最終章「かけがえのない場所」

 外は、ここに来る時と比べ物にならないくらいの暴風雨になっていた。早く、工房へ向かいたいのに、なかなか前へ進めない。傘なんて、もはや意味を成していなかった。俺たちは、道中言葉を交わすことなく満員のバスに乗り込んだ。詳しい話しは聞けていない。新庄さんから、工房が大変なんだと電話があっただけ。ゆっくり話している時間も惜しくて、俺はすぐに向かいますと言って電話を切った。状況何て聞かなくても、いつも穏やかな新庄さんが、あんなにも慌てていて、そしてこの天気なら何となく何が起きたのかくらい想像がつく。碧も、博くんも同じだろう。だから、何があったんだとかわざわざ聞いてこないで、一緒に着いて来てくれている。いつも十五分で着く距離のバス停まで、一時間かかってようやく工房が近づいてきた。心臓の音が煩い。工房まで俺たちは、走った。走って、走って、走って、工房に続く坂道まで来て足が止まってしまった。

「真日那?」

 碧が心配そうに俺の名前を呼んだ。

「怖くて……」

 いったい、この先に何が待っているというのだろうか。引き返せるならば、引き返してしまいたい。

「大丈夫だ! オレたちがいるだろ」

 碧は、そう言って俺の右手を握った。

「あぁ、そうだ。一緒に行こう」

 博くんは、俺の左手を握ってくれた。雨で俺たちの手はびしょぬれだったけど、確かに暖かい、温もりが伝わってきた。

「そう、だよね。行かないとね」

 この目でちゃんと確かめなければいけない。ここで、立ち止まっているわけにはいかないのだ。俺たちは、ゆっくりと坂道を登って行った。

 坂道を登りきると、そこは俺たちの知っている場所ではない光景が広がっていて、目を疑った。

「工房が……っ!」

 俺たちの大切な工房の一部分が、倒壊してしまっていたのだ。

「魔法の、部屋は……?」

 博くんが、そう言葉を発して俺たちは恐る恐る魔法の部屋がある方へ眼を向けた。だけど、そこには倒壊した跡と、新庄さんたちの震える後姿しかなかった……。

「新庄、さん……」

 俺は、静かに声をかけた。まだ暴風雨は続いていると言うのに誰も傘を差さずに、ただその場に佇んでいる。

「真日那、くん……碧くんも、博くんも一緒だったんだね。仲直り出来たみたいで良かった……せっかく、仲直り出来たのに工房がこんなことになってしまってごめんね……」

「新庄さんが、謝ることはないですよ。……皆さんに怪我がなくて、良かった」

 それだけは、不幸中の幸いだと思っている。

「真日那くん……」

「ひとまず、今日は帰宅しましょう。ここにいても危ないですし、暴風雨の中じゃ何もできないです。これからのことは、また明日から考えましょう」

 俺は、冷静にそう告げた。ここで、俺が動揺するわけにはいかないのだ。俺は、恋蛍楽器修理工房の責任者。不安になっている皆を安心させてあげないといけない。

「そう、だね。真日那くんの言う通りだ。いつ土砂崩れが起きてもおかしくない。皆、雨に濡れて冷えたでしょう。ちゃんと、お風呂入って温かくして寝るんだよ」

 新庄さんも、こんな時でもいつもと変わらない優しい声色で暖かい言葉を告げた。五十嵐さんと、羽月さんはボロボロ泣きながら頷いて、帰り支度を始めた。椿さんも、涙をぐっと堪えた表情で、帰って行った。

「碧、博くん」

「分かってる。分かってるけど……っ」

 碧は、悔しそうに拳を握りながらそう嘆いた。

「匠さんの、トランペット魔法の部屋に置いてあったんだよな?」

「あ……」

 トランペットはきっと、この瓦礫の下にある。

「救い出さないとっ」

 今にも駈け出して行きそうな博くんの腕を、俺は強く握って引き止めた。

「ダメだって! 今日は、危ないからまた明日探そう。素手で探したら、大事な手を傷つけちゃうよ」

「……っ」

 俺だって、トランペットを探したい気持ちはある。だけど、二次被害を起こすわけにはいかないし、今探しても明日探しても、きっとトランペットの状況は変わらない。

「今日は、帰ろう」

「そうだね。今は、もう何も考えずに皆で帰ろう」

 新庄さんの言葉に、碧と博くんも頷いてくれて俺たちはボロボロの工房を後にした。


 

 一晩経ったら、元に戻っていて欲しかった。夢であって欲しいと願いながら、俺たち三人は数日ぶりに一緒に工房へ向かった。せっかく仲直りが出来て、これからもっと皆で頑張って行こうと盛り上がっていたのに。どうして、こう上手く行かないのだろうか。仲直りをしたはずなのに、俺たちは無言だった。今日は、昨日の天気が嘘かのように晴天で、青く綺麗な空が憎たらしくて仕方なかった。トボトボと坂道を上ると、既に新庄さんを始め、五十嵐さん、羽月さん、椿さんは工房の前に揃っていた。

「おはよう」

「おはようございます」

 朝の挨拶を済ませると、また沈黙が続いてしまった。工房の状況は昨日、最後に見た時と変わってはいなかった。魔法の部屋は全壊で、メインの作業場は、一部倒壊。昨日は、中にまで入らなかったので今日は、ちゃんと確認をしなくてはいけない。皆、壊れてしまった大切な場所を見たくないのだろう。俯いてしまっている。空は、腹立たしいくらい晴れているのに、ここだけはどんよりと重たい。

