第40話
昔のことを思い出した。オレと美月が両親の目を盗んで海に入った時のことを。
当時のオレは体が弱くて外では一人で動くことを禁じられていた。海に入るなんてもってのほかだ。両親は二人とも優しかったけれど、それだけは許してくれなかった。
当時のオレとは違って美月は運動も出来て体格にも恵まれていたから多少自由に動くことを許されていた。オレの出来ないことを平気な顔でやってのける姉に憧れる一方、劣等感も覚えていた。
ある夏の日。母方の祖母の家に遊びに行った時、家族みんなで海水浴に行った。いつものように父さんと美月だけが遊びに行ってオレは母さんと一緒に待つ。そういう段取りになるはずだった。
両親が揃って飲み物と食べ物を買いに行った時、オレは美月に言ってはいけないことを言ってしまった。いつもは我慢できていた筈なのにあの日はなぜだかできなかった
『美月だけ…いつもずるいよ』
どうしてあんなことを言ってしまったのか、この後に起きることを知っていたら、いやそうでなくても絶対言ってはいけなかったのに。
『しょうがないな。お姉ちゃんが連れていってあげる。今回だけだからね』
困ったような顔をして、それでも美月はオレの手を取ってくれた。二人でこっそりと海辺に走った。勝手に行動したことで後から怒られるだろうと言うのは二人とも分かっていたが、小さな冒険に胸を躍らせて後のことなんてなにも考えていなかった。
『美月、もう少しまで奥に行こう』
『危ないよ、翼。そろそろ戻ろうよ』
美月は確かにオレを止めた。なのにオレは初めて親の目から離れたことに浮ついて引き時を見誤った。
磯の端から海に入って、奥へ奥へと進んでいった。最初の方はギリギリ足がついていたけれど、知らない内に爪先すら地面を掠らない程沖へ出てしまっていた。
焦ったオレは美月に戻ろうと伝えようとした。けれどその時には美月の姿はどこにも見えなかった。
一人心細い気持ちで怯える間もなく強い波がオレの体を更に沖へ運んだ。あっという間に体力はなくなり息さえ出来なくなった。あれほど死を意識したことは後にも先にも一度もない。
何度思い返しても奇妙な流れだった。底へ底へと誘うように急激に体が沈んでいった。とても大きななにかに呼ばれていたような気もする。
暗い海の中、一人ぼっちで死ぬんだ、と。絶望したその時に、なにかが視界に入った。
美月だった。気を失ってしまったのか目を閉じてぐったりとしていた。オレと同じであと一分も経たず死ぬことになるだろうということは幼かった当時でも理解は出来た。
それだけは絶対に認められなかった。オレの我儘を聞いただけでなにも悪いことなんてしてない姉がこんなに寂しいところで死ぬなんて看過できなかった。
必死に藻掻いた。水を掻き分けるように手足を動かした。けれどそんなことで波の流れに逆らえるわけがない、はずだった。
水流に晒されているというのに手足が羽毛のように軽かった。酸欠で力なんて残っていない筈なのに全身に活力が満ちていた。
死の間際の都合のいい幻覚か。そう思ったが実際にオレの体は逆巻く水流を乗り越え動いて、美月に近づいていた。
気を失った美月の手を取って、その重さを引き受けてなおオレの体は考え通り、いやそれ以上に動いてくれた。
無我夢中に足を動かし続けて、気が付けば美月とオレは陸に上がっていた。そして息を吸う度に信じられない程の力が駆け巡るのを感じて、オレはその全能感に酔いしれていた。その裏で何が起きていたのかも知らずに。
追憶が終わり、気づくとオレは沈んでいた。水面に叩きつけられた時に気を失ったようだ。まだ生きているということは大した時間は経っていないのだろう。
川の中は濁っていた。目を開けていると妙な菌が入ってきそうだ。周囲を見渡すと唯が目を閉じて力なく浮かんでいた。あの時の美月と同じだ。
