6章「ほぐれた糸を結び直して」

真日那の気持ち


三月の始めに大学を無事に卒業した。これからは、仕事に集中出来るなと嬉しく思った。四年間通ったこの駅にもう来なくなってしまうと思うと、少し寂しい気持ちにはなるけれど……。今晩は、碧と博くんがお祝いをしてくれるらしい。別に、お祝いなんて良いのにって思ったけれど、三人で過ごす時間は楽しいからお言葉に甘えることにした。

最寄り駅に着くと、既に碧と博くんが改札口前で待っていてくれた。遠目で見る二人は、とても良い雰囲気だ。少し前までなら想像もつかなかった光景だなぁと感じた。

「お待たせ~」

「お、真日那おつー」

「おつかれ」

「二人もお疲れ。今日はどこのお店に行くの?」

「今日はオレのおすすめの店。最近ずっと、博のジャズバーだったからな。久しぶりに違う所にしたいと思って」

「真日那に良いトコ見せたいだけだろ」

「ち、ちげーし!」

 二人はワイワイと口喧嘩を始めた。仲良くなってもこういうところは変わらない……いや、前よりもくだらなさは増しているかもしれない。

「違わないだろ。口出しすんなってめちゃくちゃ言ってきてたよな? 最近かっこ悪いトコばっか見せてたから良いトコ見せたいんだ~って」

 にやにやしながら博くんは、そんなことを言っていた。最近、博くんは色んな表情を見せてくれるようになった。それだけ俺たちの距離が縮まったのだと思うと、何だか感慨深い。

「二人とも仲良しだねぇ」

「「仲良くない‼」」

「被ってるし……。ま、いいや。碧のおすすめのお店楽しみ~」

「ピザがめっちゃ美味い所だから絶対ピザは食うぞ。じゃ、案内するから着いてこーい」

 碧を真ん中にして、俺たちは三人並んで歩きながらお店へ向かった。


 駅から少し離れた路地裏に入っていくと、とあるビルの前で碧は立ち止まった。

「このビルの三階~」

「こんな狭そうなビルにレストランがあるの?」

「びっくりするぞ~」

 碧は意気揚々と階段を登り始めた。

「碧、すっかり足直ったんだね」

「おーもうぜんっぜん平気!」

「良かった。ね、博くん」

「そーだな」

 さすがの博くんも、あの事故で相当こたえたようで最近は自分のことも大切にしているみたいだ。その証拠に昼休みは、ちゃんと休憩室で休憩を取るようになっていた。

「ここが最近見つけたオレのおすすみのレストラン!」

 店内に入ると外からは想像が出来ないくらい、おしゃれな広々とした空間があった。しかも、どうやらただのレストランではなさそうな物が奥に見えた。

「あれってステージ?」

「そ~なんとここ、音楽イベントもやってるらしくてさ。博のジャズバー行ってから音楽を聞きながらお酒飲める場所良いなって思って、自分でも探してみて……そんで、ここを見つけたんだ。ここは、ジャズだけじゃなくて色んな音楽が楽しめるらしい。今日もこの後あるってー」

「良いね、ジャズバーとはまた違った雰囲気で」

「あぁ、俺もここは初めて来たな。なかなか良さそうだ」

「だろ⁉」

 それから、店員さんに案内されて俺たちはステージのすぐ傍の席に案内された。

お酒の種類も豊富だった。どれを頼むか悩んだけれど、当店おすすめ! と書いてあるものにした。

「じゃあ、真日那の卒業を祝してカンパーイ!」

 碧の言葉と共にカチン、とグラスが重なり合う音が響いた。

「最近また予約数増えてきたよな」

「うん、碧がSNS運営頑張ってくれてるおかげでもあるよ」

「それなら良かったけど……」

 初めて、SNS運営を始めた時に失敗した経験は俺たちの中にずっと残っていて、今は慎重に行っている。怪しいコメントは全部無視、怪しいメールは全部削除、もしかしたら……という想いはもう捨てた。本当に、工房に壊れた楽器を持ってきたい人は予約蘭で分かる。新しい予約フォームにしてから、あの時みたいなことはなくなった。

「でも、潤ってるのは一時的だもんね。また春が過ぎて夏前まではお客さん減っちゃうだろうし。もっと認知されていきたいよね」

 皆の給料もあげてあげたいし、ボーナスだって出してあげたいのにそれが出来ないのが心苦しい。

「まーなー、何かもっと別の方法があれば良いんだけど……」

「……そう言えばさ、俺ジャズバーの人に誘われてバンド組むことにしたんだよ」

「「え⁉」」

 俺と碧は同時に驚いた。

「博くん、そーいうの好きじゃないんだと思ってた」

「俺も、前までは好きじゃなかった。吹奏楽部の時に懲りたからな。だけど、この前お前たちにトランペットを吹いて聞かせて、喜んでくれたのが、その……嬉しくて……」

 少し恥ずかしそうに俯きながら、博くんは言葉を続けた。

「人の為に吹くのって良いかもなって思った。違うコミュニティがあれば、そこで工房の宣伝も出来るし……。バンドメンバーたちにも、うちの工房贔屓にしてくれって言えるし……」

 博くんのその行動が、俺はすごく嬉しくて俯く博くんの手を握った。

「ありがとうっ、博くん。その活動すごく良いと思う。博くんのトランペットすごく素敵だから、たくさんの人に聞いてもらえるのも嬉しい」

「あ、ありがと。まあ、宣伝は上手く行くかは分かんないけど」

「今のままでいるよりずっと良いと思う」

 博くんはすごいなぁ、と思った。最初は、無愛想で怖い人って印象だったけど本当は優しくて、視野がとても広い。自分の〝好き〟を活かして行動に移せている。それを羨ましく思った。

「やっぱり、工房以外のコミュニティって必要だよなぁ」

 碧は最近、自分は博くんと違って工房以外の活動場所やトランペットを吹くことみたいな趣味がないのを気にしているようだ。

「前も言ったけど、周りがどうとか気にすんなよ。無理に作ったって意味ないんだし」

「そーだけど……お前ばっか真日那を喜ばせててずるい」

「なんだよそれ」

「俺は碧にいつも感謝してるよ。碧が隣にいてくれるから頑張れるんだから。皆で同じことをしなくて良いんだよ、それぞれに出来ることをして行こう。俺だって、工房以外のコミュニティないしね」