「新庄さん、昨日何があったのか教えてくれますか?」

 俺は、そう話しを切り出した。黙っていても、俯いていても仕方ない。ここは、責任者である俺が、しっかりしなくてはいけない。

「そうだったね。昨日は、ちゃんと説明が出来ていなかったよね……」

 ゆっくりと新庄さんは昨日あったことを話し始めてくれた。昨日は、途中まではいつも通り仕事をしていたそうだ。だけど、どんどん雨風が強くなっていって、バスや電車通勤の人もいるから今日は早めに切り上げよう、と帰り支度を始めた時に工房の外ですごい音がしたそうだ。

「土砂崩れが起きてね、そのまま魔法の部屋に流れていってしまったんだ。幸い、メインの作業場の方は後ろの方だけで止まってくれたし、僕たちはもう外へ出始めていたから被害を受けることはなかったんだ」

「今まで、こんなことなかったのに……」

 碧は悔しそうに言った。工房が出来てから長い月日の間に、日本では幾度も大きな自然災害が起きている。だけど、その時には工房は大きな被害は受けずにいた。多少のひび割れはあっても、建物が崩れるほど大きな出来事は今回が当然だが初めてで……。

「自然災害は、いつ何が起きるか分からないものだからね……」

 新庄さんは、意外にも冷静だった。俺に電話をしてきた時は、何事かと思うほどらしくなかったと言うのに。

「なんで、そんな冷静でいられるんですか」

 黙って聞いていた博くんが、新庄さんの態度が気に障ったようで珍しく新庄さんに乱暴な口調で問いかけた。

「冷静、ではないよ。だけど、自然災害には抗えない……」

「そうかもしれないですけど、今こんな状況確認してる場合じゃないでしょ。早く、匠さんのトランペットを救出して、工房内のどこがダメになっているのか確かめないとっ」

 博くんは、すぐにでも瓦礫の方へ駈け出して行きそうだったのを碧が引き留めた。

「離せよっ」

「真日那にも、新庄さんにもちゃんと考えがあって今こうやって話しをまずしているんだろ。黙って聞いとこ」

「何だよ、考えって。早く現場確認した方が良いに決まってる」

「……博くん、気持ちは分かるけどねそれはとても危ないことなんだよ。いくら今日は晴れていると言っても、豪雨があった次の日でまだまだ二次被害も起きやすい。皆が勝手に、感情のまま動き出したら絶対に良くないことが起きる。だから、一個一個順を追って、先へ進んで行こうとしているんだよ」

「……っ」

 新庄さんの優しい声色に、博くんは落ち着きを取り戻してくれた。皆が、これからのことにきっと不安を抱いているだろう。ただでさえ、経営難だった工房だ。その工房がこんなことになってしまって、これから一体どうすれば良いのか。皆の視線が俺に集中している。皆が俺の言葉を待っている。

「真日那くんは、どう考えてる?」

 新庄さんのその問いに、俺は静かに答えた。

「畳むしかないんじゃないでしょうか」

「お前っ! この期に及んでまだそんなことっ!」

「以前の俺なら、そう答えていたと思います」

 博くんの言葉を遮って俺は、はっきりと言った。

「でも、今は違います。畳むなんて考えたくないです。恋蛍楽器修理工房は、俺にとっても、とても大切な場所になりました。ずっと、ここで皆と働いて行きたい。だから、これから皆で力を合わせて復興に向けて動いて行きましょう」

 父さんの葬式の日は、この工房に何の思い入れもなかった。どうなっても良いし、勝手にすれば良い、そう思っていたと言うのに。月日が経つと人の感情、というのはこうも変わるものらしい。

「真日那くん……」

「新庄さん、俺はもう父さんとか関係なくここが大好きになってしまったんです。だから、絶対に失いたくないです」

「うん。そうだね、僕も同じ気持ちだ。皆もそうだろう?」

「当然です」

「おうっ! 今までだって全部乗り越えてきたんだ。今回だって大丈夫だ!」

「うんっ、ここを失うのは嫌だな」

「僕も同じ気持ちです」

 博くん、碧、羽月さん、椿さんは笑って答えてくれた。

「私もここを失いたくない。最善の方法を探っていきましょう」

 五十嵐さんもにっこりと笑ってくれた。

「皆さん、ありがとうございます。ひとまず、現場確認をしていきましょう」

 まずは、全壊してしまった父さんの使っていた『魔法の部屋』の跡からトランペットの救出を始めた。手には、しっかりと軍手をして怪我をしないように。シャベルを使って、瓦礫をどかした。

「真日那、あった……」

 しばらく経ってから博くんが、瓦礫を取り除いた所からトランペットを拾い上げた。そのトランペットは、数日前に見た時とは随分と変わってしまっていた。当たり前だけど、ボロボロになってしまっていた。父さんのトランペットは、今日までは物理的についたような傷は何もなかったのに。

「これ、直せるのかな」

「理人の時より凹んじまってるなぁ。かなり、時間かかりそうだけど直せなくはないと思う」

 隣に来ていた碧がそう言った。このトランペットは今、誰のトランペットでもないし誰にも頼まれてはいない。それよりも、予約が入っているのを優先しなくてはいけないのは分かっている。だけど、俺はこのトランペットを直したい、と思った。

