肆
「そもそも『皇帝一族が一同に介する私的な宴』って何なのよ? 後宮の住人がそんなに仲良しこよしなわけないでしょ?」
「話が早くて助かるぜ、
「まぁ、私も宮廷に仕えてるわけだし。皇帝周りの話やらお貴族様関連の話は、嫌でも頭に入れてなきゃいけない部分もあるのよ、これでもね」
宴の会場には、普段使われていない殿舎が利用されるのだという。
その殿舎に向かって歩を進めながら、
「そ。普段互いに弱点を突き合い、引きずり落とし合い、あわよくば相手を殺してしまいたいとさえ思っている後宮の住人達が、一同に介する機会をわざわざ設けるようなことはそうそうない。ただ例外が一年に一回だけある」
「例外?」
「第五公妃の生誕祝賀会だよ」
現在の後宮には正室である后が一人と、公妃と呼ばれる
その後宮の中で産まれた子供は、現状確認されているだけで二十三人。太子に据えられているのは后が産んだ第二皇子で、早くに産まれた子らの何人かはすでに成人を迎えている。独立や婚儀で後宮を出た者もおり、現状後宮で暮らしている皇子、公主は、太子を含めて八人程度だという。
「大半が後宮を出たってこと?」
「生きて出た人間もいれば、生きてる間は出られなかった人間もいる。死んだことにされて出された人間も、もしかしたらいるのかもな」
「よく聞く話とはいえ、闇が深すぎるのよね」
「ほんっと、それな」
第五公妃・
「この第五公妃、いくつになっても精神が幼いというか、まぁ大層な構ってちゃんでな。毎年自分の誕生日には、自分の派閥の貴族達から貢がれてくる献上品を見せびらかしたくて、後宮の女達や皇帝を招いて派手に祝宴を開くんだ」
「そんな警戒心の薄い派手好きが、よくもまぁ今まで無事に生きてこれたわね」
「まぁ、今までは単に運が良かっただけだろ。招待を受けた全員が全員、その招きを受けてたわけじゃなかったらしいし」
だが今年は何の因果か、后と妃を含めた後宮の有力者達と皇帝、全員がその宴に集結することになったのだという。
貴族における宴という場は、ただ単に美食や会談を楽しむだけの場ではない。情報収集や密談、出席者の品定めをする場であり、そこには常以上の権謀術数が入り乱れる。
そして宴という場は、普段表に出てこない人間を引きずり出すにも打って付けだ。呪術師に言わせれば、相手を呪い落とすのに絶好の場でもある。その場で呪い殺すにしても、後々効果を現すように呪詛を仕込むにしても、宴の場ほどの好機に恵まれる機会は他にない。
「もちろん俺も、宴の日程が決まってからずっと後宮内の陰の気の巡りには注視してたし、いつも以上に修祓にも励んだ。結界の補強をしたり、他にもまぁ色々仕込んだ」
そもそも隠密呪術師は後宮と王城を守護する術者ではあるが、それは『皇帝一族を守る』という意味での守護範囲だ。後宮と王城という『土地』を守るという役目は明仙連の術者達も担っている。明仙連が後宮や王城を呪術的に守っている状況で、さらに皇帝一族という『ヒト』に焦点を絞って守りを固めているのが隠密呪術師であるらしい。
つまり元々王城と後宮には、明仙連が敷いた防備と浄化の結界が生きている。その上で隠密呪術師がヒトに対して祓いを行えば、余程のことがなければ後宮といえども陰の気が溢れることはない。
……はずだった。
「だがどーゆーわけだが、そのゴリッゴリに固めた守りで浄化しきれる以上の陰の気が、ここ最近の後宮にゃ蔓延しててな」
「あんたが後手に回ってるってことは、原因は不明ってことね」
「あぁ。陰の気が凝り始めた時期が宴の開催日の決定後だから、仕込んでる『誰か』が宴の日に何かがしたくて暗躍してるってことだけは予想できてんだけどな」
あらゆる手を打って片っ端から陰の気を浄化して回った涼だったが、ひと月前……つまり紅珠を呼びつける数日前、ついに『これは一人では無理だ』と白旗を挙げた。
このままでは宴の日に死人が出る。そう危惧した涼は、『隠密呪術師の任務に唯一巻き込むことを許される后』、『
「状況的に一番ありそうなのは、第五公妃に恨みを持つ人間が、第五公妃をどうにかしたくて暗躍してるって所だけども」
「第五公妃と仲が悪いとなると、第三公妃だな。何かとソリが合わないって話だ。けどまぁ」
「それにかこつけて全然関係ない人間が全然関係ない人間に危害を加えようとしてるって場合もあるし、何とも言えないわよね」
「そうなんだよなぁー」
後宮という場所は、置かれた状況が特殊で、飛び交う権謀も感情も複雑に
