王冠の棘

ミド

王冠の棘

 コンスタンティン・カンタクジノはマドリードの酒場で独りグラスを傾けていた。彼にしては珍しく今日は連れもいないが、彼は独りでも酒と食事を楽しめる性分であるから物足りなさはない。一人酒の際にはしばよく聞こえてまう他人同士のやり取りに関しても、彼は感傷を抱くこと滅多にない。

 だが今夜は珍しく、ふと耳に入った会話が彼の胸をざわめかせた。彼の背後のテーブルで盛り上がっているのはドイツ人達だ。先の大戦中にどちらの陣営にも直接与しなかったスペインという国にあっては周囲には彼らに反感を持つ者もさほどいないらしく、安心して思い出話に花を咲かせている。

 その中でも一際、周囲からの歓声を集めている男がいた。カンタクジノには聞き覚えのある声だった。彼は振り向いて姿を確認した。間違いなく、ヘルムート・リップフェルトだ。ドイツ空軍のエースパイロットであり、カンタクジノにMe-109の操縦方法を伝授した男である。その顔を見たカンタクジノの頭には、直ぐにありしの日の記憶が蘇った。


 乗り物の操縦に関しては天賦の才と呼んでも差し支えない程の感性を持っていたカンタクジノは、リップフェルトから大まかな説明を受けた時点で当時のドイツの最新鋭の戦闘機の扱い方をある程度把握した。そして初めて触れるメッサーシュミットを難無く乗りこなし、ドイツ人たちを感嘆させたのだった。

 彼はまた、その後に起きた珍事件も思い返した。Me-109の操縦においては自分ほど地上に近づいて飛べる者はいないと豪語するリップフェルトに対し、たった今操縦を習い終えたばかりのイオン・ドブラン・ドブランが勝負を挑んだのだ。

 ドイツ人達が半笑いを浮かべ、ルーマニア人達は囃し立てる中、勝負の結果はドブランの勝利に終わった。彼は地面すれすれを、というよりも最早地面にプロペラをぶつけながら飛行し、それでもなお機体を損うこともなく奇跡的に無事に着陸したのだ。

 この無茶な操縦を見たリップフェルトは敗北を認めつつも帽子地面に叩きつけ、「ファキキール! ファキール!」と吐き捨てながらその場を後にした。「ファキール」とは中東やインドの苦行僧を指す単語であり、ドブランの操縦は低空飛行というよりも、もはや低空苦行だ、というわけである。

 あの頃は本当に楽しかった。そして、あれから十年と経過していないというのに、随分懐かしさを感じる。何もか変わってしまったのだ。


 第二次世界大戦終戦後、カンタクジノは元々勤めていたルーマニア国立航空会社に復帰したが、共産党への入党は固辞した。彼らの中枢にいたのは、国の為に反独工作に従事した古参の党員ではなく、ソ連から送られてきた傀儡であったためだ。その結果、政府の干渉により社内での待遇は厳しいものになった。

 仕事だけではない。新しい政府は彼から奪えるもの——祖父から受け継いだ土地と財産、彼の最大の宝物である個人所有の飛行機——を一通り奪い尽くした。彼の精神の支え、国の光のようであった若き国王ミハイ一世は国を追放された。多くの者がカンタクジノとの関りを絶った。追うわけにはいかないと彼にもわかっていた。半共産党分子であると見做されれば、彼らの生活も危うくなるのだ。

 今やカンタクジノには国王の後を追って自ら国を出て行くよりほかに、希望ある未来を得る手段は無かった。言うまでもなく、彼には大人しく共産主義者たちの為すがままににされる心算はない。

 ところが政府は彼をここまで追い詰めようとしておきながら、国外追放とはせず寧ろ脱走の機会を封じるために手を尽くした。彼らはカンタクジノが更に搾り取れる財産を隠し持っていると考えたのか、或いは旧体制において特権階級であった者達への見せしめとして困窮するままにしておく心算だったのかは定かではない。ともかく、会社も彼を国外に向かう飛行機には乗せようとしなかった。それ故に、彼は一日千秋の思いで耐えるほかなかった。

 そして漸く、イタリア行きの便を担当する機会が訪れた。というのも、国立航空会社の企業運営にまで干渉する共産党の委員に反発し、未来を外国に求めたパイロットは彼だけではなかったため、必然的に操縦可能な人員が不足し、会社は逃亡のリスクを承知の上でカンタクジノに操縦桿を握らせる他なかったのだ。

