大好き 永遠に
風来坊
大好き 永遠に
【出逢い】
私の名前は上村奈菜。大手ゼネコンに勤務している30歳独身。両親、4歳年下の弟の四人家族。仕事は、建築設計士。
彼の名前は鈴木健一、身長は183センチ、体重80キロ筋肉質でガッチリ体型。野球の選手みたいな感じ。仕事は、大手電機メーカーに勤める40歳の既婚男性である。
彼との出逢いは、今にも降り出しそうな梅雨空の中、私が仕事で現場での打ち合わせのため、外出先の小田急電鉄向ヶ丘遊園駅の改札口で帰りの時刻表を見ていた時、偶然、隣で同じ様に時刻表を見ていた、背の高い男性におもわず、私から彼に声をかけたのがはじまり。
私は、仕事の打合せが少し早く片付き、まだ時間は早かったけれど、会社に戻らず、その日は直帰しようか考えながら小田急線向ヶ丘遊園駅に向かって歩いていた。しばらく歩き、向ヶ丘遊園駅の改札口のところの時刻表で帰りの電車の時間を見るため立ち止まった。ふと隣にオーラがある素敵な男性がいることに気づき、何故でしょう、私は恥ずかしいなどとは考えず、気がついたら背の高い素敵な彼に話しかけてしまいました。今思うと恥ずかしく、私が彼にどう声をかけたのか、何を話したのかあまり覚えていない。いわゆる私の一方的な一目ぼれでした。多分、「あの、宜しければ、お茶でも飲みながらお話しませんか。」こんな感じで、私から気楽な気持ちで声をかけてしまい、完全な逆ナンパ。彼は一瞬驚いた顔をしたけど、「少しだけでしたら」と断ることもなく、小田急線向ケ丘遊園駅前の喫茶店に入ることにした。お店は、昔の喫茶店の雰囲気で、比較的席は空いていた。窓際の席に座り、お互いにアイスコーヒーを頼んだ。お互いの自己紹介から始まり、私は突然声をかけた事を謝った。話をしている中で、彼も外出中で少し時間調整をしているところであったようでした。仕事の話題などで盛り上がり、私たちは、もう長く付き合っている恋人の様な感じ、時間が経過するうちにお互いの警戒心もなくなり、アイスコーヒーの氷も解けて無くなるほど、時間が経過していた。私はこの人にまた逢いたい。そんなことを考えていた時、彼からそろそろ出ましょうか。彼の低くて素敵な声で言われ、断ることもできず私も席を立ち上ろうとしたとき、私は勇気を出して、彼に電話番号、メールアドレスの交換をお願いしたいことを彼に伝えた。彼は心良く電話番号とメールアドレスを教えてくれ、私は連絡先を交換できたので、嬉しく、彼とまた逢えることを期待し、駅に向かう際、歩きながら少し微笑んでしまった。小田急線向ヶ丘遊園駅の改札を入り、彼は隣の駅の登戸に向かうため、私とは反対側のホームの電車に乗るため階段でお別れ。私はまた会えると喜びながら、ホームに入ってきた急行電車に乗って帰宅することにした。
【再会】
私は、彼と出会って以降、ふと一人になると彼の事を思い出してしまい、気持ちを抑える事が出来なくなる自分がいる時があることに気づき始めた。初めて彼にあってから、一か月が経ったある日、私は昼休みに外食した際、勇気を振り絞り、彼に電話をかける事にした。
携帯の着信音が何度か鳴った後、電話がつながり、緊張と少しうれしそうな彼の声が聞こえた。「久しぶり上村さん。僕も君のことが気になっていたよ。でも、僕は既婚者だから、電話をかける事や好きになる事は、いけないと思っていた。」と彼も少しは私の事、気にしていてくれたことが嬉しくて、照れている自分がいた。
そろそろ、昼休みも終わりそうな時間になり、私は思い切って彼に会いたい思いを伝えた。彼も、是非、会いたいと言ってくれて、後日、新宿で会う約束をしてくれた。電話が切れた後、既婚者の男の人と会っていいのかな。でも彼が気になって仕方ない。この気持ちを抑える事が出来ないわたしがいる。後日、お互いの仕事の都合の良い平日に会う約束ができた。
約束の日、定時を告げるチャイムが鳴り、私は作成中の図面を切り上げ、まわりも見えず、彼の待つ場所に向かった。彼からの提案で、お互いに友人を一人連れ、4人で飲むことになっていた。待ち合わせは、新宿駅西口の改札口前、待ち合わせ時間は19時30分にした。私たちが少し早く着いたので、私は友人の吉田美紀を連れて行き、待っている間に彼の事を少し話すことにした。待ち合わせの時間を少し過ぎたところで、彼が友達を連れて合流。挨拶もそこそこに、居酒屋を探し、テレビなどでよく聞く居酒屋チェーン店に入ることにした。個室に入れなかったので少し騒がしいけど気にしない。
席に座るなり、お互いの連れの紹介を行った。彼の連れの人の名前は佐藤聖。30歳独身、仕事は設備設計を行っていて、真面目そうで好青年に見うけた。彼女もいないことから、彼を私に紹介しようと考えていたようだ。私が連れてきたのは、中学時代から何でも話せる親友の吉田美紀。外見は優しそうな感じだけど、気が強く、頼りになる女性。お互い連れの紹介もそこそこに、ビールを注文し、とりあえず乾杯。私は連れの紹介などどうでもよく、彼と同じ空間に居たかった。彼は美味しそうにビール飲み、私はビールを少しだけ口に含んだ。嬉しくて、彼の仕草を見ているだけで心臓が破裂してしまいそうであった。
昼食以降、何も食べていなかったので、メニューにある食べ物が美味しそうに見えたのは私だけだったのか。彼と連れの佐藤さんに食べ物を選んでもらい、鈴木さんがどの様な物を選ぶのか観察している私に気づき、少し恥ずかしくなった。
大分アルコールが入り盛り上がってきたところで、美紀と彼が話をしている。周りのお客が酔っぱらっているみたいで、声が大きく彼と美紀の話が聞こえない。佐藤さんがトイレに立った時、私は思い切って彼の隣に座り、彼と話すことが出来た。美紀と何を話していたのか尋ねたが、彼は話をはぐらかし、教えてはくれなかった。
この居酒屋は2時間制で、もうすぐ二時間になる。好きな人と一緒にいると時間がたつのは早く、楽しい飲み会もそろそろ、お開きの感じ、伝票を持ち、彼が席を立ち会計を済ませに向かった。私たちも席を立ち、外で会計をしてくれている彼を待つことにした。会計が済み彼が私たちのところに来ると、美紀が彼に声をかけ、少し離れたところで少し言い合いをしている。私は美紀と彼が話をしていることに少し嫉妬した。彼に近寄り、美紀と彼の会話を聞いて驚いた。美紀は彼に「あなた既婚者でしょ。奈菜はそれを知っているのですか。騙しているのなら許しませんよ」と彼に詰め寄っている。私が呼ばれ、「奈菜、彼が、既婚者だということ知っているの」美紀は興奮し、私を強くしかった。
私は、美紀がいきなり彼のことを言い出したことに驚いた。彼を見れば既婚か独身かは判ると思う。既婚者であっても、私は彼が好き。私が美紀にそう言うと美紀は激怒し、私の手を引き新宿駅西口の改札口へと向かった。私は後ろを振り向き、彼に謝ろうとしたが、美紀の力が強く、気づくと彼とかなり離れ、残された彼と後輩の佐藤さんが、その場に残されている景色だけがスローモーションのようであった。
結局、その日は美紀の家に泊まり、一晩中、彼の事を美紀に話し、気が付くと始発電車が走る時間になっていた。その後、思っていた通り彼からの連絡はなく、短い恋愛とあきらめ、美紀からは絶対に彼とはもう会わない約束をさせられた。それ以降、私は仕事に実が入らず、ただ一日が終わっていく毎日であった。
あの出来事を忘れるくらいの時間が経過し、もう7月、そろそろ梅雨も明けようかとしていた頃、抑えていた気持ちを抑えきれず、私は勤務中であろう彼の携帯に連絡をしてしまった。携帯電話のコールが何度も鳴っていたけど彼は電話に出てはもらえなかった。きっと仕事で電話に出る事が出来ないのだろう。もしかしたら、私からの電話であることが分り出てくれないのか。そんなことを思いながら、会社の退社時間になり、帰り支度をすませ、最寄り駅の溜池山王駅に向かった。この辺りは再開発地区なのであろう工事が行われ、数年後には見違える街になるのだろう。
溜池山王駅に向かう途中、昼間電話に出てくれなかった彼に電話をしてみた。
4回着信音が鳴ると「はい。鈴木です」と彼の声が聞こえた。私は立ち止まり、懐かしい彼の声に、「ご無沙汰しています。奈菜です。昼間電話してごめんなさい」。彼の返事も聞かず、突然ですみませんが、あなたに逢いたい。会ってお話がしたいのですが。
彼から、「私は構わないけど、既婚者と会ったら美紀さんに叱られない。」彼からそう言われ、私は動揺を隠せず携帯電話を耳に当て、彼が言っている事を聴くだけであった。私の頭の中は既婚者に電話してしまっている。会ってはいけない。会ってしまえば夢中になってしまい、彼に迷惑をかけてしまいそうな気がした。すると、彼はいま、まっ直ぐ帰るのももったいないので寄り道していたところの様であった。私は、どうしても会って話がしたい。これから少しで良いので会ってほしい。と彼に初めて、わがままを言った。彼は少し困った感じでいたが、承諾してくれた。その日、20時に東横線多摩川駅改札口で会う約束ができた。私は溜池山王駅から渋谷駅に向かい、渋谷駅から東横線で多摩川駅に向かうことにした。
多摩川駅は、住宅地であり、直ぐ隣は、有名な田園調布がある場所。多摩川駅に20時少し前に着くと、帰宅帰りのサラリーマンやOLが家路へ大勢歩いている。待ち合わせの場所に着いたけど、残念ながら彼はいなかった。私は、電話で話したとき、彼も会いたいと言っていたので、少し待つことにした。私は色白で、髪の毛を金色に染め、背も高いので一目で見つけてくれると思った。お願い、私を早く見つけて。