──そりゃあこんな空気がドロッドロな場所に閉じ込められてたら、気を病むのも当たり前よね。
歩む足を止めないまま、紅珠はスッと周囲を流し見る。
後宮の中は、何んてことない通路周りでさえ隙なく整えられた美しい空間だった。風格のある殿舎と、瑞々しい花々が咲き誇る庭。ここが閉ざされた空間でなければ、散歩するだけで目を楽しませてもらえることだろう。
だがそこに漂う空気は最悪だ。紅珠の目には凝った陰の気……もはや
「あんたがさっさとここを出てった理由がよく分かったわ」
「表に近い方はまだマシだ。奥はもっとスゲェぞ」
「嘘でしょ……」
その最奥に住んでいるのは本当に人間なのだろうか。もしかして妖怪の類ではないかと紅珠は顔をしかめる。
それからふと、あることに気付いた。
──涼のお母様って、まだここにいるのかしら?
皇子や皇女は長ずれば独立して後宮から出されるが、一度でも皇帝の御手付きとなった女性は余程のことがない限り生涯を後宮で過ごさなければならないと聞いている。
涼は己の事情を伏せていたから当然と言えば当然なのだが、紅珠は涼から家族の話を聞いたことがない。後宮の話題がこれほど出ていて、実際に後宮に足を踏み入れてもいるのに、紅珠はいまだに涼の生い立ちを聞いていないことに気付いた。
──あんまり突っ込まれたくはないはずよね?
必要であるならば、涼は自らそのことを口にしたはずだ。今時点で話題に上がらないということは、そこに紅珠が必要とする情報はないということだろう。
皇帝一族に対する涼の話しぶりを聞いていれば、涼と同族達の関係が良好でないことは何となく察することができる。ならば不用意な傷をつけないためにも、紅珠が自らその領域に足を突っ込む必要性はないだろう。
紅珠は緩く首を振って胸中に湧いた疑問を脇へどけると、意識を今集中すべきことに引き戻した。
「会場の下見のついでに、帰りに軽く修祓もやっとく?」
「んー、下手にここで手を出すよりも、宴当日のために体力を温存しといた方がいいかもしんねぇな」
「あんたがそう言うなら、そうするわ」
「おーよ。……さて、ここだ」
軽い口調で答えながら、涼は木陰に身を隠すように足を止めた。そんな涼の動きにならい、紅珠も足を止める。
涼の視線の先にあるのは、こぢんまりとした殿舎だった。『こぢんまり』と言いつつも、ただの宴の会場にしては十分に広い。すでに貴人を招き入れられるように調度が入れられていて、庭に面した扉が開け放たれた大広間の中では会場準備に追われる女官や
「……ここ、普段は無人なんだっけ?」
「あぁ」
「ということは、仕込みたい放題ね」
「だな」
殿舎を見据えた自分の目が険を帯びて
──私だったらこんな場所で開かれる宴、何が何でも欠席したいけど。
重ねた年月が威厳と優美さを醸造している殿舎は、確かに美しい。
今が盛りと咲き誇る庭先の牡丹。風が柔らかく吹き渡る池を優雅に鯉が泳ぐ様は、きっとあの大広間からも十分に眺めることができるのだろう。開け放たれた扉の代わりに窓辺に吊るされた紅の薄絹は風を受けて幻想的に揺れ、その光景を見ただけで芳しい香りがすでに殿舎を満たしているような心地さえする。
ただし紅珠の目にはそれ以上にドロドロと濁った空気が殿舎の中から漏れ出ているのが見えていた。中を立ち回る人間の姿が瘴気に巻かれてよく見えない。こんなに一目見て『絶対に何かある』と分かる現場に行き合うのは紅珠でも初めてだ。
「絶対に何か仕込まれてるじゃない。見つけられなかったの?」
「ここまでの規模になっちまったのは、ここ数日のことだ。調査をしたいのは山々なんだが……」
「おや、
『あんたほどの呪術師が、こんなになるまで手を打てないだなんて何事?』という意味を込めた問いに、涼は歯切れ悪く答える。
だがその言葉は途中で飛んできた
──何だか、歩くより転がった方が早そうな肉ダルマね。
灰色の袍に身を包んでいるということは恐らく宦官で、ジャラジャラと揺れる佩玉からして恐らく高官なのだろうが、それらの情報が霞んでしまうくらい登場した人物は遠目に見ても丸々としていた。背が低く、首と手足が短くずんぐりむっくりしているせいで、手足が生えた起き上がりこぼし歩いているようにしか見えない。
「ウゲッ」
しげしげと紅珠は登場した第三者を観察する。だが涼はそんな呑気な心境ではいられなかったらしい。
「よりにもよって
──なるほど、敵ね?
