼がどうしても同一人物に思えなかった時期があった。同じ顔の別人だと。だが、渡英前は未だ幼かった事もあり、勘違いだと思い込もうとしていた。陽治の訃報が、陽治の帰国の少し前に届いていたのも、その一因に思えた。帰国後の叔父は「亜細亜人なぞ、英国の人間には全て同じに見えるんだよ」と人違いだと笑い飛ばしていた。


 数ヵ月後。避暑地の一角に、奇妙なカフェーが在ると噂に成った。店員は黒い燕尾服の主とパンドラ人形の様に美しい巻き毛の少女のみ。珈琲と共に供じられる洋菓子は駅前の表通りの物だ。酒類の提供も無く、珍妙な飾りや置物に囲まれたそのカフェーは、夕暮れ時、閉店後に訪れると、人成らざるモノの影が蠢き、珈琲と洋菓子に興じて居るのだと。

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