「俺がリペアして良いかな」

「良いに決まってるだろ。な、博?」

「あぁ。その方がきっと、そいつも喜ぶ」

「……ありがとう」

 ケースは完全に壊れてしまっていたから、ひとまずトランペットを大事に持って次は工房内の現場確認をしにいった。

工房内は、前の方には目立った損傷はなかったけれど奥の方の工具のコーナーの屋根から雨漏りが起きてしまい、水浸しになってしまっていた。

「最悪だ……」

 博くんが、ぽつりと呟いた。工具は、水に濡れるとダメになってしまう。リペアの仕事は、自分達の手で作業することの方が多いけれど、工具だってなくては仕事が出来ない。特に今は予約がありがたいことに一杯詰まっていたし、さっきの父さんのトランペットのように大きな損傷がある楽器は、工具を使用しないと直せない。

「……あの!」

 皆が絶望してる最中、碧が大きな声を上げた。

「碧?」

「オレ、知り合いに二人大きな楽器店に勤めてる奴いるんで相談してみます。こっちの工具直るまで貸してもらうとか、向こうでしばらく働かせてもらえないかとか、何かとりあえず色々相談してみます」

「そいつら、嫌いな奴らじゃなかったっけ?」

 何やら事情を知っているらしい博くんが、そう問いかけた。

「……そうだけど、使えるもんは使ってかないとだろ。工房の為なら恥をかいても良い」

「碧……ありがとう。そしたら碧は、今から一度その人たちに連絡取ってもらえる?」

「分かった」

「俺たちは、工具の何がダメになっているのか、と現状予約入っている方々に状況のご連絡をしていきましょう」

 ここでリペアの仕事が出来ない、と分かった今出来るのはそのくらいだ。幸い、お客様の楽器が仕舞ってある倉庫は、雨漏りが起きていなかったからほっとした。こっち側が魔法の部屋のように、倒壊しなかったことは不幸中の幸いだった。

「ここまで被害が出てしまうと、いよいよこれを機にリノベーションをした方が良いかもしれないね」

 新庄さんがぽつりと言った。

「そう、ですね。経営のことを考えて躊躇ってしまっていましたが、もっと早くしておくべきでした。そうしたら、雨漏りも起きずに済んだかもしれない……」

「こればかりは仕方ないよ。起きるまでは大丈夫と思ってしまうからね」

 工具の買い替えや、リノベーションまでして大丈夫なのかと不安になってしまう。だけど、協力してくれそうな人たちを探して動いていくしかない。

「工具や、リペアの方は碧くんにひとまず託すとしてリノベーションの方か……お金をなるべくかけずに出来ると良いんだけどなぁ」

「新庄さん、それなんですけど……俺の姉の旦那が、インテリアコーディネーターの資格持っててフリーでリノベーションの仕事してるそうなので頼めるかもしれません」

「「え⁉」」

 俺と新庄さんは、博くんの言葉に驚いて声が重なってしまった。

「そうだったの? それは是非お願い出来ると嬉しいな」

「あー確かに、愛菜さんと話してた時そんなことを言っていたような気もする……でも、今海外に住んでるんだよね?」

「あぁ、だからすぐに動けるかは分かんないけど聞くだけ聞いてみる」

「ありがとう、助かるよ……! 俺は、家に帰ったら過去のお客様記録ノート見返して協力してくれそうな人、探してみるよ」

「僕も、昔の大学の頃の友人に声をかけてみよう」

「皆で、出来ることからしていきましょう」

 そうしたら、きっと上手く行くはずだから。


 それから、数分後電話をかけに行っていた碧が戻って来た。

「二人とも、協力してくれるって。その場で上司にも確認取ってくれた」

「ありがとう、碧。具体的にはこれからどうするの?」

「工具を貸し出したり、修理はまた別になるからそこは力を貸せないけど工房が復興するまで、ウチのスタッフを雇ったり現状入っている予約を請け負うことは出来るって言ってくれた」

「それだけでも、とても助かるよ……! 工具の方は、俺の方で協力してくれそうな人いないか探してみる。後、リノベーションは愛菜さんの旦那さんに頼めるかもしれないって!」

「あー確かに愛菜さん、旦那がインテリアコーディネーターの資格持ってて~って話してたな。それが出来たら金銭的にも楽になるな」

「うん」

 碧は少し浮かない顔をしていたのは、きっと電話の相手に嫌なことを言われたからなのかもしれない。だけど、工房の為に嫌な相手にもお願いをしようとするその行動が、とても嬉しく思う。相手と何があったのかは分からないけれど、相手も嫌なことを言いながらも結局は協力してくれると言ってくれたのは、きっと碧の工房への愛と、碧の人の良さがちゃんと伝わったからだろう。大切な皆が路頭に迷うことがない、とひとまず分かって、安心した。