チラリと涼を見上げると、こぼされる声とは裏腹に涼はにこやかな笑みを浮かべていた。『李陵』として取り繕われた表情を見、
「いやはや、本日もお見回りですか! いやぁ、精が出ますなぁ!」
フゥフゥと荒い息をつき、額に浮かんだ汗を
──あ。私、こういう
「せっかく女連れでいらっしゃるのですから、このような場所に足をお運びにならずともよろしいでしょうに。もしくはこのような場所こそ、お好きなのですかな?」
ムフフ、と続いた言葉に、鉄壁の笑顔を貼り付けた涼が唇の端を引き
「陳珪殿は、本日も祝宴準備の総指揮役ですか。準備は順調ですか?」
流石は隠密呪術師と言うべきか、若干表情が引き攣れていても紡がれた声音は自然で滑らかだった。自分だけだったらこんな自然な対応ができただろうかと、紅珠は表情に出さないように気を付けながら己を
そんな紅珠と涼の内心をどこまで把握できているのか、陳珪と呼ばれた宦官はもう一度ハンッと小馬鹿にしたような息をついた。
「第五公妃様の覚えもめでたい、この陳珪が総指揮を勤めているのです。滞りなど、ええ、万が一にもございませんよ。卑しい産まれのあなたがしゃしゃり出てくる必要性など、一切ございません」
──は?
言い放たれた言葉に、紅珠は思わず顔から表情を消した。
呪術師的に言わせてもらえば滞りしかない現場であるというのもあるが、何より今の発言は宦官ごときが皇子に対して口にしていい言葉ではない。口調といい、不遜な態度といい、いくら『第五公妃様の覚えもめでたい』という自認があろうとも、一宦官が皇子に向けるには不敬にも程がある。
「左様ですか。それは良いことで」
だが涼はそのことを言及しなかった。むしろ陳珪の言葉を受けた後の方が先程よりもよほど自然な笑みを浮かべている。
「しかし、念には念を入れた方が安全でしょう。先日からお願いしている通り、一度現場を確認させていただいた方が……」
「邪魔立ては無用であると申しておる!」
さり気なく紅珠を背中に庇いながら、涼は穏やかに陳珪に語りかける。
だがそこに叩きつけられたのは、見かけだけの丁寧ささえかなぐり捨てた金切り声だった。
「お前のような者にウロチョロされて、何か仕込まれては困るのだ!
