ドアの向こう側

平山芙蓉

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 俯いた視界には、自分の身体と、緑色の地面があった。風が吹くと、さらさらと音が響く。緑色のそれは、僕の膝まである背の高い草だった。


 頭を擡げてみても、目に見える範囲のほとんどが、そんな草で覆われている。どうやらここは、草原のようだ。


 何故、こんなところにいるのかは知らない。そもそも、どうやって来たのかも。


 周囲を見回して、状況を確かめてみようと思った。でも、ここが草原であり、何も遮るものはないという、見たままの状況しか把握できない。空を仰いでも、雲一つなく蒼いという意外、視線を止めてくれるものはなかった。鳥もいなければ、飛行機だって飛んでいないのだ。それどころか、不思議なことに、太陽の姿だって見当たらない。


 そんな風に、たった二色だけの広大で、穏やかな風景。観光紹介サイトにでも載っていれば、すぐ話題になりそうな場所だった。だけど、そこにたった独りきりでいる事実で、僕は暗澹たる不安を覚えてしまう。


 草を踏みながら、歩いてみた。前だけに目を遣っていると、焦点がすぐに合わなくなる。だから、僕は少し先の草を頼りに辿って、前へ進んだ。それでも、真っ直ぐに歩けているのか、歩けていないのかは判然としない。


 歩いても歩いても、変わらない風景。


 地平線は、何かを隠したがる子どもみたいに、その先を見せてくれないし、においも草の香だけで、変化がなかった。せめて、動物でもいてくれれば、追うなり逃げるなりで、何かしらの目標を作れるというのに、そんな気配さえない。幸いと言うべきなのは、太陽が出ていない分、過酷ではない点だろうか。こんな遮るもののないところで、日差しに中てられ続けたら、すぐに乾涸びてしまうだろう。でも、そんなラッキーは、プリンの上のさくらんぼと同じで、ちょっと得した程度の気休めだ。


 一体、どこまで続いているのか。


 言い聞かせるように溜息を吐いて、その場で足を止めた。疲れてはいない。元より、歩くことは得意な方だから、このくらいで足も痛まない。もっとも、自分が初めに立っていたところも今では分からないから、どのくらい歩いたなんて見当も付かないのだけれど。


 百八十度回って、自分の歩いてきた箇所を見遣る。目印代わりに、しっかりと草を踏んだはずなのに、跡は一つも残っていない。屈強な草たちだ。


 足元の草から、その先の草。更にそのまま地平線へと繋がり、最後には空へ。


 そうやって、視線は辿られていく。


 ……そのはずだった。


 代わり映えしなかった景色の中で初めて、焦点が定まる。


 最初は、見間違いかと思った。延々と変化のない景色ばかりで、僕の頭が遂に、狂ってしまったのだと。だから、何度も目を擦ったり、細めて集中させたりした。でも、違う。間違いではない。


 僕の目は、風を受けてはためく、白と黒の布を捉えた。棒か、あるいは木のようなモノに引っかかっているみたいだ。僕が周辺を見渡した時には、目に入らなかったのに。それとも、単純に僕が見落としていただけだろうか。


 僕はその布をもっと近くで見たくて、寄って行く。今はまだ遠くて、輪郭は曖昧だ。ただ、ありがたいことに、先ほどまでサボタージュを極めていた距離感が、仕事を果たそうとしてくれていた。


 亡、と伸びている影が、一回り大きくなった頃。


 僕はそいつの正体に気付く。


 それは、人だった。


 白く揺れていた布はワンピースのスカートで、黒い方は腰まである長い髪だ。


 後ろ姿だけで判断する限り、性別は女性だろう。背丈は低い。全身は服で包まれているみたいだから、身体の線までははっきりとしない。けれど、僕よりも歳下で、少女くらいの子ではないか、と想像できる。


 歩くスピードが自然と速くなり、意識しないうちに、僕は駆け出していた。


「おーい!」


 ここにきて、初めて大きな声を上げて彼女を呼んだ。こちらに振り向いてもいないのに、手を振ったりしながら。でも、声は全く反響せず、下手くそに作った紙飛行機みたいに、短く落ちてしまう。何度か繰り返してみても、それは同じだった。周りに反響させるものが、なさすぎるせいかもしれない。


 それでも、距離はどんどんと詰まっていく。だから諦めずに、何度も大きな声で、彼女を呼んだ。だけど、一向に気付いてくれる素振りはなくて、ずっと僕に背中を見せたままだった。


 そうして、遂に僕は腕を伸ばすと、彼女に触れられる距離にまで迫ったところで、立ち止まる。膝に手を付いてしまうくらいに、息が上がっていた。全身が重い。今まで快適だとさえ思えていた状態が、まるで嘘みたいだ。


 そんな不審な人間が背後にいるというのに、彼女はまだ、何の反応もしてくれない。よくできた案山子だったのか、と疑いそうになるくらいに。でも、幽かだけど、肩が上下に動いているから、生きている人間であることは間違いないだろう。何より、靡いた髪の隙間から見える肌が、無機物とは違う柔らかさを醸し出していた。