 協力してくれるのは、碧の大学時代の友人の辰巳海里さんと香原圭音さん。辰巳さんは、大手楽器メーカーで働いていて今はリペアマンではなく、イベント企画スタッフだそうだけど、リペア科の人に事情を説明し受け入れ態勢を整えてくれたそうだ。香原さんは、ここよりかは大きな楽器チェーン店のリペアスタッフだと言っていた。羽月さんに、辰巳さんと香原さんどちらにどの楽器を入れるか、リストを作成してもらった。これからの予約の人には、それぞれ辰巳さんと香原さんの所で働きながら自分に入っていた予約のリペアを行う許可を得てくれた。博くんは、バンドで活動しながら稼いで、バンドメンバーやその知り合いからのリペアの依頼を受けることにすると言っていた。俺は、責任者として工房の傍を離れられないので、ジャズバーでバイトをさせて貰いながら現場の立ち合いをしつつ、空いた日に香原さんの所の工具を使用させてもらって、父さんのトランペットのリペアを行うことに決めた。

「皆、バラバラになっちゃうな」

 トラックに楽器を詰め込み、それを見送りながら寂しそうに碧が呟いた。

「仕方ないよ。畳むことにならなくて済んだだけ、良いと思わないと」

「真日那の言う通りだ。しばらく、ここで働けなくなるだけで、失うわけじゃない」

 そう、失うわけではない。俺たちは、ここに帰って来るのだ。少しの間、環境は変わってしまうけどリペアの仕事だって、変わらずに出来る。

「愛菜さんの旦那さん、週明けには来てくれるのありがたいね」

「あぁ、姉さんから良い工房だって話しを聞いていたみたいで、早く直してあげたいって思ってくれたらしい。なるべく元の雰囲気を壊さずにリノベーションしてくれるって」

「ありがたいな」

「そうだね……」

 今まで皆がリノベーションを躊躇ってきたのは、長年過ごした思い出深い工房の雰囲気が消えてしまうのを恐れたからだった。少し前までの俺には、その気持ちはあまり分からなかった。今よりもっと、良い環境で働けるのに何が不満だと言うのか、と。だけど、俺にとっても大切な場所となった今なら分かる。直すというのは、少なからず元の思い出はなくなってしまうこと。それは、寂しいけれど完全に失ってしまうよりかは断然良いことだ。俺たちの想いを理解してくれている人が、携わってくれるなら安心だった。

「よし、楽器を詰め込んだし今日は帰ろうか。明日から、碧は香原さんの所で働くんだよね。普段と違って電車通勤になるんだから、寝坊しないようにね」

「分かってるって~」

「ほんとかなぁ。必要だったらモーニングコールするから言ってね」

「そりゃあ良いな!」

 なんて、どうでも良い会話をしていないと寂しさで押し潰れてしまいそうだった。


「それじゃあ、真日那くんまた何か情報入れば連絡入れるからね。皆も明日からそれぞれの場所で、頑張って。少しの間離れ離れになってしまうけど、必ずここに戻って来られるように僕も頑張ります」

「寂しいけど、頑張りましょうね」

 新庄さんと五十嵐さんの言葉に羽月さんは、うるうるしてしまっている。

「知らない人だらけの場所でやっていけるか不安です……」

「私が一緒だから大丈夫よ!」

「心強いです~~」

 こんな風な会話もしばらく見られなくなるのか、と思うとやっぱりすごく寂しいな、と思う。まだ一年もここで働いてはいないけど、こんな気持ちになるくらい俺はもうこの工房が大好きになっていた。だから、絶対になるべく早く復興をしようと決意した。

「僕も、リノベーションが始まったら顔は出しに来るからね。何か相談があれば、すぐにすること。皆も、慣れない環境で大変かと思うけど溜め込まずに気軽に連絡し合うんだよ」

 はい! と元気よく返事をして俺たちは工房を出た。

 坂道を下りながら、しばらく無言の時間が続いた。この坂道を降りたら、博くんは反対方向だ。

「なぁ、これから毎日さ前に作ったグループメッセージにその日あった出来事送ってこうぜ。結局、作ってから一度も使ってないし。お前らは同じ所だけどオレは今までみたいに頻繁に会えなくなるかもだし、せっかく仲直り出来たのにこんなのって寂しすぎる」

 碧は泣きそうな声で言った。そんな碧を見て、俺と博くんはふっと笑った。

「碧は寂しがり屋だな~~いつの間にか、俺よりも碧のが泣き虫になってるね」

「な、泣いてねーし!」

「声震えてるじゃん。嫉妬は見苦しいぞ」

「嫉妬もしてねー! 何なんだよ、お前らは寂しくないのかよ!」

「寂しいよ。すっごく寂しい。だから、毎日メッセージ送ろう。内容なんてなくて良いから。何を食べたとかスタンプだけでも。二人の気配を感じられたら、それだけで安心すると思う」

「良いんじゃね? ま、それにどうせ帰る場所は変わんないんだから、仕事終わりとかに余裕あれば飲みに来いよ」

「博~~~真日那~~~」

 碧は、そう俺たちの名前を呼んでぎゅうと抱き着いてきた。暑苦しいなぁ、と言いながらも博くんも嬉しそうだった。そうだ、何もこれは永遠の別れではない。会えなくなるわけではない。時間を見つけて、前みたいにジャズバーやレストランで音楽を聞きながら飲む時間も作れる。コンサートやライブにも行こう。気を張り詰めていては疲れてしまうから、適度な息抜きは必要だ。

 それから、博くんとまたねと手を振って別れて碧と二人きりで歩き続けた。

「明日からも頑張ろうね、碧」

「そうだな。オレも頑張る。こんなこともなければ、チェーン店で働くなんてないだろうし、色んなリペアマンの技盗んでくるかなっ! そんで、恋蛍楽器修理工房が再開した頃には、今よりもっとすごいリペアマンに成長しちゃってるかも」