「ちょっと……!!」
カチンッと頭の中で音がしたような気がした。
あまりの物言いに紅珠は反射的に涼を押しのけて前へ出ようとする。だが涼は体躯の差を利用して逆に紅珠を押し止めると、変わることなく穏やかな笑みを浮かべたまま小さく陳珪に一礼した。
「これは失礼を。余計な気を回したようです。私はこれにて失礼させていただきましょう」
「!? りょ……」
まさかこのまま退却する気か、と気色ばむ紅珠に有無を言わせず、紅珠の手を取った涼はさっさとその場を後にする。一瞬、抵抗してでもあの起き上がりこぼしに一撃入れてやろうかとも思ったが、体を寄せた涼が低く『行くぞ』と囁いた瞬間、紅珠の体は涼の動きに従っていた。速い歩みに従って歩きながらチラリと背後を振り返れば、陳珪がまたハンッと小馬鹿にした息をついたのが表情だけで分かる。
「っ……!」
「相手にすんな。馬鹿らしい」
殿舎の浄化ついでに雷撃の一発でも御見舞してやろうかと思ったが、キュッと紅珠の手首を取った涼の手に力が籠もる方が早かった。その力と発言に不満を込めて涼を見上げれば、前だけを見据えた涼の横顔が目に飛び込んでくる。
「俺の母親はな、身寄りがなくて後宮に売られるように連れてこられた洗濯女だったんだ。まぁ、端女の中でも地位は最底辺って感じだな」
その横顔に一言物申してやろうと口を開いた瞬間、涼の方が一足早く言葉を紡いだ。唐突に明かされた事情にどう反応したらいいのか分からず、紅珠はそのまま口を閉じる。
「血迷った皇帝に強姦同然で手をつけられて、一夜孕みだったんだとよ。災難だよな、俺の母親も」
「え……」
「そのまま消されていてもおかしくなかった俺が第三皇子として認知されたのは、……まぁ産まれた順番が早かったからってのもあるんだが、皇帝の手がついてから母親が呪術師としての才を持ち合わせていたことが発覚したってのもあったんだ。当時の後宮には他に将来の隠密呪術師を産めそうな女がいなかったらしくて、だから俺の母親は妊娠が発覚した時点で厳重に囲われた」
「あ、の。今、涼のお母様は……」
「とうの昔に死んでるよ。物心ついた頃には死んでた」
だから俺は、母親の仕事仲間達に育てられたんだ、と涼は続けた。それから紅珠へチラリと視線を向けた涼は、前を見たままフワリと柔らかな笑みを顔中に広げる。
「そんな顔すんなって。俺にとっちゃどーでもいい話だよ」
「っ……! 私にとっちゃ、どーでもいい話じゃないわよっ!」
やっぱり、踏み込んではいけない話題だった。紅珠の勘は正しかった。
その領域を、涼のことをよくも知らない人間に土足で踏み荒らされるような真似をされたことが許せない。腹が立つ。
だが同時にそんな風に腹を立てている自分だって、涼のことを何も知らないのだと思い知らされる。
「あんな酷いこと言うやつらを、涼は独りで守ってやってたってことなのっ!? どーせあいつがあんなこと言うってことは、
貴族社会というものは、出自が何より物を言う。後宮などという毒の
そんな中、最底辺とも言える地位の母から産まれ、その母さえ幼くして亡くした涼がどんな扱いを受けてきたかなど、火を見るよりも明らかだった。
「守んなくてもいいじゃないっ!! あんなやつら、呪われようが殺されようが自業自得よっ!!」
今でも涼は、そんな世界の中で生きている。
自分を馬鹿にして、ただそこにいるだけで踏み潰そうとしてくる人間しかいない中、そんな人間達を独りで守れと押し付けられて、囲われて。
それでも課された任を果たすべく、身を削って戦っている。
「何であんたがこんな目に遭わなきゃなんないのよ……っ!!」
悔しかった。
大切な好敵手が、かつての無二の相方とも言える相手が、大切にされない場所に置かれているのが。そんな状況を知らずにのうのうと過ごしてきた自分が。独りで苦しんでいたくせに、呼んでもらえなかったことが。
胸の内がグシャグシャになってうまく言葉が出てきてくれないくらいに、悔しかった。
「……ほーら、やっぱお前、そんな風に泣くんじゃん」
不意に、進んでいた足が止まった。急な停止に反応できなかった紅珠は、立ちふさがった涼の胸に思いっきりぶつかる。
「泣かせたくなかったからさぁ、呼ぶのためらってたんじゃんね?」
思いっきり額をぶつけた衝撃に息を飲むとズビッと鼻が鳴った。その拍子に今まで何とか抑え込んでいた嗚咽が喉から飛び出る。息が引き攣れるのを自覚した瞬間、こらえきれなくなった涙が頬を伝っていた。