 カンタクジノも共産党員以外の同僚や上司を気の毒に思わないわけではなかったが、そのまま素直に帰国し苦難の日々を送る義理は何処にもなかった。躊躇わず辞表を一方的に送り付け、西欧を彷徨う長い旅に出た。幸い、実際彼にはまだ自由にできる預金があったし、先に亡命していた仲間や西側諸国の友人の手を借りることもできた。

 ついでに、戦争中は多少なりとも彼に頭を下げていた愛人のユダヤ人娘の様子も見に行った。迫害する者は消え自由の身になった彼女はすっかり自尊心を取り戻していた。今や彼女の方から曲がりなりにも恩人ではあるカンタクジノに対し手を差し伸べる気もあったようだが、そこは旧い大貴族の意地が彼に頭を下げさせなかった。

 ともかく、そうした放浪の末に、現在のカンタクジノはスペインに居を構え、戦争前のように曲芸飛行を披露して生計を立てている。


 さて、あまり祖国に背を向けた日の事を思い返していると喉がつかえるばかりだ。カンタクジノは席を立った。彼は人混みを割って、手を軽く上げてリップフェルトに声を掛けた。

「久しぶりだな、リップフェルト先生!」

 ドイツ人は目を丸くした。そして、数秒かけて目の前のカンタクジノを認識し、笑みを浮かべた。

「ああ、お互い生きて終戦を迎えられて何よりだね。プロエシュティ防衛戦以来だろう、実に久しぶりだよ。その……ええと、ブズ大尉。すまない、君のことはよく覚えているが、本名だけが思い出せないんだ」

 リップフェルトはそう言ってばつが悪そうに笑った。聴衆の一人が気を利かせて椅子を譲った。カンタクジノは礼を言って腰を下ろした。間近で見るリップフェルトの顔は、思いの外歳を取ったように見えたが、それはお互い様かもしれない。

「それで構わないよ。一応コンスタティンという名もあるが、同じ名前は親類に幾らでもいて、本名で呼ばれると寧ろ自分だと認識できないからね。私は新聞の紙面に写真付きで載る時でさえ通称だった」

 リップフェルトはビールを口に含んで頷いた。どうやら合点がいった様子だ。

「そういえば、ティラスポリで初めて会った時にもそんなことを言っていたね。漸く思いだした。あの時教えた中では、君とファキールが一番印象に残っているんだよ。……そういえば、ファキールの本名も中々思い出せないな。何だったか、イオンなんとかヤンだったと思うんだけれど」

 カンタクジノもビールを注文した。そて穏やかな笑みと共に乾杯した。

「彼の名はイオン・ドブランだ。あの一件以来、我々の部隊のパイロットの間ではずっとファキールと呼ばれ続けたけれどね。そのファキールはまだ国に留まっているらしいが、今や手紙を送り合う事もできない」

 共にリップフェルトから指導を受けていた仲間のうち何人は戦死した。生き残った者達の多くは軍から追放された。カンタクジノは亡命したが、イオン・ドブランのように祖国を見限ることなくひっそりと暮らし続ける者もいる。他のパイロット仲間が今どうしているかを正確に知る手立てはないが、風の噂では、別の何人かは投獄の憂き目を見ることとなっているらしい。


「あれから実に色々あった。残念ながらお互い銃を向け合うことになってしまったが、こうして生きて再会できて嬉しいよ。恐らく君もそうだろう」

 リップフェルトの言葉は、一九四四年八月のクーデターにより樹立されたルーマニアの新政府が連合国に降伏し、同時にドイツに宣戦布告したことを指している。ルーマニアの国民にとってみれば、明確な負け戦を続ける親独政権が倒壊したのは喜ぶべきことであったが、当然ドイツ政府にはこの「裏切り」を認める道理はなかった。直ちに報復作戦が開始され、両国の戦闘機パロット達は真正面から敵対することになった。

 かつての仲間を攻撃することに抵抗感を持つ者は少なくなかったが、カンタクジノにはそういった感情は湧かなかった。彼に言わせれば、ドイツ軍が新政府を国王ごと潰すべく首都ブクレシュティを絨毯爆撃した時点で、彼らを敵と認識するには十分だったのだ。寧ろ、戦い甲斐のある獲物が目の前に現れたという高揚感さえ抱いていた。