電車が駅に着くたびに大勢の人が、行きかい、改札口から出てくる人を見ていた。やがて、背の高い男の人が、こちらに向かって走ってくる。彼が慌てて私のところに駆けてきた。「ごめん。待った。」お互い再会できた事を喜びながらも気まずい感じであった。私たちは、初めて会った時の様な二人の会話に戻るには時間はそれほど必要ではなかった。逆に以前以上にお互いを必要としているような雰囲気となっていた。挨拶もそこそこに、とりあえず、近くのレストランに入ることにした。ご飯を食べながらお互いの近況を報告しあい、気がつくと時間は23時を過ぎていた。時間も遅くなってしまった事を彼が気にし、私を自宅まで車で送ってくれることになった。
私の自宅は小田急線の相模大野駅。ここからだと一時間以上はかかる場所。もっと話していたい。彼と同じ空気を吸いながら、彼と話がしたい。もう少し彼と一緒に居たい。彼も、もう少し一緒にいたいと言ってくれた。
レストランを出て、電車で自宅に向かうのかと思ったら、彼の自宅に車を取りに行くことになった。レストラン前の国道を歩き出し、東京と神奈川の県境の多摩川に架かっている丸子橋と言う橋を渡り、彼の自宅がある武蔵小杉まで歩いて向かった。
彼の自宅は住みたいランキング上位の街の高層マンションが立ち並ぶマンションの一つであった。私は彼に案内され、マンション地下の駐車場で待つことになった。しばらくすると彼が戻ってきた。
私は彼に本当に大丈夫なの。奥さん、いたんでしょ。と尋ねると彼から、妻は食事の後片づけをしており、私がまた、出かけてくることを伝えると鍵をもって出かける様に言われたよ。鞄を置き、鍵と財布を握りしめ、エレベータに飛び乗ってきたよ。と彼は笑って言った、私は嬉しくて彼の目に吸い込まれてしまいそうであった。
地下駐車場に置いてある彼の車に向かい歩きだした私たち。私は罪悪感を抱きながら、でも、彼が好き、もう離れたくないと思が増していくのが分かった。青のスポーツタイプの車、助手席のドアを開けてくれた。私は彼の車に乗りこみシートベルトをしめると緊張し、隣にいる彼の顔を見ていると車が相模大野駅へと動き出した。
夜も遅いためか道路はすいていた。彼から、246号線を走り、途中の青葉インターから東名高速に乗り、横浜インターで降り、16号線で相模大野を目指すことを言われた。東名高速を運転中、私は彼の顔をじっと見つめた。しばらくすると彼が私の手を取り、握りしめてくれた。嬉しくて私も握り返していた。もうすぐ横浜インターを降りるころ、私は身体を彼に寄りかけ甘えてしまった。私は彼に奈菜と名前で呼んで欲しいことを伝えた。
彼は嬉しそうな顔をしてくれた。彼の車はETCなので止まることなく料金所を通過していく。私の自宅は横浜インターを降り厚木方面に向かうのですが、車は横浜方面に彼はハンドルを切った。しばらく走るとホテルのネオンが見え、私の了解も得ず私たちの乗った車はホテルへと滑り込み駐車場に停車した。そして私は、彼と結ばれた。実は私は彼が初めての男性であった。とても不思議な感じで嬉しかった。その日、自宅への帰宅は3時を少し回っていた。これ以降、ほぼ彼とは毎日会うようになり、自宅での睡眠時間は4時間程度の日が続くことになろうとは、予想もしていなかった。彼は私と会うと車で相模大野まで送ってくれ、彼は、自宅に戻るのは深夜になり仮眠状態で出社、仕事をこなしている日々が続いていくことになった。彼には申し訳ない気持ちと、感謝の気持ちしかなかった。
【初めての旅行】
暑い日が続いていたが、ここのところ朝晩、少し秋の気配が漂う様に涼しくなってきた8月下旬、健一と1泊2日で、旅行に行くことになった。目的地は栃木県。国の文化財でもある、日光東照宮を見に、私は、両親に親友の美紀と旅行に行くと嘘を伝え、健一は仕事で泊り出張と家族にいってきたようです。待ち合わせは、JR武蔵小杉駅前ロータリー朝8時。彼はスーツ姿で車に乗って煙草を吸っていた。私は服装を見て少し驚いたふりをしたが、仕事と言ってきたのだから仕方ない。
大好きな健一とお出かけができる。それだけで幸せ。通勤時間でもあり、周りは、沢山の人が職場に向って歩いている。健一の青い車に乗り込み、車は神奈川県と東京都の境を流れている多摩川を渡り東京に入った。高速に乗るために、しばらく走ると都内は流石に混雑している。やがて環状7号線から東北自動車道に乗り宇都宮を目指すと健一から説明された。都心を抜けるまでは少し混雑していたが、隣に健一がいるので気にはならなかった。混雑していた環状7号線から東北自動車道に乗ると平日でもあったので東北自動車道は混むこともなく、私達は都心から離れていく。私は、高速道路の快適よりお互いに会社をサボり、大好きな健一が隣にいることが何より嬉しかった。東北自動車道の宇都宮で高速を降り、日光宇都宮道路をしばらく走り、最初の目的地、東照宮に12時に到着。
車を駐車場に入れると健一はスーツの上着とワイシャツを脱ぎ、持ってきた白いポロシャツに着替えた。着替えた健一は若く30代でも通用しそう。駐車場を歩き出すと、木の香りなのか、こんなに空気が美味しいと驚いてしまった。しばらくすると、杉並木が目に飛び込んできた。私が感激して歩いていると、隣にいた健一が私の手をそっと握りしめてくれた。嬉しかった。健一の大きな手は暖かく、私は幸せな気持ちになった。
杉並木をしばらく歩くと、目の前に東照宮の陽明門の素晴らしい細工が飛び込んできた。でも、陽明門もいいけど健一がもっといい。少し上を二人で眺めていた時、健一の頬が私の目の前にあり、私は唇を健一の頬にあてた。二人に驚きの様子はなく、ごく自然に感じた。見学も程々にし、きた道を戻る事にした。
夕方になると8月下旬であるけど、さすがに日光は冷え込み、私たちは駐車場に停めた車に戻り、今夜の宿に向かうことにした。
私は車の中で、健一とお泊りできることが、とても嬉しく思っていた。宿は日光東照宮から少し離れた小さな宿であった。中居さんに部屋へ案内され、宿帳を手渡され、健一が記載しているところを覗いてみると、名前、鈴木健一、鈴木奈菜と彼が記載したのを見たら、身体が熱くなっているのが分かった。仲居さんが平日でもあり、今晩、宿泊するのは私達だけと教えてくれ、健一から一泊とまりなのに奈菜、随分荷物持ってきたね。と笑いながら言われ、女性はいろいろと必要なものがあるの。私がドライヤーまで持っていたことを健一は、楽しそうに笑っていた。
そんな会話をしている時、中居さんから、お風呂は貸し切りにできますけど、どうされますかと、中居さんに言われ、私が戸惑っているところで、健一からお願いします。と言葉が出た。私は一緒にお風呂に入るなんて恥ずかしくて、考えただけで赤面してしまった。部屋に置いてあった浴衣に着替え、貸切風呂に行くことにした。
お風呂はヒノキのかけ流し。大人3人は入れる大きな浴槽。健一が気を利かせて、灯りを薄暗くしてくれたおかげで私は浴衣を脱ぐことが出来た。湯舟に二人で入った。うっすらと健一の顔が分かるくらいの明るさ。その時、健一が私を抱きしめてきた。拒む間もなく唇が重なり合う。私はすべてを健一に見て欲しかった。私は、もう健一に任せちゃおうと離れようとはしなかった。このまましばらく、このままでいたい。けれど、のぼせてしまいそうなので、お互いの身体を洗いお風呂から出ることにした。とても恥ずかしかったけど、幸せ。
浴衣を着て部屋に戻るのかと思ったら、戻らず、二人で食事をする場所に向かった。健一がビールを頼み、二人で乾杯。いったい何に乾杯したんだろう。でもとても嬉しい。今日は自宅に帰らなくていい、大事な人と一緒にいられる。食事は食堂で宿泊者全員が取るようであったが、今日は私たちだけなので、誰も来ることはなかった。宿の人は仲の良い夫婦旅行の様に見えて居るのか、もしかしたら、不倫旅行と気づいているかもしれない。そんなことを考えながら、食事を済ませ部屋に戻ると、またもや驚きがあった。扉を開け、奥の部屋の15畳もある部屋の真ん中に布団が二組、くっついて敷いてある。健一は驚いている私をみて、笑い、「布団離して寝ようか」と意地悪な事を言った。私は赤面していたけど、この状況のままでいいことを照れながら健一に伝えた。部屋に戻る途中でビールを購入して健一と部屋でまた乾杯となった。
今夜は、お酒の力を借りないと眠れないような気がした。夜中に目が覚め、先程、健一に強く抱きしめられた事を思い出し、現実を確認できた。とても幸せ。隣に寝ているのは、まぎれもなく健一。
先ほどのことが夢のように思えた。ふと起き上がると体の中から、健一の精液が垂れるのが分かり、驚きと幸せな気持ちになった。私は一瞬、子供が出来てしまったらどうしようと、私は悩んだが、健一の子供が欲しいことも確かであり、その事はあまり考えないことにした。その様な事を考えていたら、わたしは、なかなか眠れず、睡眠も程々に目が覚めてしまい、横になっても隣に寝ている健一をただ見つめているだけであった。