「まあ、そうだよな」

 その後は、仕事の話しは一度閉じて美味しいピザを始めとするイタリアン料理を食べて飲んで、楽しい時間を過ごしていた。一時間くらい経った頃だろうか、目の前のステージに演奏者が集まってきた。

「お! 演奏始まるみたいだな。今日は、金管楽器バンドによる演奏だって!」

「やった、金管楽器! 楽しみ」

 俺たちにとって一番馴染みのある楽器だ。どの楽器もリペアをしてきた。まだ一年も経っていないというのに、工房を継ぐと決めた日がもう遠く感じる。それくらい、工房で働き始めてからの日々が、それまでとは比べものにならないくらい濃いということだ。

「金管楽器ってやっぱりかっこいいねー」

 力強い音のイメージがあるけど、バラードの時はすごく繊細に響く魅力的な楽器。同じ楽器でも吹いている人が変われば、その音は全然違って聞こえてくる。今、トランペットが目立つ曲が演奏されているけれど、この前の博くんの音色の方が断然良かったなと感じてしまっている。贔屓もあるかもしれないし、その時の気持ちによっても音楽の伝わり方は変わってくるのだろうけど……。たぶん、数か月前の俺なら博くんの音と今のトランペットの音の違いなんて、きっと気にはしなかっただろう。音は全部同じ音。そう思っていたに違いない。だけど、今では全然違うのだと分かる。

「このバンドのトランペットの人、めちゃくちゃ上手かったな」

 全ての演奏が終わり、追加のお酒を飲んでいる時に博くんがそう言った。

「だな、全体的にレベル高かった」

「そうなの? 俺は、博くんのトランペットの方が好きだし良いなと思ったけどなぁ」

「……そ、そうか」

「博、照れてる~」

「煩いっ! プロの音より好きって言ってもらえるの嬉しいに決まってる」

 顔を赤くして博くんはそう言った。

「博くんは、プロじゃないの?」

「俺は、趣味で吹いてるだけだからな。トランペットを吹くことを本業にしてないし、するつもりもなかった。だけど、バンドで吹き始めたらプロってことになるのか?」

「そうなるんじゃね? お前の演奏はプロ並みだなってオレも思ってるし。博のバンドでの演奏聞くの楽しみだな」

「俺も楽しみ」

「……がんばる」

「俺もがんばんないとなー」

 今までは、まだ学生で大目に見てもらえていたところもあると思う。父さんの後を継ぐ、ということはつまりは一般的な会社でいう社長になると言うこと。それは、とても荷が重いと思っているけれど、大好きで大切な工房の為だ。俺も俺に出来ることをしていかなくてはいけない。

「あんま気張りすぎるなよな」

「碧もね」

「お前ら二人ともだ。もうこの前みたいになるのは勘弁だからな」

 そう言って博くんは笑った。

 

それから、日々は怒涛に過ぎていった。三月は卒業式や入学式の前、定期演奏会シーズンということもあり仕事がある日は暇だなぁ、なんて思う時間もないくらい忙しかった。

「予約人数見ると、SNSやホームページ改装した影響もあって去年よりも増えてるよ」

 新庄さんがパソコンをチェックしながら、そう嬉しそうに言った。

「良かったです」

「予約が増えるのはありがたいけど、今度はスタッフの人数足りなくなってきてるかもね。真日那くんは、ちゃんと休めてる?」

「大丈夫ですよ。碧か博くんと休みが被れば一緒にコンサートやライブ聞きに行ったりして気分転換してますし、一人の時は家で本読んだりしてちゃんと休んでます」

「それなら良かった。忙しいのは良いけど、匠みたいになっては欲しくないからね」

 先月、俺が新庄さんに昔の工房の話しを聞いてから新庄さんは俺と会話をする時に頻繁に、父さんの名前を出すようになった。新庄さんとしては今まで父さんを避けてきた俺が父さんに興味を示し始めたのが嬉しくて、たまらないのだと思う。だけど、別に俺は父さんを好きになったわけではないし、リペアの仕事をしていて父さんのようになりたいとか、思い始めた訳ではない。生きていた頃よりか、嫌いという感情が少し薄まったくらいだ。

「大丈夫ですよ、俺は父さんとは違いますから」

 同じになるはずがない。同じになんてなりたくない。俺が、息子である限り同一視してしまうのは、仕方ないかもしれないけれど事あるごとに父さんを引き合いに出さないで欲しいなぁ、と感じている。最近、そんなちっぽけなことでイラついてしまうのは、きっと春のせいだ。

 今日の締め当番は俺と椿さんだった。椿さんは、碧の事故以来二人とも何となく打ち解けているようだ。

「真日那さんは、専門学校に通っていないのにもう葛城さんと水無瀬さんに追いついてしまってますよね」

「えぇ、さすがにそれはないですよ。二人にはまだまだ及ばないし、俺なんて全然……」

「いやいや、真日那さんが今出来ていること、僕なんて一年くらいはかかりましたよ。それに、真日那さんは仕事を覚えるのが早いだけでなくて誰よりも優しくて、皆を安心させる力を持っているのがすごいです」

 キラキラした目で、椿さんはそんな嬉しい言葉を言ってくれた。

「やっぱり匠さんの血を引いているから、なんですかね」

 せっかく嬉しい気持ちになっていたのに、その言葉であっという間に気持ちが転落した。椿さんも、やっぱりそう言う目で俺のことを見ているのか……と。きっと、本人に悪気はないのだろう。だけど、俺にとってその言葉は何よりも腹ただしいものだった。でも、ここで怒る訳にもいかないし怒ったところで、何で怒るの? と思われて終わりだろう。

「そう、かもですね。よし! これで締め作業は終わりですね、帰りましょうか」

「はい」

 さっさと話題を変えて俺はカバンを手に持ち外へ出た。

「じゃあ、お疲れ様です」

「お疲れ様です」

 椿さんとは家が逆方向だから、坂道を降りた所で別れられてほっとした。あのまま一緒にいては言いたくないことを言ってしまいそうだったから。トボトボと家までの道のりを歩く。父さんって、そんなにすごくて良い人だったのだろうか。俺が知っている父さんは、皆があそこまで尊敬するような人には見えない。

