約束

 ちょこまかと走り回るネズミを追って、領事は迷わず歩を進める。現れたのは離れのような小さな社殿。


 案内を終えたネズミがコートの肩へ器用に上り、前歯をくわっと見せて「チチチッ」と小さく鳴く。


「この骨? 怒らせるためのパフォーマンスだ。その方が相手の本音がわかりやすい」


 中折れ帽を脱いで悪趣味な骨を外し、社殿の隅へ放る。もう必要のないものだ。


「おかげでじっくり見ることができたよ、この美しくて惨い鳥籠を」


 そう言って扉に手をかけた時。何者かが駆けて来る足音を察知して、ネズミがそそくさとコートのポケットに隠れた。


「領事殿!」


 息を上げて走って来たのはアタラだった。ミツルと告鳥つげどりが対峙する最中さなか、人目を盗んで追いかけて来たのだ。


「そこはセレニティ様の恩寵おんちょうを集めた特別な場所。これ以上カージュで勝手をされては困る」


 一歳にならないうちからカージュへ捧げられ、生まれてからのほとんどを鳥籠の中で過ごしてきた。アタラの根っこには、神鳥に対する深い忠誠心がある。

 そんな模範的な優等生を一瞥いちべつしてもなお、領事は扉から手を離さない。


「君はこの中に何があるのか知っているのか?」


 淡い金糸の間から、冷たく燃える青の瞳が突き刺さる。アタラの背筋を駆け抜けた悪寒は、間違いなく殺気だ。


「……何もない。使われる場合は扉に札をかけるようになっている。その中は無人だ」

「よかった。知っていて止めているのなら、君を八つ裂きにするところだった」

「それは、どういう……」


 答える代わりに、扉が勢いよく開け放たれた。

 外に灯された篝火かがりびが入り口付近をゆらゆらと照らす。奥まで見通すことができない暗闇を物ともせず、領事は足を踏み入れた。

 靴底で板間を踏みしめ、一歩ずつ近づいた先。事切れたように動かぬ肢体の前で片膝をつき、口元に手の甲を当てる。微かな呼吸を感じて、安堵の息を吐いた。


「やっと見つけた、俺の小鳥」


 気を失ったオトを軽々と横抱きにして立ち上がる。彼女が大切に抱えていた壊れたリラも拾って。


「オト!?」


 外で待機していたアタラは、領事に抱えられたオトを見て思わず駆け寄った。

 血の気の引いた唇は色を失い、泣き腫らしたまぶたは石のように硬く閉ざされている。


「気を失ってるだけだ。だが酷く衰弱してる」

「っ、すぐに医師を手配する。こちらへ――」

「必要ない」

「は……? おい、待ってくれ!」


 困惑したアタラがしゃんと伸びた背に向かって叫ぶ。だが彼の足は止まらない。


「鳥籠から出す気もないくせに、中途半端な優しさで飼い殺すのは一番非道だ。狡い男だな、君は」

「っ……!」


 その言葉に、浅沓あさぐつが酷く重くなった。

 蒸気船を見て瞳を輝かせたオトの横顔を知っている。ずっと、誰より近くで見てきた。守っていた、つもりだった。


 打ちひしがれてその場から動けなくなったアタラを残し、領事は来た道を辿って本殿へと戻った。

 素顔を見せた領事と、死んだようにぴくりとも動かないオト。雛鳥たちはさえずることも忘れて息を飲む。


「島主殿、献上選びは終わりだ。本島へ戻ろう」

「ああ」


 感情が見えない鳥面の奥から無言で睨みつける告鳥つげどりの横を通り過ぎ、二人は船着き場へ向かう回廊を歩いた。

 誰も言葉を発せられない異様な空気の中、小さな影が二人を追う。


「ま、待って!」


 サヨが腹の底から叫んだ。ゆっくりと振り返った領事と島主、そしてカージュ全員の視線が小さな身体に突き刺さり、足がすくむ。だが、その恐怖すら凌駕する思いがあった。


「サヨも連れて行ってください! オト姉様は歌うのが怖いと言っていました。だから、サヨがオト姉様の分までせいいっぱいご奉仕します!」

「幼鳥の分際で何を、」

「お願いします! オト姉様のおそばにいさせてください!」


 口を挟んだメルヴィに嘆願を被せ、深々と頭を下げる。

 歌も、楽器も、言葉も、文字も。全部オトが教えてくれた。カージュで散々苦しめられてきたオトが大陸人の手籠めにされるのをただ見過ごすことなど、サヨにはできない。


 あまりの緊張に涙が浮かび、床の木目が滲んで見えた。コツコツと靴底の音が近づいて来て、一気に身体が強張る。身のほど知らずとぶたれるのだろうか。オトに降りかかる罵倒と暴力を間近で見ていた幼い脳裏には、そんな考えが当然のように浮かぶ。


「サヨ、と言ったか?」

「は、はいっ」


 名を呼ばれて恐る恐る顔を上げると、オトの膝裏を抱える手から壊れたリラを渡された。


「これを持ってくれないか? 落としそうで困っていたんだ」


 朽葉色くちばいろのそれをおずおずと受け取り、胸に抱く。優しい声色だった。張り詰めた糸が緩んだ柔らかな頬を涙が伝う。

 再び船着き場を目指して歩き出した領事の代わりに、ミツルが立ち竦む幼鳥の手を引いた。


「献上は二羽ってことでいいのかな? 異例尽くしで飽きないね、新しい領事殿は」

「島主殿は新しい物好きと聞いた。嫌いじゃないだろう、こういうのも」

「まぁ、たまにはね」


 肩書で呼び合うのに妙に親し気な二人だ。そんな会話をしているうちに、さざ波が打ち寄せる音と潮の香りが漂う船着き場に着いた。桟橋の奥には、大きな蒸気船の影が浮かぶ。


 すると、それまでピクリとも動かなかったオトがわずかに身じろぎした。

 もう指先一本動かす気力もない。無音の世界で叫びすぎた喉は乾いて血が滲み、身体は鉛のように重い。なのに、この心地良い温もりは何だろう。気力を尽くしてうっすらとまぶたを開ける。


 ぼやけた視界に揺らめくのは、月光を浴びて内側からきらめく白金。それに真っ直ぐな群青アズライトの瞳。カージュには咲いていないツツジの香りを感じる。


「どう、して……?」


 とうとう都合の良い幻覚でも見ているのかと思った。どれだけ泣いて叫んでも誰も助けてくれない世界に魂が囚われて、おかしくなってしまったのかと。だって、ずっと願っていたから。期待しないと自分に言い聞かせたくせに、音にならない声でずっと叫んでいたから。


「会いに行くって約束したろ? ……遅くなって、悪かった」


 残された羽耳へ直接吹き込まれた言葉に、安堵の涙があふれる。




 大陸の男がこじ開けた堅牢な籠から、愛を知らない片羽の鳥が放たれた。

 これからオトは少しずつ外の世界を知り、やがて安寧と幸福の中で愛を歌う。悪夢に包まれたクレセンティアを変える、愛の歌を。




【第一章 籠の鳥 ≪終≫】

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