結局熟睡することができなかった。朝5時に隣で寝ている健一が目を覚まし、健一は、黙って私の唇にキスをしてきた。私も素直に健一の唇を重ねた。お互い、いやむしろ私の方が、それだけでは終わらなかった。私の身体は既に健一を受け入れる準備が出来ている。健一もその事を知り、強く抱きしめながら、ゆっくりとわたしの奥深くまで入ってきた。私は健一が初めての男性。私は、もう健一と離れることは考えられない気持ちになってしまったが、健一は既婚者。叶わない恋なのかと諦めと罪悪感を感じている私。しばらくして、朝食を食べながら、私の頭の中は、あることを考えていた。私たちはお互いの気持ちを確認しあうことが出来たことに満足して、帰り支度を始めた。私は支度をしている最中、この健一とどうしたら一緒に居られるか考えた。こうしていることは、いけない事は分かっている。でも、健一といたい。私は健一の家庭を壊そうと考え、咄嗟に彼の荷物が入った鞄にそっと、私の下着を忍び込ませることを考え実行した。
【父の病気】
10時に宿をチェックアウト、日光に来たからには、華厳の滝を見なくては。健一に頼み、華厳の滝へ。40分ほどで華厳の滝に到着。平日でも観光名所なだけある。沢山の人が訪れていた。滝はとても神秘的で健一と来たことを忘れることはないだろう。幸せ。
華厳の滝を目に焼けつき、楽しい旅行ももうすぐ終わり。車に乗り込み東京に向け、車を動かす彼。私は来た時より、二人の距離が縮まった様な気がした。鞄の中に入れられたことも知らず、楽しく話す彼。途中休憩を数回とり、休憩で立ち寄ったサービスエリアでは、私は健一から離れなかった。ずっとこのままで居たいと思っている。車は東北自動車道を気持ちよく走り、車のナビが群馬県に入った知らせがあった頃、いきなり私の携帯が鳴り驚いた。
電話の相手は、母親からの連絡であった。慌てた母親からの一声は「お父さんが倒れたの、直ぐに帰ってくるように」、隣で母親との会話の様子を見て、私が尋常ではない状況を健一は察していた。その電話以降の車の中での会話は、何を話したのかあまり覚えていない。少し前まで楽しかったのに、健一と会話がなくなり、とても長い時間であった。相模大野に到着したのは、18時頃であった。私は焦っていたのであろう。車が止まると健一にお礼を言い、自宅へと駆け込んだ。自宅には近所にいる親戚の叔母が一人でおり、父は私が帰宅する前に救急車で病院へ運ばれたらしく、母、弟が病院へと向かった事を聞いた。私は健一に状況を知ってほしく、電話をかけずにいられなかった。
私はこれから病院へ向かうことを健一に伝えた。健一から、色々言われたけど、心配かけたくないから私は大丈夫。と気持ちとは逆のことを健一に伝えた。病院へ叔母と向かうため、タクシーに飛び乗った。病院に着くと母と弟が処置室の前で座っていた。とても長い一日であった。
父の具合が少し安定した二日後の夕方、健一に連絡をいれた。心配してくれている健一に父の病名を伝えた。ステージ4、余名半年、現代の医学では完治できない状況と医者より説明を受けたこと。病名は膵臓癌であった。一週間が経ち、父も落ち着き、私も会社へ出社するようになった。
昼休みに電話で健一に久しぶりに会う約束が出来た。二人の中間点にあたる経堂駅の改札で待ち合わせた。健一は車で来ているらしく、経堂駅の商店街に健一の青い車が止まっているのが分かり、走って健一の車に乗り込んだ。
車が動き出し、健一に父の状況を話し出した。「お父さんは少し安定した状態であり、自宅での治療に切り替わる」と健一に伝えた。自宅での治療ではなく、お父さんからの希望であったことは、健一にはばれていた。健一も私に何か話したい様な気がした。何かあったの、と私が訪ねると健一が、この間の栃木旅行から帰り、鞄から洗濯物を取り出したとき、明らかに女性の下着が入っていることを嫁に言われたことを私に話し出した。私は何も言えなくなってしまった。小さな声で、ごめんなさい。とただ謝るしか出来なかった。
当然、健一に怒られると思ったが、健一は怒ることはなかった。健一の家族は4人家族であった。ご両親と健一夫婦で今回の下着のことで家族会議が行われたことを聞かされ、健一から初めて離婚すると聞かされた。私は嬉しかったが、二人の子供たちを思うと離婚を強く反対した。
私がおこなった悪戯が、大きな事件になってしまったことに私は心から謝罪した。健一は離婚の話以降、奥さんと、しばらく別居することになった。そしてこの別居は1年以上続くことになった。
【謎の旅行】
9月、お父さんの体調も落ち着き、夜、家族で食事をとっていた時、お母さんから、突然、お父さんの勤務されている会社の男性と伊豆へ旅行に行く話があった。お父さんの思い出と思っての旅行と理解はしたが、なぜ、お父さんの会社の人も行くのか理解できず、弟と私はあまり乗り気ではなく、母親に愚痴をこぼしてしまった。私一人の意見など通るはずはなく、しばらくして、乗り気でない旅行が決行されることになった。行先は伊豆高原のペンション、車での旅行であった。当日、待ち合わせは相模大野駅のロータリー。10時の約束時間に男性が待っている姿があった。男性が車に乗り、車内で私は特に会話もなく、この旅行で初めて会ったお父さんの部下は、つまらないだろうと私は思いながら弟の運転する車に揺られていた。熱海を過ぎ、135号線を南下、夕方前に目的地の伊豆高原に着いた。伊豆高原はチャペルなどもあり、若いカップルが多く訪れる場所。なぜ、こんな場所に来たのかとても不思議な気持ちになった。予約していたペンションに到着後は、夕食まで時間もあり、お母さんと辺りを散策。散策と言っても木ばかりで面白くも無く、ペンションに戻ることにした。食事の時間になったけど、残念ながらあまり楽しい食事ではなかった。健一との旅行と比べると楽しいはずはない。私は早々に就寝についた。朝、目が覚めると隣には母がまだ寝ていた。健一のことを思いながらベットの上で一点を見ている私。健一に逢いたい。帰りの車の中は、私の隣にお父さんの会社の部下の人が座り、色々と話しかけられたけど、男性には興味がなかった。特に話すこともなく途中で私は寝てしまい、気がつくと見覚えのある街並み。相模大野に帰ってきていた。
家族旅行から帰ってしばらくして、私から健一に会って話を聞いてほしいと連絡をした。19時に東横線多摩川駅で待ち合わせ。私が到着した時には、青い車がいつもの待ち合わせ場所で停車していた。私は助手席に乗り、健一にいま、海が見えるところに行きたいとお願いをした。健一は困った顔をしながら、夜で海は見えないけど、遠くに横浜の海が見える場所がある。そこで良いかな。一時間ぐらいで、海が見える公園に到着。車を駐車場へ止め、歩きはじめ、健一に「旅行から帰ってきたら、お父さんから花嫁姿が見たい」と言われ、先日の家族旅行に同行された、お父さんの会社の部下の白石という35歳の男性と結婚を考える様、両親から勧められたことを健一に伝えた。健一は驚いた顔をした。
私は、ショックで何日も眠れず、泣いてしまったことを伝えた。わたしは今にも泣きそうな顔をして、健一をみつめた。わたしの気持ちは、好きでもない人と結婚はしたくない。しかし、余命宣告されたお父さんには、花嫁姿を見せてあげたい。健一、私悩んでいるのどうしたらいい。
健一は、「好きでもない人と結婚はするべきではない。直ぐに結論を出さないといけないのかな」。と健一は私に尋ねた。私は健一に、「お父さんには、あまり時間がないみたい」。と私は健一に答えた。健一は明らかにショックの顔が見えた。私が悪戯をしたために健一の家族は壊れ、私は両親から、好きでもない人と結婚をせがまれ、私はそのことで健一を苦しめている自分が許せなかった。私はその日、健一に甘え、強く抱きしめてもらった。
【妊娠そして流産】
10月下旬のある日、健一に大事な話があるから、待ち合わせをお願いした。いつもの東横線多摩川駅に19時30分に待ち合わせ、健一は時間通りにいつもの場所に来てくれた。健一から、「大事な話ってなに」。食事もせず、いつもの相模大野に向かう二人だけの車の中の空間で、私は少しためらいながら、実はね、生理が来ないの。健一の子が出来たかもしれない。どうしよう。健一は動揺することもなく運転をしている。そんな健一から、予定日はいつなのかな。と尋ねられ、来年の5月末。そう健一に伝えると、優しく、分かった。身体大事にするんだよ。と言われ、私は少し安心して涙がこぼれるほど嬉しくなった。
数日後、病院で検査を行い懐妊したことが分かった。両親には隠すことはせず、私から話すことにした。両親は大変喜び、早々に健一に会う機会を私に相談した。当然、健一が既婚者であることは両親には言えなかった。しばらくして、11月のある晩、私は健一に電話をかけた。電話には、子供の声が聞こえた。しばらくすると子供の声が消え、健一が場所を変えたのが分かった。
子供の声が消え沈黙の中、私は健一に残念な報告をする事になった。あなたが喜んでくれたお腹の子供、順調に育っていると思っていたのですが、残念ながら流産してしまった事を報告した。私は、自らを責め健一にひたすらあやまり続けた。両親も落ち込んでいる私を慰めてくれているが、本心はどうなのか少し不安になった。両親はお腹の子の父親のことをあまり私に聞いてくれない。もしかしたら健一の事を知っているのかと疑うようになった。私はそれから3週間ほど会社を休み、11月下旬に復帰することになった。会社に行けるようになったので、体調は回復したと思っていたが、ある日、母親と病院に行き、その日から薬を飲むことになった。以前にも飲んでいた薬であったので、その時は気にもしなかった。健一が心配するから、薬のことは黙っておこう。それより早く、健一に会いたい。