 家に帰って久しぶりに書斎に入った。書斎は、書籍類やノート類を動かしただけで、生きていた頃からあまり変わっていない。

「仕事人間って感じの部屋だよね……」

 家族写真の入った写真立てなんてものはない。きっと他の家にならあるであろう子どもが作った折り紙とか、そういう類のものもない。まあ、俺が作らなかったのだからなくて当然なのだけど。どちらかが親子として歩み寄ろうとしたら、何か変わっていたのだろうか。いや、無理だろう。今だからそんなことを思えるようになっているけれど、父さんが生きていた頃は少しだって思う隙はなかった。

「皆、今でも父さんが好きみたいだよ」

 そうぽつりと呟いて、書斎を出た。


 最近、父さんのことをよく考えるからか久しぶりに魔法の部屋にあるトランペットを触りたくなった。朝早くに工房を訪れて、鍵を開けた。ここの鍵は俺だけが持っている。夏のあの日に比べたら、もわっとした空気は収まっていたけれど埃ぽいのに変わりはない。普段使わないのなら、何か別のものに建て替えたりしてしまえば良いのにと思うけど、皆そんなことは出来ないのだろう。ここを神聖な場所だときっと思っているから。

 棚からトランペットのケースを持ち出して、机の上で開けた。トランペットはあの日のまま綺麗な状態だった。手を触れてみるが、やっぱり何も聞こえてはこなかった。結局この不思議な力が、役に立ったのは理人さん、愛菜さん、博くんの時の三回だけ。父さんにはなくて、俺にだけある力で何かものすごいことが出来るのではないか、なんてあの夜は思ったけれど別に大したことは出来ていない。俺は、父さんのように元の音よりも良い音に変えてしまうほどの腕を持っていないし、この力は父さんにこそ宿る必要があったものではないのか、と思う。怖い想いをしながら工房を訪れる人なんて今はもういないのだから……。

「何の為にあるんだろう」

 よく分からない力だ。あってもなくても変わらない気がする。使った時も、別に力が状況を解決してくれたわけではなくて、当人間で収まっていた。この不思議な力があるっていうのは、皆よりも劣っている俺にとっては自信のつくものではあるけれど。まあ、考えても分からないか……と思いながらトランペットを見つめた。

 俺が、このトランペットを吹く日がきたりするのだろうか。あの夜は、全くそんな気はなくて誰か、トランペットを愛している人の元に渡ってくれたら良いと思っていた。

「ちょっと、だけ……」

 トランペットを構えてみたくなった。

「こんな感じだったよね」

 構え方が合っているかは分からないけれど、博くんを思い出しながら構えてみたら何だかとてもドキドキした。悪いことをしている気分だ。だけど、別に悪くはないのだ。これは、俺の父さんのトランペットでもしかしたら、いつか俺の物になるかもしれないのだから……。

「そろそろ向こう行かないと」

 名残り惜しかったけどトランペットをケースに仕舞って、部屋に鍵をかけた。


「なぁ、真日那と博さ今週の日曜日空いてる?」

「空いてるよ~」

「俺も夜なら空いてるけど」

「じゃあさ、このライブ一緒に行かねー? 理人が働き始めたライブハウスでやるやつなんだけどチケット三枚貰ってて」

「ライブハウスか、俺初めてだけど大丈夫かな?」

「大丈夫大丈夫! オレも初めてだし。ちなみに博は?」

「俺は、最近バンド仲間に誘われて初めて行って来た」

「おー経験者がいるの心強い!」

「経験者ってほどでもないけど」

「初心者二人よりか断然良いって。な、真日那!」

「うん、ライブハウスってイケイケな人がいるイメージだからちょっと怖いけど、でも楽しみ」

 きっとまた今までとは違う音楽を知ることが出来るのだろう。最近、色々な音楽を知っていけるのがすごく楽しい、と思えているのだ。だから、初めてのことにも積極的に挑戦していきたいと思っていた。

「よし、じゃあ決まりな!」

碧は嬉しそうに言った。


 そして、次の日曜日俺たちはライブハウスを訪れた。あまり都内に出ることも少ないので、三人で妙に緊張しながら街を歩いていたがライブハウスに入り音楽が始まるとそこはとても、とても楽しい空間だった。今まで聞いてきた音楽とはまた違った雰囲気だったけどこういう音楽も良いな、と思った。ロックバンドというものらしい。ボーカルもいて、ドラムもあって賑やかだ。馴染のない音楽、空間、人ばかりだけど唯一、トランペットだけは身近な楽器で、俺はついついトランペットばかりを追ってしまった。やっぱり、かっこいいなぁと思う。何で、あんなに上下に動かして綺麗な音を響かせられるのだろう。次の曲はバラードだったけど、バラードはバラードで綺麗な音を響かせていた。

「良いなぁ……」

 思わず声に出してしまった。だけど、きっとこの力強い音楽に俺の声なんてかき消されて碧にも博くんにも聞こえていないだろう、と思っていた。


「ライブ楽しかったな~! たまにはロックバンドも良いな」

「そうだね、俺も楽しかった」

「そう言えばさー真日那、やっぱりトランペットやりたいんだろ⁉」

 ライブが終わり、俺と碧は先にライブハウスの外で博くんのことを待っていた。博くんは、自分もジャズバンドを組んでいるからか今日のトランペット奏者の人と少し話しをしたいそうで、楽屋に挨拶に行っていた。

「別にそんなこと……」

「躊躇わなくたって良いだろ~さっきライブ中にトランペット見ながら〝良いな〟って言ってたのちゃんと聞いたぞ~~」

「……楽しそうだな、とは思うけどそれだけだよ。それに、今更楽器を始めたってどうしようもないし」

 今は、工房のことで精一杯なのに新しい趣味を作れるほど余裕はない。音楽をやるにはお金だってかかるし。

「どうしようもないことねーんじゃないかなぁ。だって、真日那は匠さんの息子だぞ? リペアの素質だってあったんだから、トランペットだってきっと簡単に吹けちゃうよ」

「簡単になんて吹ける訳ないよ。今の発言は博くんがいたら碧、怒られてたよ」

「そうかもな。まあ今はそこはどーでもよくて、とにかくオレは真日那が楽器にしかもトランペットに興味持ってくれたのがほんっとうに嬉しいんだよ。知ってるだろ、匠さんがずっと真日那にトランペットやって欲しかったの」