オレなんかが弟じゃなかったら美月はあんな目に遭わなかった。オレと会わなければ唯も家と学校を失わずにこんな濁った川の中で死にかけることはなかっただろう。
なにもかも同じだ。何も変わらない。だからオレがこれからやることも変わりない。
手足を動かし彼女の許に近づく。生きているか死んでいるかすら判別はつかないがあの時と同様に手を取って水面に上がった。
川から顔を出してようやく呼吸できたが依然予断は許されない状況だ。彼女の肺に水が入っていたり、あるいは着水の衝撃で骨が折れていたりしているかもしれない。早く引き揚げて確かめなければ。
川沿いにある足場に掴まって二人共々這い上がった。依然彼女に目立った反応はなかったが、耳を澄ますと呻き声を上げていることに気づいた。よかった。生きている。
彼女を背負って階段を上る。川に浸かったせいでもはや服は余すところなく濡れているというのに加えて雨風も止まない。踏んだり蹴ったり、泣きっ面に蜂、そんな諺が浮かんでくる。
流石に疲れた。肉体的に疲れを感じることはここ最近あまりなかったが今回ばかりは体を酷使しすぎたようだ。
「…あれ?…私?」
「気が付いた?」
微睡むような声が耳元に響いた。意識を取り戻して間もないせいか状況が呑み込めていないらしい。
しかしすぐに理解したようで声音が重くなる。
「…なんで、助けたの?私は…違うって言っているのに…」
「…オレも言っただろ。それをこれから教えてくれって」
第一今と昔で性格が違うなんて理由だけで身投げしようとしている人間を見捨てられるわけがないだろうに。まったく。一つや二つ小言でも言いたくなったがそれを遮るように彼女の啜り泣く声が聞こえた。
「………翼が、私に変なことばっか言って、私を変えたから…全部壊れちゃった…!…アナタがやってこなければ私は普通のままでいられたのに…!…翼なんて…大嫌い……!」
途切れ途切れの言葉が、泣きじゃくる子供のような声が胸を抉る。‘大嫌い’、そう言って尚彼女はオレにしがみつくように腕の力を強めた。
流れる涙が首筋を伝った。体が冷え切っていたからこそ、その熱の重みを強く感じさせられた。
「…本当にごめんね」
目を閉じて、頷く。ただ謝ることしか出来なかった。下の名前で呼んでいいと言って彼女が花のような笑顔を見せた時から、いや、もっと前、電車を出た途端突然倒れた彼女を抱きかかえて、儚く目を閉じるその顔を見た時から、彼女のことばかり考えて、幸せでいてほしい、傍にいたいだなんて思うようになっていた。その彼女を傷つけてしまったことは悔やんでも悔やみきれない。
そこで気づいた。自分は今背負っているこの少女に骨の髄まで惚れてしまっていたのだと。いくら幼馴染といえど、そうでなければ何度も拒絶されたのにしつこく付きまとう筈がない。そうでなければ彼女の為に毎日三時間駅のホームで待とうなんて考えもしなかった。投身自殺を目の前で敢行されたら誰が相手でも止めただろうが、長時間座って待つだけということを継続的に続けるのは好きじゃなければ絶対無理だ。薄情かもしれないが断言できる。
あの時の唯はオレが別の人を好きになったことを怒るだろうか。それとも笑って許してくれるだろうか。どちらも想像がつくが確かめる術はもうない。もういなくなってしまったのだということをまた実感した。
「母さんの記憶も消しちゃって…もうどこにも居場所がなくなっちゃった…私、これからどうしよう…」
悔やむような、縋るような言葉にオレはまた目を閉じた。実際問題として彼女には現在住む場所も社会との繋がりもない。命を助けて気休めを言うだけでは彼女の抱えている問題を解決できないし、その場しのぎにすらならない。
「…それならさ…」
気づけば自分でも驚くような、大胆な提案を唯にしていた。
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