【伊豆へ旅行】
12月に入り、私は、健一とまた、会社をさぼり、伊豆半島に旅行に行くことにした。当日、朝8時に待ち合わせ場所の相模大野駅前ロータリーに着くと、健一が既に待っていてくれた。私は黒い着物姿で今回の旅行に行こうと思い、健一の車に近づいた。健一は、はじめ私には気づいてはくれなかったので、わざと電話をしてみた。健一は大変驚き、日帰りではないよ。夜、着物脱いだら着る時、どうするの。と私に尋ねてきた。私は、少し笑い、自分で着れるから大丈夫。と伝えると健一はまた驚いていた。
健一に今回の旅行は母親には、美紀の家に泊まると伝えたが、母親が相模大野駅の改札まで見送りに来た。健一、私は信頼されていないみたい。健一から、当たり前だよ。前回も美紀さんと旅行に行くといったのに、旅行から帰ってきたら懐妊していただろ。私は、まだ母親があたりに居るかもしれないと辺りを見回してしまった。
着物だと荷物も和風の袋に入れて少しお洒落をして家を出てきた。健一から、青い車の中に黒い着物を着た素敵な女性を見た周りの人はどう映っているだろうね。きっと銀座のママに誘われた青年って感じに見えるだろうと、健一は笑いながらハンドルを握り目的地を目指し、車が動き出した。
健一から、東名高速横浜町田インターに乗り、厚木インターで降り、小田原厚木道路で熱海を目指し、以降下田まで135号線を南下するルートと説明があった。道路は思ったほど混んでなく、予定の時間より早く最初の目的地、伊豆ぐらんぱる公園に着いた。公園と言ってもかなり大きい公園。公園には、小動物もいて、家族連れが多く、楽しい笑い声が聞こえてきた。家族連れは、集合写真を撮っている。私たちも携帯で写真を撮ったが、健一は明らかに寝不足な顔。顔色は悪く、すこし痩せたよう見える。お互いの携帯電話の待受画面に撮った写真を貼り付けた。
しばらくして、ぐらんぱる公園をあとに、下田を目指す事になった。135号線は海岸に沿っているため、車から見える海は、だんだん青くなって、海外の海の様な景色に変わっていった。しばらくすると伊豆急下田駅に到着。ここで少し遅い昼食を済ませ、目的地の西伊豆の恋人岬を目指して健一がアクセルを踏み込んだ。車の中ではあまり話さず、だけど手だけはしっかり握ってくれていた。幸せ。
恋人岬に到着。駐車場には思った以上の車が駐車されていた。歩いていると建物があり中にプリクラ写真がとれる写真機をみつけた。二人でプリクラ写真を撮り、その場所に備え付けられていたアルバムに1枚を貼った。将来、健一とこの場所に来た証しを残したかった。夕方、今晩の宿に着いた。
宿泊は恋人岬近くの可愛いペンション。部屋は少し狭いけど二人には充分であった。食事は洋食。お風呂はうち風呂、露天風呂があり時間制であった。お互いに確認することなく、二人で露天風呂に入浴、もう恥ずかしくはない。寝る時は健一に抱かれ、健一の胸の中で就寝でき幸せでした。
翌日、少し早起きをして、健一と恋人岬まで30分のお散歩。散歩中、携帯電話で写真を撮っているときに気づいたけど、この場所は、携帯の電波が弱く、電話が出来ない場所のようであった。散歩の途中に小屋らしき建物があった。よくよく見ると、バスの停留所の様であった。都会には絶対ないバス停。この停留所、野宿する人にはいい場所かもね。そんな事を二人で話しながら通り過ぎた。後々、この停留所が思い出になるとは。散歩の後、ペンションに戻ると朝食の用意がされていた。健一に今日のスケジュールを聞きながらパンをほおばる私。幸せ。
出発の時間になり、さあ、今日は、西伊豆の土肥金山で洞窟探検と船に乗り神秘なパワースポットへ行く予定を健一から聞いた。健一から、可愛いペンションから真っ黒の着物を着た女性が出てくることが不思議といわれた。きっとペンションの人たちは、銀座のお姉さんが、若い男子と旅行。と思っているでしょうね。健一から、着物を着ると背筋も伸び、しぐさも普段とは別人に見えると褒められ、嬉しかった。
土肥金山はペンションからは、それほど遠くなく、車を走らせ30分くらいで、土肥金山に到着。さっそく洞窟探検をすることにした。洞窟は当然暗いところを歩くので草履でいくものではなかった。洞窟の中で、私はなぜだか健一に何度もキスのおねだりをした。結局、三回しかしてもらえなかった。洞窟探検が終わり、神秘なパワースポットに行くために、道路の向かいの船に乗ることになった。船に乗るとき、船頭さんが私をエスコートしてくれ、健一も少し冷やかされている。周りから見ると、やっぱりつり合わない二人に見えるのだろう。船は岩場ギリギリを進み、天井がポッカリ空いた中に入り、その形がハート型に見えた。幸い、雨もやみ思い出に残る場所となった。
二日目の宿は、西伊豆の土肥の民宿。宿の入り口には、大きな柱時計がぶら下っていた。建物は少し古く、部屋も狭い。もしかすると隣の声が聞こえるかも知れない、静かでタイムスリップした様な不思議な宿。宿泊名簿に健一が夫婦と記載し、夕食には少し時間があったので土肥温泉を散策に出かけた。今回の旅行のことを健一と話しながら温泉街を歩いたこともいい思い出。不思議な宿の夜も私は健一と一緒に眠ることができて幸せ。
翌日、目が覚め、隣でまだ寝ている健一の唇に人差し指をあて、健一を起こすことにした。朝食の時間になり食堂らしき場所で和食をいただいた。朝食後、帰り支度を始めたが、何故か寂しい気持ちになってしまった私。青い車のエンジンが動き、私たちの車が動き出し、健一との楽しい伊豆旅行から帰宅のため東名高速沼津インターを目指した。
もう少しで沼津インターにはいる時、私は健一に、まだ帰りたくないと我儘を言ってしまった。別に行きたいところなどなく、少しでも健一と一緒に居たかった事を健一に伝えた。東名沼津インターに乗り、一路横浜を目指しアクセルを踏む健一、休憩をとりながらもう直ぐ横浜町田インター。相模大野には帰りたくない。そんなこと思っていたら、相模大野に向かわず、綺麗なネオンがついているラブホテルに向かってくれた。結局帰宅したのは、23時頃になっていた。
帰宅後、母親はかなり怒っていて、私は母親より、しばらくの間、外出禁止、携帯電話没収となった。この旅行で訪れた恋人岬が、のちの私の家出の隠れ場所になるとは、この時は思いもしなかった。
母親は私と健一との連絡を完全に絶ち、諦めさせる手段をとったのであろう。しかし、数日後、私は今まで以上に健一を愛するようになっていた。逢いたい。貴方の声が聞きたい。母に私の携帯電話を没収されたが、私は健一の携帯番号を記憶している。健一に連絡した際、非通知、未登録者からの電話に健一が出てくれれば問題はなく、私は健一に電話をすることにした。
電話のベルが何度か鳴り、電話がつながった。警戒していたみたいで健一の声がいつもとは違って聞こえた。私は健一に連絡が出来たことが嬉しく、携帯からではない理由を話し、健一にデートの約束をお願いした。二日後の12月10日18時に待ち合わせの約束をした。
当日、健一が私の勤務している赤坂に来てくれることになった。待ち合わせ場所は、いつもの本屋さんの入り口で待ち合わることにした。18時に待ち合わせ場所で待っていると、健一が右手に赤い携帯電話メーカーの袋を待って、こちらに歩いてくるのが見えた。私に近づいてくる健一。すると健一から「携帯没収されて困っていると思い、新規で携帯電話を購入してきたよ」。「俺たちだけのホットラインだよ」。私は、驚きと健一の言葉がとてもうれしかった。それからの健一との連絡は、このピンクの携帯電話に変わった。会うことは我慢し、毎日、健一の声を聴きときめいている私、幸せ。
【逃避行】
年が明け、母親の言うことを守っていたところ、母から没収されていた携帯電話を手渡された。体調も、ここのところ安定していて、メールや電話だけであった健一にとても会いたい気持ちになった。そんなことを毎日考えていた時、健一から、連絡があり1月の下旬に北海道に3泊4日の旅行に出かけようと誘われた。健一は仕事で何度も北海道にはいかれている様であった。私は初めての北海道。お互い現実の生活から逃げ出したく、遠い北海道であれば知り合いにも会うこともなく、周りを気にすることは不要と思った。しかし、当日の飛行機のフライト時間が早く、健一に始発でも空港に間に合わないから無理かもしれないと連絡をした。すると健一から、なら前日、奈菜を迎えに行く、前泊しよう。私は断る理由もなく、旅行は4泊5日となった。前日、21時に相模大野駅で待ち合わせ。私は、スキー道具は事前に北海道の宿泊先へ配送したので、スーツケース一つだけであった。健一もスキー道具は宅配便で宿泊先に配送しボストンバック一つだけ。健一の車があれば、明日朝の集合時間に間に合う。その日は横浜のホテルに泊まることができた。
翌朝、まだ暗い4時前に起床し空港の駐車場に向かい車が動き出した。
1時間くらいで東京国際空港の駐車場に着き、車を止め、健一と出発ロビーに向かった。早朝なのに、出発ロビーには、何組かの団体が目に入った。一つの団体の中から、健一の名前を呼ぶ男の人が近づいてきた。どうやら、この人たちと一緒に北海道に行くようである。健一はその中でも、かなり身分が高い人のようで、周りの人たちから慕われている。健一は、私を数人の人たちに紹介してくれた。とても偉そうな方々であったけど、気さくな方たちで、私の不安はなくなった。