 或いは、彼は只管に命を懸けて眼前の敵と戦っていたかっただけとも言えるかもしれない。地上を見れば、決して明るくない戦後の気配が常にあった。そもそもは国王ミハイ一世によるクーデターはソ連陸軍の侵攻による国土の荒廃を避ける為の行動であった。しかし首都を「解放」した赤軍は、市民を暴行し略奪の限りを尽くした。降伏文書への正式な調印後も、ソ連の政治将校は完全に引き揚げることはなく、居座って内政への干渉を始めた。開戦当初の目的であった旧国土奪還の戦いが始まったとはいうものの、このまま自分達の国が首都から乗っ取られてしまうのではないか。彼だけでなく数多くの兵士と指揮官は、そうした不安を抱えながら新たな戦場へと向かうほかなかった。

「そうだな。君たちは敵対した後も、何と言えばいいか……要は、我々があの政変後において唯一熱意を向けられる相手だった」

 カンタクジノは戦闘機に乗り戦い続けた。狙うはドイツ空軍最高の戦績を誇るエース中のエース、エーリヒ・ハルトマンである。彼やリップフェルトを含むドイツ空軍第五十二戦闘航空団はクーデターの直前までルーマニア空軍と共にプロエシュティを防衛しており、当然カンタクジノもその武名を何度も耳にしていた。

「それは光栄だよ」

 リップフェルトは機嫌のよい笑みを見せたが、ややあってその表情は固くなった。

「君たちも優秀だった。……と言いたいところだけれども、一つ、嫌な気分にさせられたことがあった。私が百八十機目を撃墜する少し前だから確か二月……そう、そうだ二月の二十五日のことだ。その日、スロヴァキア上空で戦っていた私は、敵機の中に君達ルーマニア空軍の国籍マークを見つけた」

 一九四五年二月二十五日。カンタクジノは目を見開いた。それは彼が戦闘機パイロットとして敵と交戦した最後の日であった。最後の戦いは実に苦い思い出となった。決して忘れてはならない記憶だという自覚もあり、また意図的に思い起こそうとしなくとも、繰り返し心に蘇ってくる出来事であった。彼は冷静になろうとビールを飲み干し、リップフェルトに言葉を返した。

「そうか。それで、我が軍のパイロットはどんな相手だった?」

「彼らは二機で組んでいた。私は眼前の敵がルーマニア空軍だと知った時、正直言ってわくわくしたんだよ。相手は二年前に自分が操縦方法を指導したパイロットかもれない。彼らが一体どれだけ学んだかテストしてやろうと思ってね。そうだ、言い忘れたが、今は祖国に戻って学校の教師をやっているんだよ」

「今度は子供に物を教える先生になったのか。実にお似合いだ、当時の我々も、君の授業には感謝していたよ」

 動揺を隠しながらカンタクジノがそう言うと、リップフェルトは酒の為か戦時中に時折見せたよりも更に陽気な調子で、大袈裟に指で空中をなぞる動きと振り向く仕草を取った。授業風景のつもりなだろう。

「生徒の面倒を見るのも、戦争ほどではないがまあ大変だね。偶にいるんだよ、まるでがファキールみたいなのが!」

「今でも手に負えない生徒を見ると、ああやって教室を飛び出しているのかい。『ファキール! ファキール!』」

 カンタクジノはハンカチを床に向けて振り下ろしながら言った。そして二人は声を上げて笑った。特にカンタクジノにとっては、もう二度と話のできる相手に会えるとは思っていなかった思い出話だ。

「話を戻そう、ルーマニア空軍のMe-109を見つけた私は期待と共に雲の上へと自分の機体を隠した。急降下して全力で挑んでやろうと思ったんだ。ところが、だよ」

 自分は、その勝負の結末を知っている——カンタクジノの心は震えた。

「私が姿を見せた時、二機は私のメッサーシュミットを認識したようだった。しかしね、彼らは命懸けで挑んでこようとはしなかったんだ。向こうから飛んできたのは生ぬるい機銃掃射だけだった。拍子抜けしたが、ともかく私は片一方に狙いを定め、仲間がもう一機を狙った。攻撃を始めて直ぐに、あろうことかルーマニア軍機は自陣営に向って降下し始めた」

