片羽のオトは愛を歌う
「サヨもアタラ様とユミばあに会いたかったのに!」
むくれる幼鳥が書類の塔を運んで来た。これで三つ目だ。「領事様がお仕事溜めちゃうから! もぉ!」と机に叩きつけられ、不機嫌な塔が揺れる。
サヨには悪いが、今はオトの喉を治す薬を調達することが最優先だ。こんなところで書類に埋もれているわけにはいかない。そもそも仕事を三日放棄したくらいでこの様とは。もっと部下へ効率的に仕事を押しつけて……失礼、割り振ってやる。見えない角を生やしたノアは「島主殿と面談があるんだった」と思いついたように言い放ち、執務室の窓から華麗に飛び出した。
監獄から逃げた先は賑やかな港。リュクスの行商人に薬の手配を依頼したのだが。
「薬は輸入禁止物です。いくらうちでも手配できませんよ。商売ができなくなっちまう」
「領事が頼んでいるのにか?」
「領事ならなおさらだめでしょうが!」
ド正論を食らって口がへの字に曲がる。貿易条約を改定するか、島に自生する代用品で調薬するしかない。どちらがより手早いか思案しているうちに日が傾いてしまった。仕方なく長い白亜の階段を上り帰路へ着く。
ふと顔を上げると、中段の踊り場に片羽の雛鳥が立っていた。夕焼けを纏う彼女の姿を見て、残りの階段を一気に駆け上る。
「オト、どうし……」
間近で見たその姿に、驚きで言葉が詰まる。
それまで頑なに施しを受けなかった彼女が、
淡い紅を差した唇が照れくさそうに弧を描く。その全てが花咲くように可憐で、目を奪われた。
「ユミさんが昔着ていた着物を譲ってくださったんです。私が持っているものより派手だろうって。お化粧はハンナさんが。何だか自分じゃないみたいです。……でも私は、ノア様からいただいた着物だと思っています」
「それは、どういう……」
ノアが勝手に用意した着物は全て返されたはず。戸惑うノアとの距離を、オトの草履が一歩ずつ踏みしめた。
「ノア様がユミさんに取り次いでくださったから、この着物をいただくことができました。だからこれはノア様が繋いでくださった
「大袈裟じゃないか? 俺はただ楽器の修理を依頼しただけで――」
「それでも。そのお気持ちが、私はとても嬉しいのです。ノア様が私の歌ではなく、歌おうとする気持ちを必要としてくれたように……」
怯えた表情は影を潜め、思いの丈を一つずつ確実に吐露していく。それまでの彼女とはまるで見違えるようだ。
「ノア様」
最後の一歩を踏み出して、憧れの群青色を真正面で見つめる。
「私を鳥籠から連れ出してくださって、ありがとうございました」
引け目を感じてずっと言えなかった言葉。自分のことで精いっぱいで、彼の心根に向き合うことができなかった。だがもう逃げない。逃げたくない。
「外の世界を見せてくださったことも、無知な私にたくさんのことを教えてくださったことも、ピアノの伴奏も……あなたがしてくださったことの全てが、私はこんなにも嬉しくて堪らないのです。だから……」
こんなに喋ったのはいつぶりだろう。それくらい溢れる想いを言葉にすることに必死だった。一字一句、全てが伝わってほしいから。少しも取りこぼしてほしくないから。
「――私、ここで歌いたいです」
自分の目で見て、知って、自分の意志で歌う場所を決めた。ノアがそうさせてくれた。オトの世界は、間違いなく変わったのだ。
「大陸人の皆さんのために歌いたいんです。どんなに醜い声でも一生懸命歌います。だから……おそばに置いていただけませんか……?」
一世一代の大願をぶつけて、胸の前で組んだ手が震えた。拒絶されたくない。必要だと言ってほしい。こんなに狂おしい感情は今まで抱いたことがない。
「あの、ノア様……?」
反応がないことに不安を募らせた肩と腰へ長い腕が回された。ぐいと引き寄せられ、至近距離から見下ろされる。
「本当にいいのか? 鳥籠に帰りたいと泣いても、もう放してやれないぞ?」
最後の最後までオトに選ばせようとする優しさに胸が詰まった。そんなことを言われたら、ますますそばにいたくなってしまう。
「不束者の片羽ですが、どうかおそばで歌わせてください、ノア様」
早鐘を打つ胸元でそう告げた途端、ふっと美しい笑みが向けられた。愛おし気に羽耳を撫でる指先がくすぐったくて、パタパタとはためく。
「じゃあ、これで正真正銘俺の小鳥だな」
「……はい、私はノア様の小鳥です」
じわりと胸に広がった幸福を噛み締めていると、膝裏に手を回されてふわっと持ち上げられてしまう。突然の浮遊感に大きく目を見開いた。
「きゃぁっ!」
「ハハッ、オトは軽いなぁ! さすが羽が生えているだけある!」
「も、もう……ふふっ」
無邪気に笑うノアにつられて、オトも満面の笑みを零す。こうして声を上げて笑ったのは、生まれて初めてかもしれない。
幸せそうな二人を夕焼けと海風が包んだ。
後世に残るクレセンティア史には、愛を歌った片羽の雛鳥が最後の献上だったと記されている――。
【第二章 歌うたえば音は笑む ≪終≫】
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