「知ってるけど……」

「絶対、匠さんだって喜んでくれるんだからやってみれば良いじゃん「碧っ!」

 碧が、俺が最も嫌いな言葉を言い放った時、それを遮るようにライブハウスから出てきた博くんが碧の名前を呼んだ。

「……あ」

 碧は何とも言えない表情をしているけど、俺の怒りはもう止められそうになかった。

「何で、そんな風に言うの? 父さんに喜んで欲しくて、トランペットに興味持った訳じゃないんだよ。リペアマンの仕事も、工房のことも、全部父さんの為じゃない。純粋に、俺がただ好きになっただけ。なのに皆、二言目には父さんの名前を出してきて……っ俺は、父さんの代わりじゃないんだよ? 俺は楠真日那っていう一人の人間なのにっ。純粋にトランペットを、楽器を、リペアマンの仕事を、工房を好きになっちゃいけないの⁉」

 ここ数日溜め込んでいた不満が一気に溢れ出してしまった。

「ご、ごめん。真日那、オレ……」

「博くんだって、どうせ俺はトランペットを好きになるのは必然だって思ってるんでしょ?」

 俺がそう問いかければ博くんは気まずそうな表情を見せた。その表情が、俺の問いに対しての答えだ。

「二人だけは、碧だけは違うって思ってたのに。俺を通して父さんを見るようなことはないって。だけど、結局二人も他の皆と同じなんだね」

 悲しくて、溜まらなかった。碧は、俺と父さんの間に亀裂が入った原因を知っているから父さんみたいなことを言わないだろうって、信じていたのに。

「ごめん、オレ今日のライブがすごい楽しくて真日那が本当に楽しそうにライブ見てくれてるのが嬉しくて、匠さんが生きていた頃からは想像も出来ないからさ。音楽なんて嫌いってずっと言ってたから、だから感極まって……」

「碧、お前今しゃべんない方が良い」

「何でだよ⁉」

「いーから黙っとけって。あーなんだ、純粋に好きになっちゃいけないなんてことはないし、俺も真日那がトランペットを音楽を好きになってくれて嬉しい。細かいこと気にしてないでさ、やってみたいって思ったならいつでも始めてみたら良いんじゃね?」

 博くんは、きっと碧のフォローに回っているのだろうけど全く俺の心には響かなかった。それどころか怒りは更に増すばかりで……。

「碧もさ、ライブ後の高揚感? で言っちゃってるだけだしさ気にすんなよ」

「そーいう問題じゃないっ! 俺にとっては全然細かいことじゃないんだよ。好き勝手言わないでよ。俺のこのどうしようもない気持ちなんて、誰にも理解されないんだろうね。せっかく変わってこれたって思っていたのに。俺が変われたって、皆が過去を父さんをいつまでも想い続けていたら、一生変わることは出来ないよ……っ。二人なら分かってくれるって思ってたのに……」

 ぽたり、といつの間にか俺の瞳からは涙が零れ落ちていた。

「……二人とも、大嫌いっ‼」

 涙を零しながらそう叫んで、俺はライブハウスの前を一人で走り去っていった。






碧の気持ち


「最悪だ……」

 真日那が立ち去った後オレはぽつり、とそう呟いた。

「本当だよ。何でお前があんなこと言うんだよ。俺ならまだしも……」

 はぁ、と博も深いため息をついた。せっかく数分前までは楽しい気持ちで一杯だったのに。天国から地獄に突き落とされるとは正にこういうことを言うのだろうなぁ、なんてどうでも良いことを思った。

「どうしよう、絶対真日那に嫌われた」

 あんなにも怒る真日那を見るのは初めてだった。もちろん、大嫌いなんて言われたのも初めてだ。

「真日那に嫌われたら生きていけないよ。助けてくれよ、博……っ」

「大げさなんだよ。明日になれば、きっとけろっとしてるだろ。お前も真日那もライブ後の高揚感で、口が滑っただけだ」

「そうかなぁ……」

「今はそう思っておけ。もう面倒ごとは懲り懲りだ」

 ほら、帰るぞと言って博は先に歩き出した。オレも仕方なく後に続いた。ここにいたって真日那が帰ってくるわけでもないのだから、立ち止まっていても仕方がない。皆で飲んで帰ろうなんて思っていたけど、とてもそんな気にはなれず真っすぐ最寄り駅まで戻った。

「明日、仕事休みたい」

「学校じゃねーんだから、喧嘩したからって休むなよ」

「分かってるけど……」

 いったいどんな顔をして会えば良いというのだ。けろっとしてると博は言ってくれたけど、真日那は案外頑固なところがある。きっとすぐに許してなんてくれない。

「今日は、さっさと寝てちゃんと明日来いよな。って何で俺がこんなこと言わなきゃいけないんだ……お前、俺らよりも年上だろ。しっかりしろよな」

「うん。最近、博には迷惑かけてばかりだよな。ごめん、今日は付き合ってくれてありがとな」

「別に。ライブは楽しかったし……まあ、俺も悪いこと言っちゃったし明日また謝ろう」

「そうだな」

 また、明日と手を振ってオレたちは別れた。

 一人になると急に寂しさが襲ってきた。あぁ、今すぐ時間を戻せる力が欲しい。そうしたら絶対にあんなこと言わないのに。いや、ライブ後の高揚感は変わらないだろうし、誘わなければ良いのだ。そんなことを思ったって、どうしようもないのについ願ってしまう……。


 自宅に戻り、しばらくぼんやりとベッドに横になっていたがふと思い立って、本棚の下の方にしまってあるアルバムを取り出した。ペラペラと捲っていくと、色んな時代のオレたちがいた。真日那が四歳で、オレが六歳の時に出会って、そこからずっと一緒にいた。引っ込み思案で、あんまり笑うことも泣くこともなくて、きっと真日那は他の人から見れば何を考えているか分からない子どもだったのだろう。だけど、オレだけは分かったのだ。真日那が無表情でも、今何がしたいのか、嬉しいのか、不満なのか、全部分かっていた。オレが、他のグループに交じって鬼ごっこやろうって誘った時、真日那はオレの袖を掴んで俯いた。嫌だ、とは言わなかったけど真日那がしたくないと思っている時の癖だった。真日那は、子どもの頃から優しかったから、嫌だとか人が傷つく言葉は言わなかったし、首を振ったりもしなかった。小さく、オレにだけ分かるようにいつも抵抗していた。そんな真日那がオレは大好きで、この先の未来もオレだけは、真日那のことを一番に分かってあげたい、そう思っていたのに……。