 碧はそう言って、笑った。

「良いね! 俺も色んなこと学んで、それをしっかり今後に生かせるようにしよ」

 大切な工房がダメになってしまったのは、悔しいし悲しい。だけど、嘆いてばかりもいられないのだから、前向きに考えていかなければ。

「じゃあ、またね。あ、父さんのトランペット無事に届いてるか確認お願いね!」

「おう、ちゃんと確認して連絡入れるな。じゃあな!」

 俺たちは、明るく元気に手を振って別れた。


 家に着くと早速俺は、お客様記録ノートを見返した。そこには、当時のその人の年齢、職業などが記載されていたから工具を直せそうな人が見つかるかもしれない……と思ったのだ。だけど、そう簡単には見つかりそうになかった。ノートは所々薄れている箇所もあるし、読みにくくなっている。

「真日那、ご飯出来てるわよ」

 うーんと唸りながら、ノートを見つめていると、母さんが声をかけきた。

「後でにする」

「工房が大変なことになって、必死なのは分かるけどあまり無理はしないでね。母さんにも手伝えることあれば言ってね」

「うん。あ、そしたらさ父さんの知り合いとかで、機械に強い人っていなかった? 工具類がダメになっちゃったから、直せる人を探してるんだけど……」

「工具を直せる人ねぇ……。うーん、ちょっと待ってね」

 母さんはそう言って、一度部屋を離れると手に何かを持って戻ってきた。

「それは?」

「父さんの日記帳。そのノートとは別にも、プライベートなことも時々日記に書いていたのよ」

「え、父さんにプライベートとかあったんだ?」

「そりゃあ、少しくらいあったでしょ。これにも、何かしら情報は載ってるかも」

「ありがとう、見てみる」

 俺は、そのノートを受け取ってペラペラと捲った。お客様記録ノートよりも明らかに、内容の薄いものではあったけど、また違った父さんの一面を知られて新鮮な気持ちになった。俺や母さんと喧嘩したこと、新庄さんと飲みに行ったなど本当に仕事とは関係のない内容が書かれていた。その最後の方のページでふと手が止まった。

「ジャズバーの店主で元修理工の池上峰生と意気投合する。直すものは違えど、同じ直す者同士、話しが合った。今はもうジャズ一筋らしいが……ってあれ、確かあそこのジャズバーの店主の名前も池上峰生だった気が……」

 今まではマスターと呼んでいて、本名を知らなかったがジャズバーで働かせてもらうことになったのを、きっかけに改めて自己紹介をしたのだ。この前貰った名刺をサイフから取り出して、やっぱりと呟いた。

「こんな偶然、あるんだ。でも、今はもうやってないから無理かな……いやでも、頼んでみよう」

 よし、と気合を入れてその日の作業はそこまでにした。

「母さんのおかげで、良い情報が手に入ったよ。今度働くジャズバーの店主が、元修理工の人だったみたい。父さんと意気投合したって日記に書いてあって、びっくりしちゃった」

「へぇ、そんなこともあるのねぇ。博くんのお気に入りのお店なんだっけ?」

「そう。それで、いつの間にか俺たちのたまり場みたいになってたんだけど……向こうは知ってたのかなぁ」

 たぶん、この前俺が愚痴を話した時に気づいたと思う。だから、いつも俺たちに良くしてくれていたのかもしれない。博くんは、きっと知らないだろう。知ったら驚きそうだな。初めての場所での仕事は不安だったけど希望が見えて、週明けが少し楽しみになった。


——週明け、ジャズバーにて答え合わせを行った。

「騙していたわけでも、秘密にしていたわけでもないんだけどねぇ。ただ、私は君たちの工房とは何の関わりもない人、の方が息抜きになるかなと思ってずっと真日那くんのお父さんとお友達だったことは言っていなかったんだ」

 ごめんね、と池上さんは静かに微笑んだ。どうやら、博くんがこの店に出入りするようになってからすぐに気づいたらしい。

「そうだったんですね。驚きましたが、何だか距離がもっと近くなれたみたいで嬉しいです」

 博くんは、素直に喜んだ。

「まあ、友達と言ってもほんとに数回、匠くんがここに飲みに来てその間お話をした程度でね。でも、そんな短い期間でも匠くんと過ごした時間は楽しかった。君たちが、工房をとても大切に想っているのも、それぞれの話からよく伝わってくるし、私でよければ協力させて欲しい」

「ありがとうございます……っ! あ、でもそうなるとここの運営って大丈夫ですか?」

「あぁ、元々昼間はあんまり人が来なかったからしばらく昼間は閉めて、そっちの工具の修理に集中するよ。それで、夜は変わらずにジャズバーを運営する。それでも良いかな?」

「はい、とても助かりますっ」

 リノベーションをしたって、楽器の修理をする為の工具が直らないと仕事はままならない。工具はとても大切なものだから、適当な人に頼むことにならずに済んで本当に良かったと思っている。池上さんになら、安心して任せられる。