 埒が明きそうにない。だから、手を伸ばして肩を叩いたり、無理矢理にこちらを振り向かせたりしようか、とも考えた。もしかしたら、身体のどこかが悪くて、僕の存在に気付けない、なんて可能性も充分にあったからだ。それに、そうしなければ、何も始まらない。可能性を頭の中で捏ね繰り回すのは、ただの逃避的な妄想と同じだと、分かっている。


 でも、何故だろう……。


 彼女に触れようと腕を伸ばしても、その肩に手が触れる直前に、引っ込めてしまう。まるで、同極の磁石が反発し合うかのように。それどころか、触れてはならないのだ、と僕の考えを真っ向から否定する強い意思さえ、どこからか湧いていた。

 しばらくそうしていると、彼女の肩の向こう側に広がる、背の高い草の群がる中で、何かが動いた。僕は少し横にズレて、そちらへ目を遣る。


 そこには、シルクハットを被った一羽の兎の姿があった。


 僕は彼女がいることも忘れて、奇妙な兎に目を奪われてしまった。ハットの色は黒く、毛並みは白く、傍らにいる少女と、示し合わせたかのように似た色合いだ。兎は頻りに首を動かし、辺りを警戒している様子だった。動物らしい、小刻みな停止の挟まった仕草だけど、帽子は頭から全く落ちない。顎紐でも付けているのか、とも思ったけれど、そういったモノは見えなかった。器用なのか、あるいは、接着剤か何かでくっ付けられているのか。どちらにしても、そうやって頭に乗っているモノが、気になっていないみたいだ。


「あっ……」


 奇妙な兎は、何の予備動作もなく、急にぴょんぴょんと、遠くへ跳ねていった。

 それがキッカケだったのか、少女が追いかけるように駆けていく。


 呼び止めようとしたけれど、もちろんそんな隙はなかった。まだこの場所については謎だらけで、何も聞けていない。この機を逃せば、もう二度と、人には会えないだろう。そんな危機感から、身体に鞭を打って、彼女の背中を追いかけた。


 一体、どうして、こんなことになったのか。どうして、こんな目に遭わなければならないのか。


 走りながら、そんな問がいくつも浮かんだ。


 分からない。


 思い当たる節だってない。


 誰かに踊らされている?


 それとも、


 誰かにそう動くよう、支配されている?


 何にしても、ただの理不尽だ。


 一刻も早く、何かしらの手懸りを見付けて、抜け出してやる。


 だってこんなモノは、ただの理不尽じゃないか。


 そう心の中で訴えかけてみたけれど、状況は変わらない。


 脚が重くなり、呼吸が苦しくなるだけ。


 自分より下であろう少女にも、情けないことに追い付けないまま……。


 どのくらい走っただろう。声も出せないくらい息も絶え絶えになりながら、ようやく僕は彼女に近付けた。もっともそれも、少女が止まってくれた結果でしかないのだけれど。時間にしてみたら一分か、もっと短かったかもしれない。けれど、体感では十分以上は走った気分だ。彼女は僕と違って、穏やかな呼吸をしている。意外にも体力はあるらしい。それとも、若いからだろうか。


 少女はやっぱり、僕のことなんて一切、眼中にない様子だった。彼女はその場に屈んで、地面を覗き込んでいる。声をかけようか、なんて考えたけど、どうせ届かない、とすぐに霧散してしまった。


 仕方なく、僕は彼女が向けた顔の先を、その背後からそっと覗いた。


 そこには、一つの穴があった。周りには草が伸びていて、穴は隠れるような形になっている。かなり大きい。大人でも、難なく収まるサイズの穴だ。底は暗く、どこまで続いているのか分からない。少女はじっと、その穴を覗き続けていた。


 そういえば、さっきまで彼女が追いかけていた兎の姿が見当たらない。もしかして、この穴に落ちてしまったのだろうか? 周囲から穴は隠れているし、うっかりしていたのなら、有り得る話だ。だとしたら、無事では済まないだろう。虫でもなければ、簡単に死んでしまう深さだ。現に、鳴き声でさえ聞こえてこない。


 少女が立ち上がる。彼女はまだ、穴を見下ろしていた。亡っと。


 まさか……。


「ちょっと待って、君!」


 嫌な考えが頭を過ったと同時に、


 それは実現されてしまう。


 ふわりと浮かんだスカートの裾と、黒い髪の影が混じり、穴へと吸い込まれた。


 瞬きの間の出来事。


 声は最後まで届かなかった。


「どうして……」


 再び独り、取り残された草原の上で、届かないと知りながらも、声を絞り出していた。膝から自然と崩れ落ちてしまう。四つん這いの体勢のまま、穴へ近寄り、そこを覗く。こうして眼前にしてみると、大きさも深さも、少女越しに観察した時より、不安な印象を抱いた。


 想像してみる。


 何故、彼女が穴へ入ろうと決意したのかを。


 何故、彼女が恐れもなく身体を投げ入れられたのかを。


 穴へ落ちた兎に、同情したからか?