そんな紅珠の顔を世界から隠すかのように、涼は袂を広げた腕で紅珠を深く懐に抱き込む。
「世界中で誰が俺を馬鹿にしてもさ、お前だけはそうやって泣いてくれるって、信じてた」
「……っ、分かってたなら! もっとさっさと泣かせに来い! バカッ!!」
その腕の温もりに甘えるように、紅珠はギュッと涼の衣を掴んだ。紅珠が人に泣き顔を見られることを嫌っていると知っている涼は、さらに紅珠を抱き込む腕に力を込める。それが『衣の一枚や二枚くらい、お前の手巾代わりにくれてやる』という意思表示だと知っている紅珠は、化粧が崩れることも涼の衣が汚れることも
「『武侠仙女』とも呼ばれる腕利き呪術師がさー、『守んなくてもいい』とか『自業自得』とかさー、言っちゃダメだろー?」
そんな紅珠を
「俺達呪術師は、闇から民を守る者。悪いのは意図的に陰を発生させ、人を狙おうとする輩で、その脅威にさらされる立場の人間を、俺達は等しく守らなきゃいけない」
守る人間を選り好みするようになれば、その『選択』という行為そのものから陰が生まれる。
救う手立てを持つ者が意図的に救いの手を外すことは、呪いを増長させる行為と同義。呪術師は呪詛に対抗するために呪詛の施し方も学ぶ。救う者は呪う者以上に呪いに精通していなければならないから。
だから涼も紅珠も、呪詛を成そうとすれば成せるのだ。涼を
だがそれを、二人はどれだけ腹が立っても、実行はしない。
なぜならば二人は、己の技量と在り方に矜持を持った、誇り高き呪術師であるのだから。
「俺の唯一無二の相方は、誰よりも誇り高き呪術師だ。誰よりも高い矜持と確かな腕前を持つ、最高の呪術師。そうだろ?」
「……そうよ」
涼の言葉は不思議だ。普段はチャランポランな癖して、いざという時はどんな呪歌よりも確実に紅珠の心を鎮めてみせる。
涼が紅珠の心に染み込ませるように紡ぐ言葉を聞いている間に、溢れ出る涙は止まっていた。涼の胸から顔を離した紅珠は、手の甲でグイグイと目元を拭ってから顔を上げる。
「だから、私、あんなやつらに、これ以上あんたを踏みにじらせたり、しないから」
きっと今の紅珠の顔は不細工この上ない状態だろう。それでも紅珠は決意とともにキッと涼を睨み上げた。
「あんた自身にだって、あんたを
その言葉に涼は言葉では答えなかった。
ただ満足そうに笑い、紅珠の体に回していた腕を解く。
「あんたが後手後手に回ってる理由は分かった。手を打とうとしても、関係者が邪魔をするから動けないってことね」
自ら一歩後ろに下がって距離を取った紅珠は、両手を腰に当てながら歩みを再開させた。向かう先は外へと繋がる通用門である。調査ができないならば、こんな不愉快な場所に留まっている理由など一寸たりとも存在しない。
「そーゆーこったな。今日は陳珪が席を外すって聞いてたからもしかしてって思ってたんだが、あっさり目論見が外れたし」
「もう当日に賭けるしかないってことね」
あそこまで陰の気が凝っていて、かつ陰が強まりだしたのが宴の日程が決まった直後だということは、当日何事も起こらずに済むという可能性は限りなく低いだろう。当日は渦巻く陰謀が成就するのを阻止し、さらについでにあの瘴気も根こそぎ浄化してしまうことが望ましい。
「ね、涼。当日は派手に暴れてもいいの?」
門が見えてきた辺りで、紅珠は一度足を止めると涼を見上げた。勇ましく仁王立ちした紅珠に対し、涼は腕を組むと片眉を器用に跳ね上げる。
「と、言いますと?」
「私達の務めは『皇帝一族を呪術的に守護すること』でしょ? 宴の成功の可否は私達が負うべきとこじゃないわよね?」
紅珠が何を目論んでいるのか、涼にはその言葉だけで分かったのだろう。合点がいった表情を見せた涼は、
そんな涼に紅珠はニッと笑いかける。『武侠仙女』の呼び名に相応しい、実に勇ましい笑みを。
「今まで涼の仕事を散々っぱら邪魔しやがった人間が一同に介するわけでしょ? そのツケ、宴の日に払ってもらおうじゃない」
「いんじゃね?」
「決まりね。さっさと帰って作戦会議しましょ。必要な道具の準備もあるし」
「りょーかい!」
軽やかに合意を交わした二人は、言葉以上に軽やかな歩調で通用門に向かって足を進めた。
周囲には行きと変わらず薄く陰の気が漂っていたが、紅珠はもうその空気さえ気にすることをやめていた。
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