 その通りだ。あの日の軍事作戦で、彼は可愛がっていた部下のトライアン・ドゥルジャン共々、ドイツ軍のメッサーシュミット二機にそれぞれ撃墜されたのだ。あの時、ルーマニア空軍の二人は完全に油断していた。先にカンタクジノが撃墜したドイツ軍機の証拠写真を撮影することに気を取られるあまり、敵の接近に気付かなかったのだ。

 ほんの一瞬だった。射撃の音が耳に届くと同時に、銃弾がコクピットのガラスを突き破り、部下の喉から赤い血が噴き出した。ついさっきまで無線を通して上官の勝利を喜んでくれたドゥルジャンは、目の前で死んだ。無残なものだ。故郷を取り戻します、と笑顔で語った青年の命はスロヴァキア上空に散った。

 カンタクジノのメッサーシュミットも被弾していた。しかし、彼は運よく機体を不時着させて生き延びた。

「もう一機も、さっさと地上に引っ込むこをと選んだらしい。きっと二機とも新兵だったんろうね。実にあっさりした終わりだったよ。悔しくさえ思った。あれがもし私が訓練し、共にソ連空軍と戦ったパイロットだったなら、全く違う経験ができたに違いないのに」

 リップフェルトはそう言って心底無念そうな様子で深い溜息を吐いた。彼が真相を知る由も無かった。


 カンタクジノの心はあの日へと叩き落されていた。あの後、生還した彼を待ち受けていたのは他の隊員達からの冷たい視線であった。彼らの考えは十分に理解できた。トライアンには女手一つで育ててくれた貧しい母がいた。彼は生きて戦後を迎えるべきだったのに、戦績目当ての上官に付き合ったばかりに悲劇の内に倒れざるを得なかったのだと。

 当然、カンタクジノは部下が憎くて無理強いをしたわけではない。お互い信頼があり、勝利する意思があったからこそ二人で組んで任務に就いたのだ。彼自身もドゥルジャンを失ったことに深い悲しみを抱いていた。だが仲間の心情を思うと、決して人前で嘆くわけにはいかなった。ただ信頼のおける友人としてイオン・ドブランにだけ、事の次第を簡潔に話した。


「ところで、君がルーマニア空軍のトップエースで間違いないな?」

 リップフェルトは試すような目でカンタクジノを見た。カンタクジノは期待に応えようと大きく頷いた。目の前の男から見た一部始終をたった今聞かされた上でこのように振る舞うのは大いなる恥に違いなかったが、一九四五年に引きずり込まれた彼の魂は、それ以外の態度を思い出せなくなっていた。

「ああ。五十四機は確実に落とした。我が国の計算方式では六十九勝になる。君達旧ルフトヴァッフェのエースには遥かに及ばないが……」

「おめでとう。流石だな」

 何度も言われた言葉だった。しかこの度ばかりは全く喜べたものではない。カンタクジノは今、あの素直で明るかった青年や、その他数多くの戦友の屍の上に、ただ一人桂冠を被り立ち尽くすだけだ。

 ただ彼が戦争中に喪ったもう一人の戦友の背中が浮かんだ。アレクサンドル・シェルバネスクは生きて終戦まで撃墜数で張り合って、その上で自分に打ち負かされてくれるとばかり思い込んでいた。

 戦後の変わってしまった世界は茨のように鋭い棘を彼の心に行く度も刺してきたが、これが最後の一撃であるかのように感じられた。輝かしい名声と栄光と虚勢の中に生きて死んでいく生涯を愛していた筈であるのに、全ては崩れつつあった。無論、彼は今なお敗北など恐れてはいなかった。生涯においてあらゆる勝負に挑めば、当然敗北はつきものだ。彼を苦しめるのは、再び挑めないという、その点だった。

「話を戻すが、あの時現れたのが例えば君だったら、と今でも思うんだ。運が悪ければ私の命も無かったかもしれない。だが、その終わり方だったとしても、決して不服はなかっただったろう」

「……そうか。リップフェルト先生、貴重な講義をありがとう」

 カンタクジノはそう言ってリップフェルトの目を見つめた。相手も何かを悟ったらしく、真っ直ぐに見つめ返した。

 そうして黙ったまま時が流れ、やがてどちらからともなく握手の為に手を差し出した。

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