この時、健一が何の仕事をして、どの様な立場の人なのか、知りたくなったが、この時、健一には聞くことはしなかった。私は、健一の横顔をみながら、自然に笑顔になったのがわかった。私は、北海道で健一に沢山甘えよう。そんな事を考えながら健一をただ見つめた。搭乗手続きを済ませ、新千歳空港行きの搭乗口近くで待った。少しするとアナウンスがあり、この場から逃げる様に機内に向かった。勿論、隣の席は健一。座るなり健一の腕にしがみついた私。暫くすると、飛行機が動き出し滑走路に向かい、気がつくとすでに離陸の準備であった。轟音と共に加速し離陸。
フライトは1時間半。1時間ばかりすると青森県津軽半島を過ぎたあたりから、飛行機は降下しはじめ、もうすぐ北海道。健一と一緒にいられ不安などなく、とても幸せ。
北海道という事で、当然積雪もあり滑走路は凍っていると思ったけど、飛行機は無事に北海道の新千歳空港に到着。私は、何故か健一の顔を見ながらにやけてしまった。到着後、預けていた荷物を受け取り、出口に向かい待機していたマイクロバスに乗り込み、札幌市内のホテルに向けて、バスが動き始めた。勿論、隣には健一が座っている。バスが動き出ししばらくすると、この北海道ツアーの事務局である山田さんという方の挨拶があり、スケジュールの説明があった。山田さんからの提案でツアーに参加の方々の自己紹介をすることになった。参加している人は、夫婦、友達みたいであることが紹介で分かった。私たちの番になり、事務局の山田さんから健一の紹介がまず行われた。
健一は大手電機会社の幹部で、今回の北海道スキー・観光旅行の立案者であった。山田さんの話では、同業企業数社で今回の北海道ツアーを企画し、健一は、その組織の副代表と紹介された。健一が、立ち上がり、マイクロバスの一番前に移動して、マイクを持ちツアーに参加された人を前に挨拶をしだした。健一の素敵な挨拶にただただ聞き入ってしまった。挨拶が終わると健一から、「本日は妻との参加であり、数年ぶりのスキーを夫婦で楽しみたいと思います。」と挨拶しているではないか。健一に紹介された私は立ち上がりただ頭を下げるだけしかできなかった。でも、ツアーに参加されている人は、私たちが夫婦であると見てくれていることが、嬉しい。参加者の自己紹介が終わる頃、バスは札幌市内に入り宿泊先のホテル前に到着。一番後ろに座っていたので最後に下車、荷物を受け取ろうとしたら、空港であいさつをされた少し強面の人が私の荷物を運んでくれているではないか。その方も女性と参加されている様であるが明らかに奥さんではないと思えた。荷物を運んでくれたお礼を言い、私達はホテルに入っていった。フロントの横に私たち団体のフロントでチェックイン。
チェックイン後に夜、数人で食事に行く約束を健一がしていた。部屋に入り、荷物を置き待ち合わせの時間まで時間があるので、ホテルの周りを散策することになった。大通公園に行くと、雪まつりの雪像を作っているグループがいた。ホテルからずっと健一と手をつなぎ、雪の降る街を傘もささずに私たちは並んで歩いた。すれ違う誰にも気にせず、幸せ。少しだけ散策し、ご飯に行く待ち合わせの時間に遅れない様にホテルに戻った。雪が降る中、ホテルに着いたけど部屋には戻らずフロントで、皆さんを待つことにした。
しばらくして、エレベーターから健一の知り合いが降りてきて、フロントに集まりジンギスカンを食べにいくことになった。事前に予約を入れていてくれたようで、タクシー4台に乗り込み、店へ向かった。店に着くと待たずに店の奥に案内された。私が座った席の周りの人たちは、健一と同世代か少し上の年齢の方々であった。12名での食事は賑やかで、ビールで乾杯をし、ジンギスカンを食べながら、お酒も沢山入り、会話も弾み楽しい宴となっていった。強面の方から、大沢と申します。いつも鈴木さんにお世話になっていますと丁寧な挨拶をしてくれた。知らない人なら、話しかけられたくない感じの人。それにしても健一は凄い。次々と私に挨拶をしに来るので少し驚いたが、私は健一の立場に興味を持つようになった。参加されている人たちは自分の紹介は名字ぐらいで、あとは健一には、お世話になっているとの話であり、周りからは不思議な団体に見えたと思う。しばらくして、盛り上がった宴も2時間ぐらいたった頃、お開きとなった。私たち以外の人たちは、翌日は自由観光なので、翌朝の事は気にせず、二次会に行くようであった。私達は、明日、スキー場へ向かうので朝が早いため、健一と私はタクシーに乗り込みホテルへ戻ることにした。
部屋に戻ると、私は健一に抱きつき唇を合わせた。我慢していたので、離れたくなかった。健一のお酒の匂いがする舌が私の舌に絡みついてきた。私は健一にすべてを捧げた。あなたが大好き。いいよね。私が甘えていた時、突然、健一のP社の折り畳み携帯電話のベルがなった。携帯をのぞき込むと、発信先は自宅からであった。自宅には北海道には仕事行くことを伝えて家を出て来たと聞いている。結局、健一は電話にはでることはしなかった。電話しないの。と健一に尋ねると明日、昼間に電話するよ。と一言いい、私たちはベットにもぐりこみ、私はそのまま健一の腕の中でおやすみ。
翌日、健一の声で目が覚めた。昨晩、遅くまで遊んでしまい、健一は眼がはれ、殆ど寝ていない感じであった。ホテル前にバスが止まっていて集合時間の朝6時にスキー場のある手稲山へ向かうバスに乗り込んだ。スキー場までの2時間、私たちは眠いはずなのに今日の予定などで盛り上がり、気がつくと目の前に真っ白な手稲山が見え、本日の目的地に到着。ホテルからすでにスキーの服を着てきたので、私たちは、スキー板を担ぎリフト券を購入しゲレンデに向かった。私は毎年シーズンになると頻繁にスキーを行っていたけど、健一は久しぶりのスキーと聞いていた。初めは、健一が慣らす目的で山岳コースで滑り、次第に山頂を目指していった。久しぶりと聞いていたけど、健一は山頂から降りてくるとき、私と並んで滑ってくる程の腕前であった。昼食をはさみ色々なコースを何度も滑り、気がつけば太陽も傾き、帰りのバスの出発時間が迫っていた。
健一は、昼間スキー場から自宅に電話をするといっていたが、電話の事は完全に忘れてしまっていたようだ。バスに乗り込むと、直ぐにバスは動き出した。スキー場を後にして、滞在先のホテルへ帰るけど、参加されていた人の中には、早くスキー場―を後にしたのか、帰りのバスの乗客は少なく、私たちが座った一番後ろの席の周りには、誰も座ってはいなかった。そんなバスの中で、私が健一に甘えても、健一は拒むことはせず、健一の腕は、優しく私を抱き寄せてくれた。私は嬉しくて、東京には帰りたくない。このまま北海道で健一と暮らしたいと、その時思った。私たちは、昼間のスキーで疲れたのか、揺れるバスで寝てしまった。しばらくして、私は目が覚め、隣で寝ている健一の寝顔をただ見ていた。健一が目を覚ましたので私は健一の頬にキスをした。窓の外は雪がまっている。やがて、札幌の市街地にバスは入っていた。市街地に入って間もなく、宿泊ホテルに到着。到着するとスキーの板とストックをホテルの地下ロッカーに預け、フロントで鍵をもらい、エレベーターを待っている間も私は、健一から離れることはなかった。部屋に入るとスキーウエアーを脱ぐ前に、健一はお風呂にお湯を入れに向かった。健一は、湯船にお湯を溜め始めた。しばらくして、お湯が溜まり筋肉痛の身体には最高。当然、お風呂は健一と一緒。もう、恥ずかしくはない。私が湯船で、少し筋肉痛の身体をお風呂でマッサージしていると、健一が入ってきた。
スキー場は、一日中天気は良く、二人は少し日焼けをしたのか、顔を洗うとヒリヒリしている。健一も疲れたようで、頭からシャワーを浴び、一気に身体、頭を洗っている。私がお風呂から出ると健一は、美味しそうにビールを飲んでいた。私が髪の毛を乾かす間、健一はベットに横になり寝息をしていた。私が髪の毛を乾かし終わると健一は起き上がり、ご飯食べに外に行こうと私を誘った。ホテルがある場所は、比較的開けているところなので、ご飯を食べるには心配はいらない。私たちは、ラーメン屋に入ることにした。私と健一は本場の札幌味噌ラーメンを頼むことにした。食事が終わってから私たちは夜の札幌の街を少し散歩をすることにした。散歩と言っても気温は氷点下7℃、関東では体験したことが無い。雪国の夜はとにかく寒った。街を散歩などしている人とすれ違う事がなかった。健一と寒いので手を繋いでいても手袋をしたままなので効果はなく、歩いていても少しも汗をかかない。私達はあまりにも寒さに耐えられず、ホテルに戻ることにした。
ホテルに戻り、エレベーターに乗り7階のボタンを押した。7階の廊下から見る夜景は綺麗で、私は、ずっとこのまま北海道にいたい気持ちになってしまった。部屋の鍵を開け、部屋に入るなり健一が抱きついてきた。私はベットまでお姫様抱っこで運ばれ、健一は静かに私を降ろした。私は健一を困らせようと考え、健一に、あなたの子供が欲しいとお願いした。健一は何も言わず、私を強く抱きしめ、私も健一にしがみつき、愛し合った。私は興奮のあまり、気がつくと健一の背中に少し血がにじんでいた。こんなに興奮した私を健一はどう思っているのだろう。私は健一が初めての男性でこんなに興奮してしまった自分が少し恥ずかしかった。