「でも、なんで修理工辞めて今はジャズバーの店主なんですか?」

 博くんの問いかけに、真日那くんと同じだよと池上さんは言った。

「先代……私の父が病気で亡くなってね、私しか跡を継げる人がいなかったんだ。とても、街の人たちに愛されていたから潰すわけにもいかなくてね。私は、長男だったし修理工の仕事は、私が一人いなくなっても問題なかったから良いだろ? と言われてね。断れなかったんだよねぇ」

「そう、だったんですね……」

「最初は嫌々だったけど、始めていくうちにジャズが好きになっていってね、この人生も悪くないかもって思い始めたんだ」

「俺と同じですね」

「でしょ? それに、こうして縁の巡り合わせに寄って、私のかつての仕事も活かせる日がまたきてくれたしね、後悔はしてないよ」

 池上さんの話しはすごくよく分かるなぁ、と感じた。嫌々始めたことでも、いつの間にか大好きで大切なものになっていることもあるから、人生というのは面白い。

「さて、と。私も良い歳だから、昼間工具直して夜バー店主もちゃんとやるとなるとなかなか辛いから、真日那くんと博くんにはお店の運営任せられるくらいに覚えて貰わないとね。びしびし行くからね」

「はい、よろしくお願いします」

「お願いします」

 リペア以外の仕事を覚えるのは、少し不安だけどきっと今頃、碧たちも慣れない環境で頑張っているのだろう。だから、俺たちも頑張らなくてはいけない。全ては、工房の未来の為に。


 それから、愛菜さんの旦那さんである玲さんが遠い海外からこの土地を訪れてくれた。

「リノベーションするのは、こちらの建物だけで良いのかな? もう一つ全壊してしまった所があると博くんからは聞いていたけど……」

「はい。もう一つの方は、もう使っていない場所でしたのでこちら側だけで大丈夫です」

 魔法の部屋は、建て直さないと皆で決めた。皆にとっては思い出深い場所なのに良いのかと聞いたけれど、皆はこうでもしないと先へ進むことが出来ないから、と言っていた。これから、リノベーションをしたら更に父さんがいた頃の面影は薄くなるだろう。そこにまだ、魔法の部屋があっては意味がない。もう、ここは昔のままの工房ではなく、新しい工房へと生まれ変わるのだ、と。俺は、その言葉が嬉しかった。

「雰囲気は今のままをなるべくキープして、劣化がある所は補強して雨漏りなどが今後起きないように、強い建物に変えていきますね」

「ありがとうございます」

「いえ、愛する人の弟さんとそのお友達の大切な場所なら僕の大切な場所でもありますので。精一杯務めさせていただきます」

 そう言って玲さんはにっこりと笑った。その笑顔は、愛菜さんによく似ていて、夫婦は雰囲気が似てくると言うのは本当なんだなぁ、なんて感じた。

 工房のリノベーションも始まり、その傍らで池上さんによる工具の修理も始まって、一歩一歩工房は復興に向けて動き出した。


 次の日は、新庄さんが現場の立ち合いをしてくれることになったので俺は、碧がバイトに出向いている香原さんの楽器店へ父さんのトランペットのリペアをしに行った。

「場所を使わせていただきありがとうございます」

「気にしないで。他に必要なものとかあればいつでも言ってね」

 香原さんは、とても優しそうな人だった。真面目そうでどちらかと言えば椿さんタイプ。碧と友達、というのが不思議だ。

「圭音がさ、オレと理人をもう一度出会わせるきっかけを作ってくれたんだ。圭音がいなかったら、今こうしていられなかったかも」

「そう、だったんだね。感謝しないとだね」

「おう、めちゃくちゃ感謝してる。だから、バリバリ働いてるんだぜ」

「無理はしないでよー?」

「してないから平気だって。そーいうお前こそ大丈夫か?」

「大丈夫だよ。今日、久しぶりに碧に会えて元気もらえたし。使える時間に集中して、リペア頑張らないと」

 父さんのトランペットは、俺が今まで受け持ってきた楽器の中で一番状態がひどい。全ての箇所の調整が必要そうだ。当然だが、全体洗浄をする必要がまずある。きっと中に泥がたくさん固着してしまっているだろう。それを出してから凹み修正、ピストンとロータリー調整、抜き差し菅調整。それら全ての工程は経験済みだから、それぞれがどのくらいの時間かかるか分かっている。早くても約一か月はかかるだろう。これまで、たくさんの他人の楽器をちゃんとリペアしてきたのだ。それに比べたら今回は、いつか自分の楽器になるかもしれない物のリペアなのだから幾分、気持ちは楽なはずだろう。

「顔、強張ってるぞ?」

「だ、大丈夫。大丈夫。そ、そうだ声聞いてみようかな」

 いつだって、不安になった時にリペアする楽器の〝声〟、気持ちを聞いたら安心出来ていたから。だけど、ふと思い出したのだ。もう、このトランペットの声は聞けないのだ、と。

「声、もう聞いちゃったんだった」

「あー初めて聞いたのがその声だったんだっけ?」

「うん……。どうしよう、めちゃくちゃ不安になってきちゃったから、リペアする楽器じゃなくてもとりあえず〝声〟が聞きたい」

 あの、不思議な現象を得ることで慣れないことへの不安が少なからず軽減されていたのだ。今まで、リペアする楽器の声しか聞けないのかな、と思っていたけど思えばこのトランペットは、リペアマンになる前に聞いたのだから触れればどんな楽器でも〝声〟が聞けるのかもしれない。そんな風に思って、碧が担当していたチューバに触れてみた。



 だけど、何も聞こえてこなかった。

「あれ……」

 何故だろう? やっぱりリペアする楽器ではないと聞こえないのか。このトランペットの時は始めだから特別?