 例えば、そう……、孤独に死んでしまうのは、寂しいから、とか。


 なら、それは、やらなければならないことだったのか?


 命を賭してでも、やらなければならなかったのか?


 万が一、彼女か兎の一方、もしくは両方が生きていたとしても、この底知れない深さの穴から、出られないことは明白だ。そんなこと、好奇心の強い子どもでも、少し考えたら分かる。


 得体の知れない焦燥感が、身を襲う。


 心のどこかで、助けに行かなければならないなんて、誰かが叫んでいる。


 でも、どうやって?


 僕独りで、何ができる?


 そうだ……。


 何もできない。


 僕は傍観者だ。


 何かを変えようとして、


 何かを救おうとして、


 文字通りに命を穴へ落とした彼女とは違って、


 そんな勇気を持ち合わせていない。


 命の重さを知ってしまって、


 時間の価値を味わってしまって、


 自分はそこで生きていくことの尊さを、


 大事に抱き締めているだけ。


 腑抜けもいいところだ。


「そうさ。僕は何も……、変えられないんだ」


 立ち上がる。


 風に靡く草の音へ、耳を傾ける。


 芳しい、自然の香。


 終わってしまった。


 結局、何もかもが分からず仕舞い。


 僕をここへ遣った奴の目的も、


 少女が僕を無視していた理由も。


 でも、全部どうだって良かった。


 目を閉じて、深く息を吸う。


 肺の痛み。


 横隔膜の膨らむ感覚。


 風が弱まる。


 暑さが引いていく。


 けれど、草の擦れる音だけは、絶えず鼓膜を揺らして、


 脳裏には、草原のイメージが浮かんだ。


 瞼の裏に光はない。


 影だけが僕の中に。


 崩壊。


 喪失。


 虚ろ。


 言葉を羅列しても、今の感情にはピッタリこない。


 そもそも僕に、そんなモノを決める権利が、あるわけがなかった。


 ただ僕は、この風景の中にいるだけ。


 そうやって生きていくしかないんだ。


 何もないまま。


 何も持てないまま。


 名前の意味も、果たせないまま。


 そうして、再び目を開いた時、


 目の前には玄関のドアがあった。


 毎朝、嫌でも触れる、自宅のドア。見紛うことのない、よく知ったドア。


 左手は、ずっしりと重たいビジネスバッグを提げている。髪も整えてあり、よれているけれどスーツだって着込んでいる。


 振り返ると、何の変りもない自室の様相があった。あのだだっ広い草原なんて、比にならないくらい、狭くて汚い部屋。窓の外からは、柔らかい光が差し込んでいた。


 混乱する頭の中で、僕は自分のことを思い出す。


 そうだ。


 いつも通りに会社へ行こうとしていたのだ。いつも通りに起きて、いつも通りに用意をした。嫌な会社でも、行かなければ生きていけない。そもそも、僕には転職できるような資格だってないのだから。そんな憂鬱な気持ちを振り払うように、いざ出社しようとドアの前に立って……。


 そこから先は、全く思い出せない。まるで、ページを一枚丸々、破り捨ててしまったかのように。だとしたら、あの草原の光景は、夢か幻覚の類だったのか。でも、それにしては妙な現実感があった。


 それよりも……。


 手首に着けた腕時計を確認する。もう家を出なければ、間に合わない時刻だ。


 ドアノブを見つめる。


 早く出なければならない。


 頭ではそう理解できていても、


 身体は動いてくれない。


 もしもこのまま、動かないままなら。


 動かないまま、一日が終わるとしたら。


 何かが変わるだろうか?


 何かを変えられるだろうか?


 ほんの少し、


 暗い穴へ飛び込む勇気を持てたら……。


 さあ、どうする……。


 ドアノブが僕を見つめ返す。


 時計が秒針を刻む音が、微かに聞こえてくる。


 どうする、どうする、と。


 脈が速まり、口の中が乾いていく。


 そして、膨れ上がった逡巡は遂に破裂して、


 僕はドアノブに手を伸ばして、勢い良く開けた。


 九月の穏やかな風が、肌を這う。


 昨日の雨の香が、蒸れた空気の中に忍び込んでいる。


 空は太陽の光で、僅かに白んでいて、雲もいくつか浮かんでいた。


 これが現実だ。


 生活という足枷と、


 時間という縄に縛られた、


 哀れな生命を終わらせないためには、


 波を立てず、


 風を吹かさずに、


 与えられた何かを全うするしかないのだ。


 そう……。


 彼女のようにはいかない。


 彼女のように、穴へ飛び込むわけには……。

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ドアの向こう側 平山芙蓉 @huyou_hirayama

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