エピローグ

白月の下で

 宿泊棟のエントランスは静まり返っていた。

 最後にイグに会った一階の部屋は数日前に掃除した姿のままで、床や天井にマラットの血の跡もなければ、窓ガラスはひび一つない。

(イグの部屋は……、三階の一番奥……)

 宿泊客用の帳簿からも彼の名前は消えていた。だけど、彼が泊まった部屋は覚えているし、部屋の鍵もなくなっていた。

 まるで、彼がわざと足跡を残したように。

(開いてる……!)

 何の抵抗もなくドアが開いた。

 逸る気持ちを落ち着かせながら開け放ったドアの向こうに、カーテンが揺れる窓と夕暮れに赤く染まったレプス湖が広がる。

 キラキラと紅く光るレプス湖を白い水鳥達が渡り、湖を行く船から楽しげな笑い声が静かな部屋に届いた。

 小さく息を吐き、リィルは誰もいない部屋の中へと歩を進めた。

 綺麗に整えられたまま使われた跡のないベッド、同じく使われていないクローゼット。

 そして――、テーブルの上に置かれた部屋の鍵と、図書室から消えた一冊の辞典。

「もう……、ちゃんと返しに来てよ……ッ」

 震えるような声に応えるように、表紙が独りでに開いた。

 補強された赤いカバーの辞典の中ほどで蒼い光が揺れ、風に吹かれるようにページが繰られてゆく。

 やがてページが止まり、透明な薄い板に蒼く光る押し花を閉じ込めたしおりが姿を現した。

「この花……」

 鐘のように膨らんだ特徴的な花に、細い葉と茎。さっきリタが持っていた鉢植えに咲いていた紅龍の釣り鐘草とよく似ているが、その色は夕べ、彼が操った炎のような蒼――、祈りの釣り鐘草だ。

 そっと触れた指先で栞が蒼く瞬いた。

 板の中から釣り鐘草が起き上がり、黒い石と銀の指輪のペンダントに姿を変える。

 役目を終えたように栞が消え、後には夕陽を弾くペンダントだけがページの上に残された。

 手に取ったペンダントは冷たいけれど、どこか温かい気がした。

「……ありがとう……、」

 フルスの皆を助けてくれて。

 紅龍の釣り鐘草を咲かせてくれて。

 ペンダントを残してくれて――、

「ごめんなさい……っ」

 酷いことを言って。

 謝ることもできなくて。

 お礼も言えなくて。

「……たった今ね、卒論のテーマが決まったの……」

 部屋には誰の気配もない。

 だけど、彼が聞いてくれているような気がした。

「貴方は反対してたけど、『幻想夜』にするわ……。火獣王の月に発つから……」

 ペンダントをつけ、祈るように精霊石を握り締めた。

「見てて……、絶対に今夜を乗り越えてみせるから……! フルスの全員で、笑って来週の祭典を迎えてみせるわ……! 貴方がくれたチャンスだもの……、無駄にするものですか……!」

 窓を閉め、辞典を手に部屋を後にした。

(やっと、見つけた……!)

 心の底から知りたい、探したいことが。

 どこまでも当てがなくて、どれくらいかかるかわからない旅。目的だけがあって、計画も順路ルートもない旅だ。

 だけど、こんなにワクワクしている――。

(本と鍵を返したら、叔母様に噴水のことを相談しなくちゃ……。水門も閉じて……、今夜は完徹して巡回して……、あ、その前に荷物を降ろさなくちゃ……!)

 宿泊棟から出ると、暮れてゆく空の中で白い月が存在感を強めていた。

 蒼月王の象徴に、心の中で語りかける。


 ――幻想夜を追いかければ、いつか、どこかで、イグあなたに会えるはずだもの……



    < 幻想前夜祭 終 >

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

幻想前夜祭 夜白祭里 @ninefield

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