「声、聞こえないのか?」

「う、うん。でも、やっぱりリペアするのじゃないと聞こえないのかも。ねぇ、碧。今受け持ってる楽器の一つ俺にリペアさせてくれないかな?」

「良いけど……」

 それからトランペットのリペアに入る前に、碧から譲り受けてホルンのリペアをした。だけど、終始やっぱり何も聞こえなかったし、感じられなかった。

「ほんとに何なんだ……」

 全く訳の分からない力だ。ある日突然現れて、そして知らない内に消えてしまっていた。もう、俺に楽器の声が聞こえるという力は宿っていないのだとはっきりと分かった。リペアをするしない関係なく、一度触れたからも関係なくて、力が消えてしまったのだ。

「消えちゃったみたい」

「どれも聞こえなかったのか?」

「うん、何となくだけど魔法の部屋が壊れたから、この不思議な力も消えちゃったのかも……」

 力があった時とない時の違いと言ったら、そのくらいだ。真相はきっと分かることはないのだろうけど……。確かに、力があった時俺は少しだけ自信が持てた。知識も経験もなくて、皆よりもずっと劣っているけどでも、すごい力を持っている。それだけで、不安が無くなったのだ。楽器の喜んでいる声を聞くと嬉しかった。だけど、もう聞こえない——

「何にもなくなっちゃった」

「そんなことないだろ」

 碧は、力強くそう言った。

「その力を得た時の真日那には知識も経験もなかったのは事実だ。けど、今の真日那には知識も経験もたくさんある。だから、力なんてなくても大丈夫だ。不安だって言うならオレが傍にいるし、博も駆けつけてくれるだろ。だから、力失ったくらいで自信なくすなよ」

「碧……」

「そのトランペット直したいんだろ?」

「うん、直したい。直して、吹いてみたい」

 今はまだ誰の物でもない楽器で、誰に頼まれたでもなくて、ここで不安だからって諦めたって誰にも迷惑はかからない。だけど、自分の為に直したいのだ。自分でリペアした楽器を吹いてみたい。その時一体どんな気持ちになれるのだろうか。それを知りたいから、声の力がなくなったって、立ち止まらない。

「ありがとう、碧。勇気湧いた」

「それなら良かったよ。そのトランペットで博と一緒に吹いてる姿オレもみたいしな」

「うん、絶対直してみせるよ」

 トランペットも、工房もどのくらい時間がかかるかは今はまだ分からないけど、とにかく前へ進み続けよう。


 その日は、全体洗浄をして固着物を落とし、凹み修正まで行った。気づいたらもう真っ暗で待っていてくれた碧と一緒に地元まで戻った。

「あ、博くんちょうど俺たちが戻る頃にライブ終わるらしいよ。飲みに来ればーってメッセージきてる」

「ほんとだ。久々に行くか」

「だね」

 それぞれの場所で働き始めてから、結局忙しくて三人で会えていなかった。久しぶりに会えるのが嬉しくて、地元までの距離が長いのにうんざりしてしまった。

「電車通勤って面倒だよな」

「分かる。早く、工房に通えるようになると良いよね」

 電車通勤が当たり前の人の方が、世の中きっと多いのだろうけど田舎の辺鄙な地での生活に慣れてしまった俺たちにとっては、なかなかに酷な時間なのだ。

 ジャズバーには二十二時頃に着いたけれど、まだ賑わっていた。

「おつかれ」

「博くんもお疲れ様」

「おつーなかなかライブ見に来れなくて悪いな」

「仕方ねーって。仕事溜まってるんだろ?」

「まーおかげさまで。博は? リペアもやってるのか?」

「おう。バンド仲間たちに贔屓してもらって、ちょっとでも不調あれば呼んでもらえてる。最近は、ギターやベースも直せるようになってきた」

「すげーじゃん!」

 久しぶりに会ったものだから俺たちの会話は、とても弾んだ。

「真日那もバーテンの仕事してるんだろ?」

「バーテンなんてそれほどのこと出来てないよ。でも、お酒だいぶ作れるようになった」

「けっこう様になってる」

「えぇ―良いな、今度絶対真日那が働いてる時に来よう~」

「来なくて良いよ、恥ずかしいから……」

 あぁ、やっぱり三人でこうして一緒にいられる時間がとても楽しい。明日にはまた、皆バラバラの所へ行くのだなぁ、と思うと寂しい。

「新庄さんたちも元気かな」

「きっと大丈夫だろ」

「早く工房で仕事したいよな。やっぱ広い所落ち着かない」

「確かに、香原さんの所広いもんね、分かる」

「広さが全てじゃないよな」

「そーそー」

 働いてくれている人たち全員の顔がすぐ傍で見られて、同じ空間で過ごせるあの場所がやっぱり、とても落ち着くのだ。


「そう言えばさ、俺楽器の声聞こえなくなっちゃったんだ」

 ジャズバーからの帰り道、博くんにも話しておかないと、と思ってそう会話を切り出した。

「え? そーいうのってなくなるんだ?」

「俺もよくわかんないんだけど、たぶん魔法の部屋が壊れちゃったのが関係してるのかなって。でも、もう声の力なんてなくても大丈夫って思えるようになったから、これからは自力で頑張って行くよ」