翌日も早起きして6時にバスに乗り込みスキー場へ向かった。バスの中では、昨晩の事が未だ頭に残っている。思い出すとなんだか、少し興奮してしまいそう。そんなこととは知らず、隣でコーヒーを飲んでいる健一が可愛い。二日目となると行きのバスの中から、私達は手を繋ぎながら仮眠をとっていた。昨晩はあまり寝ていないためか、仲良く爆睡。バスがスキー場に到着すると3時間も寝ていたようである。平日の9時と早いこともあり、ゲレンデには、人が少ない。さぁ、滑るぞ。今日もまず、一日リフト券を購入し山頂を目指しゴンドラに乗車。しばらくすると、見たことがない別世界。真っ白なパウダースノー。中腹まで滑り、山頂に戻るを繰り返した。
そろそろお昼。山頂から昼食のため滑ってくる私たちを監視している者がいるなどとは疑うこともせず滑っていた。お昼を済ませ、楽しくスキーを満喫している私たちを邪魔する人などいない、そんなことを考えながら頂上から降りてくる時、健一の携帯電話が鳴ったのが聞こえた。
健一の傍に行き、かすかに声が聞こえた。話し方から奥さんからであった。
「北海道に女性と言っているのは知っています。ある方から連絡がありました。滞在している宿も聞いています。いつ帰宅されますか。」奥さんからの電話に少し動揺している健一。なぜ、私と一緒にいる事を知っているのか。滞在している宿の事も知っている。今ここでスキーしていることも知っているみたい。私たちを今、誰かが監視している。そう疑い始めた。
健一は電話の相手である奥さんに、明日の夜に帰ることを伝え、帰ったら話をしたい事を伝え電話を切った。健一は何も無かったそぶりだが、明らかに何かあった感じであった。私は、素敵な女性からの電話かしら。なんて言ったが、健一は、何も言わず、ただ笑ってごまかしていた。私は罪悪感と目の前にいる健一を愛する気持ちが頭の中で交差して帰りのバスでは、一点をみつめ放心状態の私が硝子に映っていた。ホテルにつき、私達は早々に着替え、北海道最後の夜の街へ出かけた。お腹もすいていたのでジンギスカンを食べることにした。今晩、健一にスキー場での電話の件を聞こう思ったが、なかなか切り出せなかった。時間だけが過ぎていたが、私は健一と今一緒にいる事が幸せ。今日は二人とも少し酔っぱらってしまっている。楽しく、幸せな時間であった。
突然、私の二つある携帯の一つの携帯にメール着信が鳴った。メールの相手は、お母さんからであった。「奈菜、鈴木さんと北海道に行っているのね。鈴木さんは、奥さんに内緒で北海道に行っている様ね。貴女は鈴木さんに奥さんがいることを知っていたの?いつ帰ってくるの。家で待っているあなたの彼氏はどうするの。」私は、健一にこんなメールがあったと報告をした。健一からは、「実は、昨日、スキー場にいた時、妻から電話があった。自宅に我々が北海道にいることを知らせる電話があったみたいだ。女性からみたいだから奈菜のお母さんが連絡したのかな。」私は健一に「奥さんは、なんて言っていたの。」と尋ねると「我々が北海道に行っていることや滞在している宿、スキー場に行っていることも知っているようだ。」と健一が答えた。
健一から、俺は奈菜が好きだ。一緒にいる時が嬉しい。妻には愛情もないし。妻とは離婚したい。私も健一と一緒にいたい。奥さんには、申し訳ないことをしたと思う。でも、あなたが好き。お互いの気持ちを確認し、その夜は、背中の傷からまた血がにじんでしまうほど抱き合い、その後は朝まで爆睡してしまった。目が覚めると今日は東京に帰る日。スキーには行かないので、集合時間まで健一と市内を散策。まだ始まっていない雪まつり会場の雪像を見たり、ビール園に行くことができた。ここにいつかまた、二人で来たい。私はそう思った。お昼過ぎに、新千歳空港に向かうため、バスに乗り込んだ。当然、健一の手をしっかり握りしめた。2時間程で、新千歳空港に到着。バスを降り、出発ロビーで、今回の旅行に参加された方に挨拶を済ませ、参加者が散らばっていった。お土産を買い、搭乗手続きを済ませ、飛行機は15時過ぎに新千歳空港を飛び立ち、夕方、東京国際空港に着陸。空港の駐車場に止めてあった車に荷物を積み込み、私の住んでいる相模原に向け、健一はアクセルを踏んだ。そして、これから始まることを予想できただろうか。
【初対面】
健一は、北海道から帰った翌日、両親を交え家族と離婚の話を切り出した。養育費、財産をすべて奥さんに渡す条件を申し出たそうだ。私は直ぐに離婚になると思っていたが、奥さんから、承諾はしてもらえなかった。
健一から聞いた話だと、そもそも離婚の原因は、過去から夫婦の価値観、経済力、消費問題からであった。貯金や健一が自由になるお金などあるはずがなく、健一はストレスで円形脱毛になったと言っていた。また、お金以外では、家庭は子供たち中心となり健一の存在すら薄く、夫婦の会話も少なくなり、寝室も別々と一緒に生活する意味がなくなっていた時期に私と出会ったようであった。その様な環境と私といるときの楽しさは比較にはならなかった。と健一は奥さんや両親に話したみたい。
両親から、健一が実家の1階に住みしばらくの間、別居し復縁を望んだようだが、うまくはいかなかった。食事、洗濯は健一の母親が行ってくれることになり、洋服も全て実家1階に用意し、お互いのことは干渉しないそれが条件となった。健一は、その様な生活が続いている中、離婚後のマンションを探す決心をし、私に連絡してくれた。しかし、私は喜べず、逆にマンションの購入を反対した。その様なことになっても私たちは、連絡は取り合い会っていた。
明らかに疲れている健一、ある日、健一に奥さんに逢わせて欲しいとお願いした。
健一は反対していたが数日後に奥さんと会うことになった。昼間は仕事や子供のこともあり、夜、健一の家から少し離れた場所で奥さんと会うことになった。待ち合わせの場所は、世間一般に知られているレストラン。レストランの入り口で約束の時間に待っていると健一が奥さんを連れてきた。私は奥さんと目が合った気がした。
奥さんの印象は、スタイルが良く、賢そうで綺麗な奥さん。不思議なことになぜか、私は冷静で、健一の紹介もただうなづくだけであった。紹介が済み、私と奥さんの二人だけでレストランに入って行った。店員さんと奧さんが何か話している。どうやら、あまり人がいない席をお願いしている。しばらくすると一番奥に案内された。
奥さんから、「初めまして。鈴木健一の妻です。」奥さんは、やはり賢そうな方でした。奥さんから、「貴女は、まだ若いから、40歳を過ぎた男より、もっと若い男性を探してみては如何。」といきなり言われ、私は、何も言えなかった。言われている事は正しく、健一から離れなければいけない。家庭を壊してはいけない。私は、深く反省した。強く叱責されるかと思っていたが、奥さんは優しく、奥さんと2時間、色々な話ができ、私の気持ちが少し健一から離れていく気がした。別れる際、奥さんから、「奈菜さん。主人に自宅まで送らせますね。」帰りの車の中で健一から、話しかけられたが、一言も話すことが出来なかった。それから、健一とは、当然、遭うことはなかった。出来なかった。でも、私の気持ちは変わらず、健一が大好き。
一方、私の周りでは私が知らないだけで、あるイベントの準備を進めていた。
【結婚】
3月3日の午前に健一の携帯電話に美紀から電話がかかってきた。美紀は健一に「今日、奈菜結婚式を挙げています。残念ですけど、もう奈菜のことは忘れてください。全てはあなたがいけない。」美紀の一方的な、会話が済むと電話は切れてしまった。健一は、きっと、嘘だろうと気にもせず、普段の生活を過ごしていた。数日後、私から健一に電話をかけた。健一、ごめんね。ごめんね。私が悪いの。健一から、結婚したのは本当なのかと聞かれ、私はうなずきながら、はい。でも、その男の人には、抱かれない。一緒に暮らさない。私の身体は健一だけのもの。この事は信じて欲しいと伝えた。
健一から、なぜ、奈菜は結婚したのかと聞かれたが私はただ謝り、ごめんね。「お父さんに、花嫁姿が見たいと言われたの」。お父さん、もう長く生きていられないみたいなの。だから、お父さんの気に入った、会社の人と、好きでもない人と、お父さんが花嫁姿見せて欲しいと言われ。仕方なく。
健一から、それはおかしいよ。奈菜の意思は、それでいいの、ふざけるなよ奈菜。健一から、今まで聞いたことのない強い口調で私は叱られた。私はただ、健一の話を聞くだけしかできなかった。私だって、こんな結婚おかしいと思っている。絶対、体には触れさせない。と心に誓った。電話が切れ、健一からは、もう連絡は来ないと私は覚悟した。私は悲しく泣き続けた。自分でも何故断る勇気がなかったのか、好きでもない人なのに。
【父の死】
あの結婚式以降お父さんは、病状が安定していたため、お父さんの希望で九州長崎でお母さんと余生を過ごすため引っ越した。私は、お父さんの勤務していた会社の人と結婚はしたが、その男性とは、一緒には暮らさず、母方の親戚の家でお世話になっていた。
九州で桜の開花が始まったある日、仕事をしていた健一の携帯が鳴った。電話の相手は、私の母親。母はお父さんが亡くなった連絡を健一にいれた。母は、「連絡をするべきか戸惑いましたが、娘がショックで身体が心配です。」母は、健一に娘を助けてあげてくれませんかと。と言う連絡でした。健一は助けを求める言葉に違和感を抱いた。数日後、葬儀の日程が決まり、葬儀の前日、母から健一の携帯に連絡があり、「亡くなった父親をみて、娘がショックを受けて心配です。長崎に来て、娘の傍にいてもらえませんか」。と弱弱しい母からの電話であった。健一は、「翌日の早い飛行機で行くことを母に伝えてくれた。」
