第41話

『オレの家に来なよ。気に入れば好きなだけいてもいい。もちろん…出ていきたくなったらそうすればいい』

 私はその提案に頷いていた。自分勝手な理屈で遠ざけて、目の前で自殺までしようとしたのに。その暖かい言葉に、優しい声にもう逆らう気力がなかった。

 二人そろってずぶ濡れの酷い格好で彼の家に入った。一人で住んでいると言っていたが私と母の住んでいたところよりやや広いくらいだった。彼によると以前引っ越した時に家族で住んでいた家をそのまま使っているだけで新しく買ったわけではないという。それにしたって使わない家を八年も保全するなんて余程金銭面に余裕がなければ出来ないだろう。彼の両親は相当なお金持ちなのだろうか。

 頭痛と手首の傷の痛み、栄養失調による虚脱感、雨水に晒され川に浸かったことによる発熱で一週間ほど体が動かなかったが、翼はその間付きっきりで看病してくれた。病院に連れて行ってくれた。ご飯を作ってもらった。心細い時は一緒にいてくれて、一人になりたい時はそっと部屋を出てくれた。

 父親には一度も会ったことがないけれど、きっとこういうことをしてくれる人のことを指すのだろうと熱でぼんやりとした頭で考えたりした。

 あまりにも優しくしてくれるものだからこれは自分が作った都合のいい夢なんじゃないかと眠りにつくたびに不安になって、目を覚まして彼の顔を見るたびに安心した。

 元々酷い傷だったのにそれを放置して病院を抜け出し、適切な処置を怠ったものだから傷は膿んでいた。それ自体はどうにかなったが痕はどうにもならないらしい。手首を見る度に、塞がってなお醜い傷跡が目に写った。自業自得なのだから受け入れる他ないのだがどうしても直視出来ないし、自分はともかく彼には見られたくなかった。

 だから室内でも手袋をつけることにした。多少汗ばむし作業をするにもなにかと不便だが見られるよりはマシだ。それに不意に手が触れても人の心を読まずに済む。

 一緒に住むようになってからいつの間にか一ヶ月程の時間が過ぎようとしていた。私は自分が彼にしたことの罪悪感と気恥ずかしさで目を合わすことすら覚束なくて会話は弾まなかった。

 そして同居しているからといってずっと一緒にいられるというわけではない。私は学校に行かなくなったが彼はそうじゃない。平日は一人きりだった。

 必要ないと言われたが見送りだけはするようにしている。家の主が出かける時も眠りこけているのでは居候の身として申し訳が立たない。もうなにも残っていないからこそそれくらいの意地は張りたかった。

「じゃあ、行ってくるね。夕方には帰ってくるから」

「……うん」

 この一ヶ月間、翼は一度も私に触れようとはしなかった。彼だって男だ。異性と同じ屋根の下にいるのだからそういう気を起こしてもおかしくないし、私はそれでも構わないと思っていたのに。

 私には異性を惹きつけるような魅力がないのだろうか。夜の街では中年の男がすぐに声をかけてきたのだからある程度はあると思うのだが。ああいった手合いには目をつけられるのに想いを寄せた相手には求められないというのは皮肉というかなんというか。

 私に気遣って我慢しているだけなのだろうか。それとも私以外に付き合っている相手がいるのだろうか。そもそもこんな下衆な考えをしている私がおかしいのだろうか。

 ぐるぐると益体のない考えが回って最後には自己嫌悪に陥る。確かめる手段はあるがそれを使うのは恐ろしかった。

 必要などなくとも、本当は彼に触れたい。触れてほしい。私を置いて出かけるのも本当は嫌だった。一人は寂しい。ほんの少し前までは一人でいる時間だけを望んでいたのに今ではそれに耐えられなくなってしまった。毎日学校に行く彼を見送る時だって本当は泣き喚いて止めたいのを我慢している。

 そういった恋とも妄執ともつかない感情が日に日に日に膨らんで、内側から壊れてしまいそうになる。もし手に入らなかったらと考えると気が触れそうになる。

 いっそのこと彼のことを洗脳して自分だけのものにしてしまえば───そうすればずっと一緒に───

 そんな醜い欲望を自覚しているから触れるのが怖かった。もしもう一度彼に触れる機会が来たとしたらきっととんでもない過ちを犯してしまう。そんな嫌な確信があったから。

「……はは」

 自分の卑しさと愚劣さを笑ってベランダに出た。

 彼が出ていった後ここではぼんやりと空を眺めるようにしている。何も考えたくないというのもあったし、一人で何をすればいいか分からなかったからというのが大きい。一度母がいない間に家に戻って着替えのついでに本を何冊か持ってきたが、読もうという気にもなれなかった。

「……」

 登校中の子供のはしゃぎ声、職場に向かう車の走る音、仲間を呼ぶ烏の鳴き声。それら全てに取り残されたような気分になりながら今日も私は空を見上げている。けれど一つだけいつもと違うことがあった。

 昨日夕餉の後片付けを二人でしている最中、私はなけなしの勇気を振り絞って彼に自分から話しかけた。緊張のあまり頭の中が真っ白になっていたからなんと切り出したかはっきりとは覚えていないが『料理を教えてほしい』というようなことを口にしたと思う。

 彼は視線を手許にある食器に向けたまま答えた。

『じゃあ明日学校帰ったら一緒にご飯作ろうか』

『…本当?』

『うん、約束していいよ』

 訳もなく不安になって念を押したので彼は苦笑していた。今更ながら疑うような発言で気分を害していないか不安になる。

「約束…」

 誰かとまた会ったり、なにかをする取り決め。それが自分と彼を繋いでいるということがとても嬉しく思えた。彼と出会うまで誰かと約束したことなんて一度もなかったから。

 気が早いかもしれないが、次約束するなら何がいいだろうか。一緒に買い物とか、遊園地とか。いや、恋人でもないのにそんなことを期待するのはおかしいだろう。勝手に期待して勝手に失望するようなことは繰り返すべきじゃない。

 十分経てば忘れてしまうような空想、もとい妄想を何度も思い描いては捨てる。そんなことを幾度も続けながら彼を待ち続ける。

 空はいつか通学路で見上げた時と同じように青く澄んでいた。私自身もやはり変わっていない。青空が醸し出す前向きな雰囲気を素直に受け止められないままだ。

「それでもいつかは…」

 また希望するような言葉を口にしようとした自分に気づいて呆れる。けれど生きている限り期待と希望を手放すことなんて出来ないのだということも悟った。

「……」

 今は‘いつか’なんて遠いことのことを考えるのはやめよう。ほんの数時間先の約束を果たすことだけを考えればいい。

「…まだかな」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

悲観主義者は空を見ない @infinitemonkey

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