「別に、今までも自力だっただろ」

「え?」

「声の力は確かに役立ってはいたかもしれない。だけど、俺のトランペットを直してくれたのは、真日那の手だ。力じゃない」

「あー、そっか。そうかも?」

「何で疑問形なんだよ」

「無意識に力に頼ってたところあるかもだから。博くんにそう言ってもらえて嬉しいよ」

「真日那はもう立派なリペアマンだよ」

 碧も笑って、そんな嬉しい言葉を言ってくれた。

「ありがと、碧。明日からもまた頑張ないとね」

 よーし! と三人で拳を突き合わせて気合を入れた。


 春の終わりに、父さんのトランペットのリペアは無事に終了した。とてつもなく時間がかかったし、何度も投げ出したくなったけれど、碧と博くんに見守られながらなんとか踏ん張った。綺麗になったトランペットを見て、あぁこのトランペットを直したのは俺の手なんだ……と思うとすごく感慨深い気持ちになった。

「吹いてみろよ」

「音の出し方わかんないよ」

「何となくで良いからさ」

 この日は博くんも楽器店に来てくれていて、最後の瞬間まで碧と一緒に見守ってくれていたのだ。

「うーん、じゃあ何となくで」

 博くんがトランペットを吹く姿を思い出しながら、何となく構えて何となくマウスピースに口をつけてみた。ピストンの押し場所なんて分からないから何も押さずに力を込めて、音を出してみた。

「へぇ」

「お~!」

 博くんと碧が感嘆の声を上げている。今、俺はトランペットの音を奏でられたのだろう。あまり、実感はないけれど確かにパーッという音が聞こえた。

「音、出てた?」

「出てた出てた! めっちゃ良い音!」

「あぁ、良い音だった。今度は一緒に吹こう」

 博くんも、トランペットを構えた。楽器を吹くのだって、初めてなのに人と一緒に音を出すなんて、もっと緊張してしまう。だけど、楽しそう。やってみたい。そんな気持ちで構えた。博くんのせーのの掛け声と共に、二人で音を奏でた。

 その瞬間の、身体に伝わってきた振動はきっと一生忘れられないだろう。自分の為にリペアした楽器で、初めて楽器の音を奏でた瞬間。それは、すごく特別な時間だった。



——それから、夏がきた。



 工房は、玲さんと玲さんの知り合いの建築家の方々、池上さんのおかげで建物も工具も全て綺麗に直ってくれた。今日は、久しぶりに工房に恋蛍楽器修理工房の面々が集まった。新庄さんも、五十嵐さんも、碧も、博くんも、羽月さんも、椿さんも皆感動していた。リノベーションされて、前よりも綺麗にはなっているけれど雰囲気自体は元のまま。配置から何まで大きく変更はされていなかった。協力してくださった皆さんには、感謝してもしきれない。隣にあった魔法の部屋は綺麗に跡形もなく消えてしまったけれど、俺たちの愛する恋蛍楽器修理工房は、ずっと昔から変わらない。皆で泣きながらお礼をたくさん伝えた。新しいホームぺージに乗せる為に、俺たちは皆で工房の前で写真を撮った。

「あ!」

「何だよ、博急に大声出して」

「碧、真日那、俺たちまだ三人で写真撮ってないな」

「あーそういや、そんな約束もしたっけ」

「いつの間にそんな約束してたの?」

「真日那と喧嘩した時。仲直りしたら三人で写真撮ろうぜって。色々あって忘れてたな」

「そうだったんだね。俺も、三人で写真撮りたい」

「よっしゃ! 新庄さん、撮ってもらっても良いですか?」

 新しくなった工房で、最初の一歩を踏み出す前に記念写真を撮るのは、とても良い気がした。きっと、何年経ってもこの写真を見たら今日のこと、今日までのことを鮮明に思い出せそうな気がした。

「なんか恥ずかしくなってきた」

「俺も」

「もー碧も、博くんも今更でしょ。腕組んで写真撮っちゃおう」

「仕方ねぇなぁ。真日那がそこまで言うなら撮るしかないな。な、博?」

「そーだな」

「じゃあ、撮るよー」

 新庄さんの掛け声と共に、俺たちは、大好きな工房の前で腕を組んで最高の笑顔で写真を撮った。

 写真の中の俺たちは、とても良い笑顔でここまで頑張ってきて良かったなぁとしみじみと感じた。


 一年前の夏、一年後の夏にこんな気持ちでこの工房にいられているなんて想像もしなかった。この一年、色んなことがあった。知らなかった感情をたくさん知って、色んなものを得た。


 リペアマンという仕事が、楽器が、たくさんの縁を結んでくれた。俺たちが壊れた楽器を直すのと同じように、人の縁と言うのは、一度解けたって、きっかけさえあれば、きっかけさえ作れば、何度だって結び直すことが出来ると知った。

この先の未来も、きっと何度も壁にぶち当たり諦めそうになったり、喧嘩したり、失いそうになったりするのかもしれない。だけど、大切なこの場所で、大好きな人たちと一緒に歩んでいけるなら、何度だって起き上がれると信じている。



 ここから、また恋蛍楽器修理工房の新たなる一歩が動き出す――




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

金蘭の契り つゆり歩 @tsuyuri_0507

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