「ほんっとに、馬鹿だな……っ」

 写真の中の二人を撫でながら、オレはそう呟いた。

昨晩は、全く眠れなかった。目を瞑ると怒った顔の真日那が浮かび上がってきて、苦しくなった。眠たい目を擦りながら工房へと向かっていった。いつも、シフトが同じ日は約束をせずとも同じ時間に小径で合流するのに、今日は出会わなかった。

「おはようございます」

 そう挨拶をして工房に入ると、既に真日那は出勤していた。オレと鉢合わせない為に早めに来ていたのか。完全に避けられてしまっている……。今日は、誠心誠意を込めて謝ろうと思っていたが、もう既にダメな気がしてきた。

「おはようございます」

 席に着くと、隣の真日那がそう挨拶をしてくれた。口なんて聞いてくれないと思っていたから、驚いた。敬語で余所余所しいけれど……。

「お、おはよう」

 それでも、声をかけてくれたことが嬉しくて、オレもぎこちなく挨拶をした。その後も業務中真日那は必要であれば、ごく自然にオレに接してきた。まあ、明らかにオレたちの間に何かあったのだろうと言うことは博以外にもすぐに感じ取られたようで、休憩時間に詰め寄られた。

「碧くん、今日どうしたの? 真日那くんなんか変じゃない?」

 新庄さんが、休憩室で二人きりになった時に静かにそう問いかけてきた。

「……実は、昨日喧嘩しちゃいまして」

「喧嘩⁉ 碧くんと真日那くんが?」

「はい、博も一緒に。オレと博が真日那の嫌がること言っちゃって……博よりもずっとオレが言ったことの方が最悪だったんですけど……」

 ぽつり、ぽつり、と昨日あったことを伝えたら新庄さんは困った顔をした。

「博くんに、自分が真日那くんにいけないこと言いそうになったら止めてくれとは言われてたけど、まさか碧くんの方が言っちゃうとはねぇ……」

「オレ自身びっくりしてます。オレも博が言いそうになったら止める気でいたのに、まさかオレの方がって……。だけど、本当に嬉しくて、きっと新庄さんだってオレと同じ立場だったら言っちゃうと思いますよ」

「そう、かもしれないね……。だって、匠の願いをずっと聞いてきてしまっているからね」

「ですよね……」

「碧くんの話しを聞いて、僕ももしかしたら真日那くんのこと怒らせちゃってたかもしれないなっていうの思い出しちゃった……」

「え? 新庄さんも既にやらかしてるんですか?」

「この前、最近真日那くんが忙しそうにしてるから匠みたいにならないようにねって言っちゃったんだよね。それ以外にも真日那くんと話してる時、つい匠は匠はって話しちゃってたかも……」

「あーそれは、ダメなやつですね」

「だよねぇ……だけど、真日那くんが匠の話しを聞きたいって前に言ってくれて。それがすごく嬉しかったんだよね」

 新庄さんもオレと同じだった。新庄さんの気持ちが、オレは分かってしまった。大好きな大切な人が、大好きで大切だった人を嫌ったままは悲しいから。だから、少しでも良い兆しが見えたら嬉しさは普通の倍くらいになってしまうのは、仕方がないだろう。仕方ないけれど、その嬉しさを真日那に無理やりぶつけるのは違うと言うのも分かっている。

「真日那くん、もしかしたらストレスが溜まっていたのかもしれないね。それで、碧くんと博くんの言葉で爆発しちゃったのかも。ごめんね、僕も気を付けておくべきだった」

「いや、悪いのはオレなんで。すみません、工房の空気悪くしちゃって……」

 今は忙しい時期で、仕事に集中しないといけないのに余計なことを持ち込んでしまったのを後悔していた。先に真日那がストレスを少しずつ抱え始めていたなら、早く気づいてあげるべきだった。そうすれば、こんな喧嘩にもならずに工房の空気も良いままだっただろうに……。

「オレ、帰りにちゃんと真日那に謝ります」

「うん、きっと大丈夫だよ。僕も謝らないとね」

「……俺も」

「博……」

 いつの間にか休憩室に入ってきていた博が、そう言った。

「皆で謝ろう。真日那くんだって、いつまでもこんな空気なのは嫌なはずだしね」

「はい」

「碧は余計なこと言いそうで怖いけどな」

「さすがにもう言わねーよ!」

「どーだか」

 新庄さんと博と話していたら、少し気持ちが楽になった。


 だけど、その日は全く話しかけられる雰囲気にならずに謝りに行くタイミングが出来なかった。オレと博が落ち込んでいると新庄さんが、大丈夫だよと励ましてくれたけどそれから数日間、真日那に謝ることが出来ないまま時間は過ぎていってしまった——



博の気持ち


 真日那と喧嘩をしてから今日で四日目。明日は金曜日で休みを挟む前に何とか謝りたかった。あの日から、真日那はずっと淡々と仕事をしていた。お客さんに対してはいつも通りの真日那だけど、違和感がありすぎて珍しく俺は仕事に集中出来なかった。こんなの俺らしくない。何があったって、仕事が第一なはずなのに。友達の調子が悪いからって、集中出来ないなど少し前までの俺に言ったら、きっと怒られるだろう。

「集中、集中……」

 そう小声で唱えていると、真日那の怒った声が聞こえてきた。

「仕事に集中してよっ! 部品扱ってる所で水零すとかありえないんだけど!」

「ご、ごめん。手が滑って……」

「おい、どうした」

 見かねた俺は、立ち上がり二人の席の方へ向かった。自席でチューバのリペアをしていた碧が、ペットボトルの水を倒してしまったそうで、机の上が水浸しになってしまっていた。ギリギリ、部品や楽器にはかかっていないようだが、まあ真日那が怒る気持ちも分からなくはない。

「今日の碧、仕事に集中してなさすぎ! お客様の大事な楽器扱ってる自覚ある? それに、部品だって一個一個高いんだから無駄にしないでよ」

「……ごめん」

「このチューバのリペアは俺がする。集中出来てない人に、リペアさせるのは怖いから。俺よりもずっと、リペア歴長いのにこんな初歩的なことやらかすなんてありえないよ」

 真日那はそう吐き捨てると、碧からチューバを奪い取った。碧は抵抗することなく、項垂れてしまっている。

「やる気ないなら帰って」

「おい、真日那、さすがに言い過ぎだろ」

「言い過ぎって何? 当然のことを俺は言ってるだけ。時間もったいないから俺は仕事に戻るよ」

 何とも真日那らしくない言葉だ。いつもの真日那ならば、まず碧が水を零したら大丈夫? と声をかけてあげただろう。碧の心配なんてせずに、楽器と部品の心配しかしていない。気持ちは分かる。俺だって、まだ入り始めた頃の真日那に同じように怒ったことがあるし、何事においても集中していない奴がいたらイラつく。だけど、一方的に怒鳴って、碧を傷つける言葉しか言わない真日那は見ていて辛かった。