健一は、二、三日休むことを上司に伝え、仕事に支障が出ない様、引き継ぎを行いある程度仕事の目処がついた頃、健一の携帯電話が再び鳴った。電話では無く、メールであり相手は母からであった、母は「やっぱり長崎に来なくていいです」。と断りのメールが届いた。
健一は、すぐに母に電話をしたが、電話に出てもらえず、健一は私に電話をかけてきた。私は「健一、心配かけさせてごめんね。健一は、子供たちの傍にいてあげて。私は大丈夫。葬儀が済んだら東京に戻り、あなたに会いたい。」健一から、「待っているよ」と答えて結局、健一は葬儀に参列せず、普段の別居生活をすることとなった。
【家出】
5月、お父さんの葬儀も片付き、お母さんと葬儀のお礼などを含め、親戚がいる神奈川県に行くことになった。二週間後にわたしと母が相模原の親せきの家に帰省し、しばらく親せきの家でお世話になることを健一に連絡をした。この帰省は、私が結婚した男性と離婚をするために帰省を母親に申し出た。そもそも、父親の病気が理由で花嫁姿を見せたわけで、私は母に、父親の夢をかなえたから、私を自由にさせて欲しい。そのために離婚させて欲しい。私はもう子供ではない、大人。自分の意思で生きていく。だから、偽装の結婚を終わらせる。
私はそう決意し、男性と待ち合わせ母と男性に私の思いを伝えた。当然、母や男性に反対された。
私は、夜、衝動的に家を飛び出し、誰にもみつからない場所へ向かうことを決心し行動した。
いなくなった私を母は、親友の美紀に連絡をした。美紀も心当たりを探してくれたが見つからず、母は、私がいなくなったことを他の知人にも連絡をし、なんと健一にも連絡をおこなった。健一への連絡は丁度、健一が食事をしているときであった。母から「娘がいなくなった。探してもらえないかと」。母は、今にも泣きそうな声で健一に頼んだ。健一は、直ぐに私の行きそうな場所がひらめいたが、探すそぶりなどみせなかった。今更、探しに行く義理もない。
しかし、健一は母からの電話が切れると、車で私を探しに出かけてくれた。行先は、私との思い出の場所、あの場所は二人にとって、忘れる事の出来ない場所。健一の自宅から車で3時間半。今から向かっても夜中になる。そんなことを思いながら、健一は、私達の思い出の場所、伊豆の恋人岬へ私を探しに向かってくれた。
健一が思い出の場所についた時は、あたりは街灯もなく、やはり携帯電話の電波は弱く、恋人岬周辺は殆ど通話が出来ない場所であった。恋人岬と言っても、すぐ下に海があるわけではなく、下っていくと林があり、暗くてとても寂しい場所。健一は、ハンドルを握りながら「奈菜、変な事を考えないでくれ。今迎えに行くから。」健一は恋人岬に向かう最中、つながらない携帯電話を何度も発信ボタンを押した。東名高速道路の沼津インターを降り、国道をはしり、伊豆恋人岬に着いたのは23時を少し回っていた。辺りは、真っ暗。月明りだけしかなく、人を探すには少し無理があった。健一は以前、私とここに来た時を思い出しながら、辺りを見回し私を探していた。
その時、うっすらと形がわかる、見覚えのあるバス停が健一の目に入った。都会では見かけることがない、小さく、真っ暗な箱であった。当然、ここには居ないだろうと健一が覗いてみると、椅子に座って寝ている私を探してくれた。
健一は、心配したよ。と優しく声をかけてくれた。私が「探しに来てくれたの。どうして。私、健一を悲しませた悪い女」。私は泣きながら声を振り絞り健一に今までの事を謝った。健一が、さあ、奈菜帰ろう。お母さんが心配しているよ。この健一の優しい言葉で、私は母が待つ、叔母の家に帰ることにした。帰りの車の中で、恋人岬までどの様に来たか健一に話した。健一から、二度と家出はしない様にと、叱られた。健一、探しに来てくれてありがとう。とても嬉しかった。
【退職】
伊豆恋人岬への家出からしばらくして、私は、突然会社を退職する事になった。退職した理由は体調が少し悪いことが理由。職場の送別会は辞退し、こっそりと退職する事にした。
男性との別居状態は時間はかかったが、5月末に、男性と離婚できることになった。その代り、母がいる長崎に行かなければならない。私は、渋々承諾した。
私は、長崎に移りしばらくして健一に連絡をした。久しぶり。怒っていないよね。健一は、奥さんと離婚しないで。子供たちが悲しむから、離婚はしないで。私は大丈夫。と健一に伝えたが、健一から、「何が大丈夫だよ。いつ長崎に行くかも教えてくれず、電話をしても繋がらず、やっと連絡があったときは、既に長崎に引っ越した後。」こんな事の繰り返しで、健一の声は、少し疲れ気味に聞こえた。私は、これでいいのか悩んだ。
6月初旬、健一に連絡をした。電話に出た健一の声は低く、元気のない返事が返ってきた。少し疲れた健一は8キロほど痩せたようであった。
【生命 いのち】
しばらくして、私は、健一に懐妊の話を健一にした。健一から、別居していたと言ってはいたけど、戸籍上は旦那さんがいた。だから懐妊してもだれも不思議には思わない。「旦那さんとの子でしょ」。健一から半分笑った声で言われた。私は、私と健一の子であると小さな声でつぶやいた。健一から、騙さないでくれよ。誰が信じると思う。だけど健一の子よ。結婚はしたけど、手も握らせてはいない。いつもテーブルの椅子で仮眠していた。絶対にあなた以外の男性に身体を触らせはしなかった。健一、信じてほしい。
健一は、驚いて何度も確認をしてきた。健一のいままで聞いた事のないその声は、別人であった。お腹の子は妊娠5か月になっていた。わたしは、それからは、毎日と言っていいほど、電話であったが、お腹の子に父親である健一の声を聞かせる事が楽しみなやり取りが続いた。
私のお腹が安定期に入り、急遽、長崎から健一に会いに東京に来る連絡が母から健一にあった。
【想いで】
6月中旬、母から、「娘が東京に行きます。娘に素敵な思い出を作ってあげてもらえないか。」と別人の様な優しい母からのお願いの連絡が健一にあった。
その時は何も感じなかったが、後でその言葉の意味が理解することに時間はかからなかった。
私は何も知らず、健一に逢える喜びを胸に、6月20日から三泊四日で東京に行くことになった。私は笑顔になり、独り言で、健一に逢える。幸せ。
東京に行く日は、普段より少しおしゃれをした私。お腹も目立ち始め、明らかに妊婦。長崎空港で搭乗手続きを済ませて、機内へ。
飛行機が動き出し、滑走路に向かっている時、さあ、健一待っていてね。この子とあなたに逢いに行くからね。とお腹をさすりながら私は呟いた。飛行機は東京に向かい滑走路で待機。エンジン全開。今から、会いに行くからね。健一パパ。轟音と共に飛行機は離陸。
健一は、仕事が終わってから、私を迎えに羽田空港に向かった。私の乗った飛行機は、予定通り19時45分に無事、東京国際空港に着陸。私は健一と待ち合わせた空港内の場所に着くと、健一が先にいて迎えてくれ、なんとも言えないくらい嬉しかった。少しお腹が膨らんで、少し太った私に気づいてくれた。私とお腹の子は、今日は相模大野の親戚のおばさんの家で泊まらせてもらうことになっている。
健一に相模大野まで送ってもらい、健一に叔母夫婦を紹介していたら、目立つお腹を叔母さんにからかわれ、その晩は叔母夫婦と一緒に食事。私達から子供の名前など色々はなせて、とても幸せ。後で母から、叔母夫婦は、健一を大変気に入ってくれたみたい。健一が帰った後も叔母夫婦と遅くまで、健一の話をした。翌日、健一といく旅行のため、そろそろ寝よう。明日は相模大野駅のロータリーに9時に待ち合わせ。
【宣告】
健一にあえる喜びで、昨夜は中々寝付けなかった。でも、お腹の子のために寝ないと。お腹をさすりながら、明日パパとお出かけだよ。とお腹の子に声をかけ睡眠。
朝、待ち合わせの相模大野駅のロータリーに健一が迎えに来てくれた。この旅行は、私の想い出作りの旅行であることを私は知らない。健一から行先は、2人の思い出の熱海方面と言われた。国道16号線で東名横浜インターから高速道路に乗り一路、厚木を目指し、そして小田原厚木道路へ。道路は比較的すいていて、観光と途中2回の休憩を取り、14時過ぎに熱海後楽園ホテルに着いた。チェックインをすませ、部屋に入って少し健一とお話し。とても幸せな時間。夕食は部屋で食事を済ませ、少しして2人で入浴。浴衣姿の私のお腹が目立つのが解り、健一は嬉しそうであった。健一にカラオケがしたいとお願いし、ホテル内のスナックでお互いの歌声に酔いしれていた。健一の渋く甘い声に惚れてしまった。時間も24時を廻っていて、お腹にも良くないと思いそろそろ部屋に戻ることを健一に言われ、その時の私は幸せな顔をしていたに違いない。
部屋に戻り健一が携帯電話を開くと、メッセージが届いていた。メッセージを読んでいる健一。私が、誰からのメールなの?奥さんから?仕事のメール?などと尋ねると、まさか母からとは言えず、結局、メールの内容は私には教えてもらえなかった。翌日も車の運転があるので、私たちは、就寝することにした。隣で健一が寝ているけど、眠れそうにない。何故だろう。
【最後の声】
翌日、ホテルをチェックアウトし、今日の目的地の芦ノ湖を目指して、アクセスを踏み込んだ。
