東の果ての、その向こう

「オト、こちらへ」


 ノアに呼ばれ、手すり伝いに近寄る。

 彼が見せたかったのは、東の海だった。オトが囚われていたカージュの小島も見下ろせる。


「大陸ではクレセンティアを東の果てと呼んでいる。ならカージュの奥に続く海はどこへ繋がっていると思う?」

「果てということは、行き止まりではないのですか?」

「海に行き止まりはない。あの奥にはリュクスのさらに西側――連邦大陸と繋がっている。実力主義の小国が徒党を組む血生臭い土地だ」


 東の先が、西に。困惑するオトの手に、島の名産品でもある硝子玉がらすだまが渡された。


「この世界は硝子玉がらすだまと一緒だ。球体はどこまで進もうと行き止まりがない。一周回って、また同じ場所に戻る」

「ほんとだ……」

「連邦大陸は長らくリュクスと睨み合いを続けている。さっき蒸気船を見ただろう? 世界的にも造船技術は発達していて、海の果てはもう果てではなくなってしまった。ほら、あそこを見てみろ」


 備え付けの望遠鏡に案内され、中を覗いてみる。拡大された筒の中をウミネコの群れが横切った。ノアが指差した方へ向けると、レンズいっぱいに白波の爆発が起こる。


「ッ……!?」

「我が軍の巡視艇が所属不明船を撃沈させた。無法者を装っているが、連邦大陸の斥候であることは間違いない」


 手持ちの双眼鏡で同じ方向を見ていたアルベルトは淡々と語るが、オトは大きな衝撃を受けた。憧れしかなかった綺麗な海の上で、こんなことが起きていたなんて。


「神獣信仰の根強いクレセンティアは自衛力が乏しい。それは連邦大陸も十分にわかってる。つまりここさえ占領してしまえば、リュクスに東側から攻め入れる」

「そんなっ……!」


 望遠鏡から目を離し、非情な現実を突きつけるノアを振り返る。

 クレセンティアが国盗り合戦の最中にいることすら、カージュにいた頃は知らなかった。自分が生きている世界のことなのに、何も。


「連邦大陸は武力で成り上がってきた国だ。信じる神を持たず、神殺しも恐れない」

「じゃあリュクスの皆さんがいなかったら、今ごろ……」

「連邦大陸に占領され、島民は捕虜と言う名の奴隷にされていただろう。雛鳥も同様にな」


 おぞましい想像に、オトは自分の両腕を抱いて震え上がった。


「私、本当に何も知らなくて……」

「だがもう、自分の目で見て知ったろう?」

「……はい」


 いかに狭い世界で生きていたのか、まざまざと思い知った。

 強張り震えるオトの両肩に手を置き、ノアは安心させるように語りかける。


「まぁ、何も外の世界は恐ろしいものばかりじゃない。君が想像もつかないほど美しい景色や不思議な事象はたくさんある。例えば……」


 ちらりとアルベルトに目配せする。幼馴染の悪巧みに気づいて「ここではよせ」と制止したのだが。


 ――パチン。


 ノアが小気味良く指を鳴らすと、アルベルトが眩い光に包まれた。

 そう時間も立たず収縮した光の中心には、もぬけの殻となった軍服だけがくしゃっと残る。消えてしまったのかと慌てるオトを横目に、ノアは楽しそうに笑った。


「大丈夫だ、ほら」


 指を差した深緑色の軍服の中から、もぞもぞとネズミが這い出してきた。怒っているのか、前歯を剥き出しにしてチチチチッ、と激しく鳴く。


「アルベルト様……?」

「カージュで君を見つけたのもこいつだ。ネズミに変えて先に連絡船へ潜り込ませていたんだ。おかげで助かったよ」


 人間がネズミに変わった。何が起きたのか分からず混乱するオトに、ノアは得意気に微笑む。


「神獣はセレニティだけじゃない。少なくとも世界で百二十種は確認されている」

「では、ノア様も神獣の加護を賜ったのですか?」

「ああ。俺は全ての生物の祖と言われている神獣ニアの力で、生物を別の生物に変容させることができる。……もっとも、俺は加護ではなく呪いと呼んでいるがな」


 涼しい顔で物騒なことを口にしたノアがアルベルトを元に戻そうと指を向けるも、ハンナがネズミと軍服を拾い上げた。


「屋外で全裸にさせるのは、いささか不憫では?」

「それもそうか。オトにも悪影響だしな」

「チチチッ! チャーーーッ!!」


 ハンナの手のひらの上でつぶらな瞳をキッと吊り上げて怒るアルベルト。今にも噛みつきそうな形相だが、どうにも可愛らしさが拭えなかった。

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