「碧、大丈夫か」

「……ごめん、オレ倉庫の掃除してくる」

 碧はそう言って立ち上がり、フラフラと倉庫へと向かった。真日那はもう何事もなかったかのように、仕事に戻っている。俺も仕方なく、席へと戻った。

「だいぶ拗れてるね……」

「すみません」

「博くんが謝ることはないけどね。それにしても、あの博くんが友達二人をこんなにも気にかけて動こうとする日がくるとはね。僕は少し嬉しいよ。喜んでもいられない状況だけどね」

「真日那と喧嘩してるのが俺ならよかったんですけどね。碧なら上手いこと仲直りさせてくれそうだし……でも、当の碧が喧嘩してるってなるともうどうしたら良いのか」

 碧は、謝ろうとしているし修復しようという気持ちがあるのに、真日那にそれがないのでは難しい。まさか、真日那がこんなに頑固な奴だとは思わなかった。普段穏やかで優しい人こそ、怒る時は一番怖いということか……。

「これは、今日も謝りに行くのは難しそうだね」

「そう、ですね……」

 今日こそ仲直りしたかったのになぁ、と思いながらその日は終わってしまった。


「お疲れ様でした」

 真日那は、定時になるとすぐに帰ってしまった。短い距離でもいつもは三人一緒に帰っていたのに……。俺も、さっさと帰るかと思ったが未だに倉庫から戻って来ていない碧が心配になって、一つため息を付きながら倉庫のドアを開けた。

「碧⁉」

 ドアを開けたそこには、床に蹲っている碧がいて俺は自分でもびっくりするくらい大きな声でその名前を呼んでいた。俺の声に気づいた新庄さん、五十嵐さん、椿さん、羽月さんも駆け寄ってきた。

「碧くん!」

「おい、碧!」

 身体を揺さぶると、今まで眠っていたのか薄っすらと碧の瞳が開いた。

「ひ、ろ……? あれ、オレ……」

「碧くん、ちょっとおでこ失礼するよ」

 そう言って、新庄さんは碧のおでこに手を当てた。

「少し微熱が出てるみたいだよ」

「え、きづかなかったです。でも、ほんと少し寝たらだいじょうぶになったんで……」

 そう言いながら碧は、立ち上がろうとした。

「おい、無理すんな」

「むりしてない」

 そう言いながらも、ふらついている碧の身体を俺は支えてあげた。

「無理してんじゃねぇか。はぁ、でも納得いった。やっぱ、今日調子悪かったんだな。じゃないと、お前が作業する所で水零すなんてミスするわけないもんな」

 おかしいと思ったのだ。だけど、多分あの場面で碧は体調が悪かったんだと真日那に言っても、そんなのただの言い訳だって言われるのが目に見えていたから何も言わなかった。前の俺ならそう言っていたと思うから。今の真日那は完全に、少し前の俺と同じような感じになってしまっているのだ。

「碧くん、無理しないで欲しいな。きつかったら明日は休んでも良いよ?」

「いや、今ここで休んだりしたら余計拗れる気がするんで……大丈夫です、ちゃんと寝てすぐ直します」

「こいつが眠るの俺が傍で見ときます」

「え、別にそこまでしなくても良いって……」

「お前に拒否権はない」

「何それ……」

 碧は不貞腐れているが、新庄さんは嬉しそうに笑ってよろしくねと言った。

「きっと仲直り出来るわよ」

 五十嵐さんは、優しく微笑んで俺たちの背中を押してくれた。

「三人が仲良さそうにしているの見るの僕、好きなので。仲直りしてくれないと困ります」

 椿さんは、少し照れながら言った。

「そうだよ! 三人はまだ若いんだから喧嘩しても絶対仲直り出来るから!」

「ありがとう、ございます」

「すみません、オレが一番真日那のこと分かってやんないといけなかったのに……。真日那、喧嘩なんてしたことないから、きっとどうしたら良いか分かんなくなってるんだと思います。いつまでも、こんななのはオレも嫌なので明日こそちゃんと話します。お先に失礼します」

「お疲れ様です」

 お疲れ様、と皆は優しく見送ってくれて碧と並んで工房を出た。思っていたよりか足取りはしっかりしていて、ほっとした。

「ほんとに、来なくても大丈夫だぞ。時間の無駄なんじゃねーの?」

「もう、そんな風に思わない」

「……そっか。あーじゃあ、何か買ってから帰ろう。今日両親いないんだった」

「は? お前、俺が行くって言わなきゃそんな体調なのに、一人で過ごしたつもりか?」

「別に、子どもじゃねーんだし」

「そう言う問題じゃない。……お前って、ほんとダメだな」

 はぁ、と深くため息をついた。

「ダメってなんだよ」

「ダメなもんはダメだろ。俺が昔の俺のままじゃなくて良かったな」

「あーそれは思う。お前がオレたちの中に入ってくれて良かった。もし、真日那と二人きりの喧嘩だったら、もうオレ挫けてたかも」

「だろうな」

「ありがと、博」

 そんな風に素直にお礼を言われてしまうと、何だか妙に照れてしまう。

「さ、さっさと買い物して帰るぞ!」

 だから、照れ臭さを隠すように言葉を繋ぎ、早歩きでコンビニへ向かった。


 碧の家は一軒家だった。俺の家はアパートだし、真日那の家はマンションだから一軒家に上がるのはとても新鮮な気持ちだ。

「お邪魔します」

「どうぞー」

 碧が部屋着に着替えている間、俺はリビングに飾ってある写真立てを眺めていた。家族写真よりも、真日那と一緒に映っている写真の方が多い。写真の中の碧は、とても良い笑顔だった。真日那も、にこにこ笑っているような表情ではないけど安心しきっている顔に見えた。

