閑話
ノア・ブランという男
『一族に呪いを
黒塗りにされた祖父の幻影がこちらを指さし、
現実の侮蔑はこんなものじゃなかった。毒素を体外へ排出する免疫反応のような本能だったのだろう。幼子と無力な母親に向けるには過ぎた憎しみだった。
『ブラン家の恥晒しが』
『その身が清まるまで塔から出られると思うな』
『ふしだらな母親共々消し去ってやりたい』
「俺の深層心理を覗いて夢を見せているのか? だとしたら残念なくらいお粗末だな」
期待外れな悪夢にもそろそろ飽きた。だがどうやって目覚めよう。止まない侮辱を浴びながら、黒い
――
「これは……」
消え入りそうな声だったが、確かにそれは歌だった。
なぜわかったのかと言うと、その歌に覚えがあったから。忌み子を唯一愛してくれた祖母が寝たきりになる前、よく口ずさんでいたのだ。異国の言葉で何を歌っているのかはわからなかったが、耳馴染みの良い優しいメロディーが、彼は大好きだった。
歌声に導かれるよう足を向けるといつの間にかトンネルを抜け、ツツジ並木が広がる。
そこにいたのは、幻想的な羽耳を持つ少女だった。
∞
「――ノア! ノア・ブラン! いるんだろ!?」
パリッとした声が河川敷に響き渡る。
「アル、声が大きい。せっかくの余韻が台無しだ」
ツツジ並木の中から立ち上がり、土手を探していた親友を見上げる。
整髪剤で後ろへ撫でつけられた紺色の髪と意志の強そうな太い眉根が、彼の実直な性格を表している。その佇まいに相応しい深緑色の軍服を着たアルベルト・ソーンは、本国でも奇天烈で名の通った幼馴染に目くじらを立てた。
「何が余韻だ。さっきの
「実に幻想的で興味深い光景だった。ところで飛翔した蝶はどこへ?」
「知るか。職員たちと総出でお前を探していたんだぞ」
「あの貴重な現象を観測しないなんて、全員無能か!? 給料泥棒も甚だしいな! 帰国したら殿下に報告しないと!」
土手を上りながら「信じられない!」と言わんばかりの反応をするノア。
アルベルトは「絶対にお前にだけは言われたくないと思うけどな」と、領事館職員たちに同情した。彼らの仕事は
就任早々に横暴な領事を薄目で睨みつけていると、いつも大切に身につけているお守りがないことに気がついた。
「ノア、指輪はどうした?」
「ああ、さっき出逢ったセレニティの雛鳥に預けた」
「アルマ様の指輪を、雛鳥に!?」
腹の底から出た声に、麗しい領事が耳を塞ぐ。せっかく耳に残った彼女の歌が掻き消されてしまうじゃないか。
「
「馬鹿なのか? 本当に救いようのないほどの馬鹿なのか、お前は?」
「俺ほど有能な男は大陸中を探してもそうは見つからないと思うが?」
「馬鹿と天才は紙一重と言うが、お前は間違いなく馬鹿の方だ」
馬鹿だ馬鹿だと連呼され、ノアは当然面白くない。だが生粋の馬鹿は、いつもアルベルトの想像を遥かに超える。
「時にアル。お前、クレセンティアの島主と面識はあるか?」
「ツキシマ殿なら丁度、午後に軍事演習の段取りで会う予定だが……」
「俺との会合もねじ込んでくれ」
「理由は?」
「カージュに取り次いでもらう」
その名を聞いて、アルベルトに緊張が走る。
クレセンティアの北東岬に門を構えるリュクス東部防衛本部、その司令官に就任して三年。先日来たばかりの新任領事よりも長く、この島を見てきた。
「ノア、いくらお前でもカージュには手を出すな。あそこは本物の禁足地だ」
「禁足地? そんなの誰が決めた。入っていいかどうかは俺が決める」
空と海を閉じ込めたような
「それに約束したんだ、会いに行くって」
舞い上がった
彼女をあそこまで追い詰める何かが、あの鳥籠の中に渦巻いている。それをこの目で見極めなければならない。
「ハァ……どうせ止めても聞かないんだろ? 頼むから国際問題にだけはしてくれるなよ」
「そうならないようにするのは俺の仕事じゃない」
「領事なんだから、お前の仕事だろうが」
東の海に浮かぶ秘境、クレセンティア。
神獣の庇護の下、世界情勢から長らく息を潜めてきた小さな島は、文化や景観の美しさとは裏腹に、どこか
盲目的に信仰される一方、伝承の域を出ないほど詳細が解明されていない神獣、セレニティ。
実害が出ているのにその生態系が未だ謎に包まれている妖虫、
羽耳を持つ者を一カ所に掻き集めた閉鎖的な鳥籠、カージュ。
並べ出したらきりがない。
「神域の解明とは、殿下も無茶な密命を授けてくれたものだ」
「口に出したら密命とは言わない」
「お前だから別にいいじゃないか、アル」
口にすることで強制的にアルベルトを巻き込んだノアは得意気に笑い、二人は並んで歩き出した。
これは初会合で思わぬ意気投合を見せた領事と島主が
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