わたしは、昨日の奈菜の母親からのメッセージが頭から離れず、逆に隣で嬉しそうな奈菜を見てしまうと運転している最中に感情が抑えきれず、涙が零れそうになっている。
今日は箱根を散策する計画。芦ノ湖、彫刻の森美術館、箱根関所、大涌谷を奈菜に無理のない計画を考えながら運転している。こんなに可愛い人が何故。美術館で見た、ガラス製品。関所、長生きができる大涌谷の卵。沢山食べて長生きすると言っている奈菜。どれもが辛い思い出。
二日目の予定も終わり、宿に向かっていた時、奈菜から、長崎の母からのメールだったんじゃないの。私に内緒で母とコソコソしているんじゃないの。仲いいじゃん。と笑いながら奈菜が言った。奈菜がわたしの態度がおかしいと、一目瞭然と笑ってみせた。
二日目の宿は、隠れ家的な静かな宿。その晩も二人でお風呂に入り、健一が私の膨らんでいるお腹に手、耳をあて生きている証を確認した。
健一パパに予定日は12月24日であることを伝えた。健一は、とても喜んでくれた。健一の胸に頭を乗せ、そのまま夢の中。幸せ。
わたしは、複雑な一夜であった。夜中まだ、辺りは、暗い中、ふと目が覚め、周りを見ると健一が起きているのが判った。だけど、何処か元気がなさそうに見える。いったい母と何があったのかと思い、元気のない健一をみつめた。
外が明るくなってきて、今日はもう神奈川に帰る日。朝食を済ませ、二人で帰り支度。10時に隠れ宿にサヨナラ。親戚の家を目指し相模大野へ向け、青い車は箱根の山を下りだした。もちろん健一の左手を握りながら。幸せ。途中、観光をしながら昼食、仙石原を通り東名高速道路を目指した。
相模大野は東名横浜インターを下り16号線で向かう。運転していた健一が突然、こらえていた涙がこぼれた。どうしちゃったの。なぜ泣いているの。
母に何か言われたの。私はパニック状態になってしまった。目的地の相模大野に到着し、車を駐車場に止めて、健一が突然、行きたいところがあるから付き合って欲しいと。私にプレゼントを買いに近くのデパートに行くことになった。当然、妊婦服売り場である。マタニティ、靴を一揃い購入してくれた。突然だったけど嬉しかった。健一も自分が選んだ物を私が喜んだのか、満足そう。二人での買い物は、幸せな時間であった。
だけど、この日が、健一と最後の日となった。
その晩は、私の親戚と食事をする約束をしていたが、健一は自宅に帰る事になった。
健一の自宅と言っても一月以降親元の1階で暮らしているので、自宅に帰っている気にはならない。健一は、その日食事をし、外に飲みに出かけた。
外で飲んでいるとき、奈菜から連絡があり、買ってもらった服着ているよ。嬉しい。明日、長崎に帰るとき、買ってもらった服を着て帰ると、わざわざそれを言うために私に連絡をしてきてくれた。
携帯電話を切り、わたしは大きなため息をした後、目の周りが熱くなるのをこらえた。この店は奈菜を一度連れてきたスナック。この席は一緒に座ったカウンター、私は一人飲みながら、これからの事を考えていた。すると、自然と涙が出てしまった。お店の女性も奈菜の事を知っており、私が涙を流したことに驚き、破局とでも思ったみたいである。
翌日、奈菜より、長崎に帰る連絡がメールで仕事中にあった。夕方、長崎に無事着いたメールが届き、しばらくして、携帯電話が鳴った。
母親からの連絡であった。母親から、「ありがとうございました。娘があんなに喜ぶとは思っていませんでした。素敵な洋服もありがとうございました。娘に素晴らしい思い出を作っていただきありがとうございました。
鈴木さん、もう、娘の事は忘れてください。
これから娘を病院に連れていきます。自分が何の病気かを医師の口から言っていただきます。きっと、娘は気が狂うでしょう。お腹の子供も諦めてもらいます。お腹の子供は諦めさせます。子供を産んでも娘は育てる事は出来ません。」
一方的に思っていることを言うと母親は、電話を切ろうとしていた。
お母さん、お腹の子供をあきらめれば奈菜は助かるのですかと、尋ねると、しばらく沈黙があり、医師から娘は12月まで生きていられるか保証はできない。と言われています。あんなに元気で嬉しそうであった奈菜の命があと半年なんて。
お母さんは、また、私を騙しているのかと聞き返しました。母親からの答えは年内までの命と繰り返すだけでした。母親から、貴方と知り合った時、すでに病気は発症していました。病名は急性白血病、余命2年と言われていました。父親の病気は最初は嘘でした。しかし、父親は本当に病気になってしまい、娘には申し訳ないことをさせたと後悔しています。
鈴木さんが、これほど娘を愛してくれていてくれた事。感謝しています。ありがとうございます。娘から貴方の家庭のことも聞いています。娘は、貴方のこどもが可哀そうだから、貴方とは一緒にはならない。でも、あなたとのお腹の子供は産みたい。そんなことをいつも私に言っていました。娘が望んでいたことを私は壊すことを選びます。解ってください。孫よりも娘を守りたいのです。少しでも娘といたいのです。お許しください。もう連絡は致しません。娘を忘れてください。母親からの一方的な話をただ聞き、どうすることもできない自分が、ただ情けなかった。
夜、奈菜から電話が掛かってきた。真実を聞かされ疲れ切った声で「ごめんね。私の病気知っていたんだね。だから、箱根で泣いたんでしょ。知らなかったのは私だけだったんだ。」
と一気に悔しさと悲しみを私に投げつけた。
私は、「俺が知らされたのは、奈菜が東京に来る時、母親から思い出作ってあげて欲しい。と最初は意味がわからなかった。嘘ではないよ。箱根に泊まった晩にメールで知らされたんだよ。」
奈菜、俺たちが知り合った時は、我々以外はみんな奈菜の病気知っていたみたいだよ。知り合ったばかりの頃、4人で飲みに行ったとき、奈菜が連れてきた美紀さんも親戚の叔父さん、叔母さんも病気知っていたみたいだ。会社の上司や同僚も知らされていたんじゃないかな。だから、休んでも何も言われなかったのかもしれないね。薬止めた時の事、覚えているかな。子供に影響が出るから薬止めると言っていたね。あの薬、抗がん剤だったみたいだ。だから、少し気分が悪くなっていたみたいだ。
年に2回、3サイクルでの薬の投与は、全て白血病の治療だったみたいだ。その事を俺は、気づかなかった。ごめんな奈菜。
健一、謝ることなんてないよ。健一、お願いがあるの。奥さんと仲良くなってほしい。そして、子供たちを喜ばせてあげて欲しい。健一、お願い。約束して欲しい。
この会話が奈菜と私の最後の会話となった。
【大好き】
奈菜と最後に話した日から、電話を掛けても出てもらえず、奈菜からも電話はかかってこなかった。
新年を迎え、親戚達と新年の宴を行なっていた時、膝下に置いていた携帯電話が鳴った。画面を見ると非通知電話であった。恐る恐る電話にでると相手は、奈菜の親友の美紀さんだった。
鈴木さん。「ご無沙汰しています。お元気ですか。1月1日早朝、苦しむ事なく、綺麗な顔で、奈菜が亡くなりました。貴方のことを心配していました。」その事を伝え電話を切ろうとしでいる美紀さんに
「美紀さん、お腹の子供は。奈菜に会わせてもらえませんか。覚悟はしていましたが、亡くなったことを受け入れられません。会わせてください。」美紀さんは、黙ったまま答えてはくれなかった。
しばらくして、「鈴木さん、忘れないであげてくださいね。奈菜が、貴方だけを愛したこと、全て奈菜から聞きました。お腹の子ができた時のことも。名前も決めていたみたいですね。嬉しそうに話していました。一生忘れないでください。お願いします。」
美紀さん、奈菜が本当に亡くなったのなら、葬儀に参列したい。
鈴木さん、残念ですが、それは叶いません。そろそろ、電話を切りますね。
美紀さんは、奈菜が亡くなったことを私に伝えると電話を切ってしまった。
【永遠に】
あれから、20年、私は勤務していた会社も定年となり、ある日、自宅の私物を片付けていた時、机の引き出しの奥から、昔使っていた青色の携帯電話が出てきた。懐かしい、奈菜と毎日話した携帯電話を握りしめ、20年前の色々な出来事。元気でいつも笑顔で素敵な奈菜を思い出しながら窓の外を見つめていた。目頭が熱くなり、涙が溢れてしまい、何故だか止まらない。今でも奈菜が大好き。涙を流しながら、もしかしたら、奈菜の病気は治ったのではないか。子供も元気に生きていてくれている。そんな事を考えてしまった。
逢いたい。あの時、奈菜のお腹の子、生まれていたら今年20歳。女の子であれば奈菜の様に色白で可愛いく、賢く、誰からも好かれる女性になっていることだろう。男の子であれば、我々二人に似てスポーツマンでみんなから慕われる青年になっていることだろう。
大好き。
これからもずっと。お前の事を好きでいて良いよな。奈菜。
【終わりに】
菜奈は、自分の病気のことを実は知っていたのではないか。私に心配をかけさせないため、知らないふりをしていたのではないかと、いなくなって私は思うようになった。自分の残された時間も知っていて、私が一人になってしまうから、だから、私に離婚はしないでと言っていたのかと。もしそうであったら、その時、その思いに気づけなかった自分を叱りたい。今となっては、その事を確認する事ができないけど、そう思って生きていこう。
大好き 永遠に 風来坊 @oyagimura
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