「おまたせー」

「おー。写真立て見てた。お前らって、ほんとに小さい頃から仲良かったんだな」

「まーなー。小さい頃の真日那可愛いだろ?」

「そう、だな。……そう言えばさ、俺たち三人の写真ってないよな」

「ないなぁ。大人の男三人で写真撮るってのも変だろ?」

「そうか? 俺は、撮りたいけど」

「マジ?」

「こうやって、何年も前のが未来に残ってるの良いなって思った」

 俺には写真を撮るような友達はいなかったから、家族写真以外存在しないのだ。だから、二人を羨ましく思ってしまった。

「……じゃあ、さ、無事に仲直りしたら写真撮るか」

「良いな。その為にも早く仲直りしないとな」

「明日こそ、頑張る。さっさと食って寝る!」

 碧は笑顔で、そう宣言した。

 それから、カップうどんを食べて碧はベッドに入った。

「最近さ、眠れなかったの目瞑ると怒った顔の真日那を思い出して怖かったからなんだ……」

「そりゃあ、怖いな」

「だろ? でも、何か今日はもう平気な気がする。博がいてくれるおかげかも」

「そーかよ」

「あ、鍵はオートロック式だから気にせず帰ってくれて平気だからな」

「分かった。お前が眠ったの確認したら帰る」

「ははっ、何か恥ずかしいな」

「今更だろ。さっさと寝ろ。明日こそ仲直りするんだからな」

「おうっ! おやすみ……」

 碧は、そう言うと瞳を閉じた。それから、本当にすぐに規則正しい寝息が聞こえてきた。どうやら今晩は、怖い真日那は現れていないようだ。

「良かったな」

 そう呟いて、俺は碧の家を後にした。


 次の日の朝、何気なくニュースをチェックしていると今日は、午後から豪雨になりそうだと書いてあった。出勤時はまだ雨は、ぽつぽつと降っている程度だった。外はどんよりとしているが、工房内はやる気に満ちていた。

「よっし! 今日こそ仲直りします。昨日は迷惑かけてすみませんでした。ちゃんと、眠れたので今日は昨日みたいなミス犯したりしません。万全な体調で仲直りします」

 朝一番に碧は、皆にそう宣言をした。

「碧くん、博くん、すごく言いづらいんだけど……」

 せっかく碧が明るい空気にしてくれたと言うのに、新庄さんが今日の天気みたいに暗い声でそう切り出した。

「え、何ですか?」

「今日、真日那くん仕事休ませて欲しいって連絡がきて……」

「は?」

「体調悪いって言うから、出勤してくれとも言えなくて……申し訳ない!」

「いや、新庄さんは悪くないです。でも、今日絶対仲直りするって決めてたのに……」

「僕たちもそうして欲しい。だから、二人も休んで良いよ」

 新庄さんは、にっこりと笑ってそんな言葉を言い放った。一般的な会社ならばありえない話しだ。

「オレたちの勝手な喧嘩で、そんな仕事に支障出すようなことは出来ませんよ」

「大丈夫だから。三人が仲直りしてくれたら、この数日分しっかり取り戻してもらうから、今は仲直りに集中して」

 うんうんと他の皆も頷いている。全く、とんでもない会社だ。だけど、小さくて自分達だけで、何とか頑張って切り盛りをしているからこそ、こんな自由が許されるのだろう。

「分かりました」

 碧は力強く返事をした。

「ひとまず真日那の家に向かうか」

「おうっ」

 俺たちは、皆の優しい言葉に甘えて仲直りに集中することを決めた。

 


「あら? 碧くんに、博くんどうしたの? 真日那なら出掛けて行ったわよ?」

 真日那の家のインターホンを押すと、夏子さんが出て不思議そうな顔でそう言った。

「あいつ……っ! どこに行ったかって分かります?」

「ごめんなさい、分からないの」

「大丈夫です、それなら探すので。もし、帰ってきたらオレに連絡ください」

「分かったわ」

 よろしくお願いします、と頭を下げて俺たちは再び階段を降りた。

 こんな雨の日に俺たちはいったい何をしているのだろう。完全に振り回されている。

「まさか、真日那が仮病使うとはな~」

「なんで、ちょっと嬉しそうなんだよ」

「だって、真日那って超がつくほど真面目だろ? だから、嬉しくなっちゃった。腹は立つけど」

「あーまあ、そうだな。腹は立つけどな。ひとまず、探すか。雨だってのに面倒かけやがって……」

 全く仕方のない奴だ。だけど、きっと今頃一人でどうしようもない気持ちを抱えているのだろう。早く見つけ出して、仲直りをしたい、そう思いながら俺たちは真日那が行きそうなところを手あたり次第探し始めた。





真日那の気持ち


 やってしまった……と深くため息をつきながら俺は雨の中の駅前をぶらぶら歩いていた。社会人としてありえないことをしている、という自覚はある。それでも、今日碧と博くんと顔を合わせたら、またひどい言葉を投げかけてしまいそうで怖かったのだ。昨日の自分は、まるで自分ではないような感じだった。きっと、碧はひどく傷ついているだろう。早く謝りたいのに、謝り方が分からなかった。

「どうしよう……」

 こんな雨の日に俺はいったい何をしているのだろうか。今日も予約が入っていたはずだ。三月は繁忙期なのだから、いつまでも、うじうじとしていられないのに。今からでも戻った方が良いだろうか。だけど、何となく嫌で適当に時間を潰した。初めて、駅ビルに入っている楽器屋さんに入った。足は自然と金管楽器コーナーに向かい、トランペットの前で立ち止まった。綺麗だな。当然だけど、父さんのトランペットよりも綺麗だった。

「トランペットをお探しですか?」

 じっと見ていたせいか、店員さんに声をかけられてしまい俺は慌てて

「だ、大丈夫です!」

と言ってその場を逃げ出した。

「最近、図書館行ってないな」

 リペアの仕事に慣れるのに忙しかったし、工房で働き始めてから色んなことがあって、ゆっくり本を読む時間など気づいたら、なくなっていた。少し前までなら、いくらでも時間があったと言うのに。

駅ビルを出ると、さっきよりも雨は強くなっていた。そう言えば今朝、夜にかけて豪雨になるって言ってたっけ。速足で図書館まで向かった。こんな雨の日でも、隣に碧と博くんがいてくれたら楽しいんだろうな。自分から遠ざけておいて、そんなことを思ってしまった。二人は今頃どうしているだろうか。今日は確か、二人ともシフトが入っていたはず。俺が休んだことも伝わっているだろう。新庄さんには体調が悪い、なんて言ったけど、きっと二人は俺が仮病を使ったって気づいているかもしれない。真面目ではなくなった俺のことなんて、嫌いになってしまったかな。

図書館に入って、俺は案内図を見て、初めて訪れる音楽コーナーへ向かった。音楽コーナーには、父さんの書斎にもあったような本がいくつも並べられていた。碧は、こういう本を読むのが好きだと言っていたが、正直俺は何が楽しいのか分からなかった。楽器や音楽のことを知る為に少しは読んでみたものの、難しい言葉ばかりが綴られていて何も響いてこなかった。物語ならいくらでも読めるのに……。音楽については、テレビ番組やラジオとかで学ぶ方が楽しめた。

「はぁ……」

 つまらないな、と思ってついため息をついてしまった。一人でいるのなんて慣れっこなはずなのに、最近は三人でずっと一緒にいたから寂しくて溜まらない。ふと気づくともう午前中が終わっていた。どうしようかな、と思いながら雨の街を歩いた。

「あのお店やってるかな……」

 博くんの行きつけのジャズバー。ジャズバーなのだから、昼間はやっていないかもしれない。だけど、もしもを信じて俺はジャズバーへ向かって歩き出した。雨に加えて風まで強くなっている。雨風は楽器の天敵だから嫌いだ。



「やってる……」

 お店の前に着くと、店内に明かりが付いていたし音楽が聞こえていた。緊張しながら俺は、そっとドアを開けた。

「いらっしゃいませ。おや、真日那くんだったかな。今日はお一人?」

「はい、入って大丈夫ですか?」

「もちろん。このバーね、昼間はジャズ喫茶として運営しているんだよ」

「そうなんですね」

 夜に訪れた時とは、ずいぶんと雰囲気が違う。

「昼間の雰囲気も良いですね」

「ありがとう。昼間はね、オリジナルブレンドコーヒーがおすすめだよ」

「そしたら、ホットでお願いします」

「かしこまりました」

 博くんに紹介されてから時々、三人で飲みに来ることはあっても一人で来るのは初めてだった。ここに限らずこういったお洒落な喫茶店に、一人で入るのも初めてだ。雨の日の喫茶店は、こんなにも空いているのに、誰もいない。

「お待たせしました。コーヒー飲んだらきっと、気持ちが安らぐと思うよ」

「え、俺なんか顔に出てました?」

「いや。寂しそうな雰囲気が出てたから、ついね。何かあった? 私で良ければ話しを聞きますよ」

 マスターは、穏やかに微笑んでそう言ってくれた。誰かに話しを聞いてもらいたかったのは確かだ。でも、新庄さんや他の工房の人たちではまた父さんの名前が出るだけでイラついてしまうかもしれなくて、最近はまともに話せる気がしない。だから、相談出来ずにいた。何も知らないマスターになら……と思い俺は、コーヒーをひと口飲んでマスターの顔をじっと見つめた。

「コーヒーすごく美味しいです」

「それは、良かった」

「あの……本当にくだらないと思う内容かもしれないんですけど話し聞いてもらえますか?」

「もちろんだよ」

「ありがとう、ございます」

 俺はそれから、ぽつ、ぽつ、と最近の出来事を話し始めた。友達と初めての喧嘩をしてしまったこと、碧とは俺が四歳の頃からの付き合いで今まで、ずっと仲良しで喧嘩なんてしてこなかったこと、天才的な存在の父さんの面影を皆が追っていて、父さんの名前を出されるのが嫌なこと、言いたくもない言葉が次から次へと勝手に出てしまって傷つけた親友になんて謝れば良いのか分からないこと。

「俺、今まで碧以外友達なんていなくて、碧の次に出来た友達が博くんなんです。二人とも、俺にとって大切な存在で失くしたくないのに、ひどいことをたくさん言っちゃいました。もう、許してもらえないかもしれないです……。二人から絶交だって言われたら、どうしようって怖くて二人に会うのが怖くて、今日初めて仕事を仮病使って休んじゃいました」

 学校だって、風邪とかで以外休んだことないのに。初めて休んだ原因がまさか、友達と喧嘩をしたから、なんて。自分至上最も情けない出来事だ。

「俺、喧嘩をする前は喧嘩するって良いなって少し羨ましがってたんです。だけど実際してみると、何も良いことなんてないですね……一人は慣れてるはずなのに、すごく寂しくて仕方ないんです」

 碧と理人さんの喧嘩、博くんと愛菜さんの喧嘩、それらを間近で見てきたから言いたいことを良い合える存在がいるのって、羨ましいなと思っていた。一度喧嘩をしたって、また戻られて、更に深い絆で繋がりあえる、お互いにとってそれほど大事な存在になれるっていうことが、良いなと思っていた。二人にとって俺は、そんな存在になれているのだろうか。このまま捨てられてしまうのではないか、そんな恐怖が渦巻いている。

「若いねぇ。若い内は喧嘩をたくさんすれば良い」

「え?」

「喧嘩の時しか、相手の本音みたいのが分からないこともあるからね。喧嘩をして、より相手を深く知ることが出来る。そうやって、友達っていうのはどんどん絆が深まっていくんだよ」

「でも、それは許してもらえたらの話しですよね。このまま絶交だったら……」

「たった一度の喧嘩で、絶交なんて言ってくる人たちなのかい? 君の友達は」

 マスターの言葉にはっとした。確かにそうだ。碧は、誰よりも心が広い人で、俺のことを一番理解してくれている人。博くんも、付き合いはまだ浅いけど優しい人だ。

「……仲直り、出来ますかね」

「きっと出来るよ。私たちは人間なんだから、いつだって完璧にはなれない。間違ったことを言ってしまうこともある。だけど、それを分かっているなら素直に謝れば良い」

「はい……」

 怖いなんて思って、逃げていてはダメなのだろう。ちゃんと顔を見て謝らないといけない。

「俺、工房に戻ります」

 コーヒーを飲み干して、立ち上がった。

「うん、それが良い。あぁ、後もう一つ。君は、お父さんの存在をいつまでも追っている人たちに苛立ってしまうって言ってたね。お父さんのことを忘れろ、と相手に願うのは厳しいかもしれない。だけど、皆もきっと分かっているはずだ。君は君であって、お父さんと同じではないし、お父さんと同じようになって欲しいと願っている訳ではない。だから、君は君の信じた道を歩いて行けば良いと思うよ」

 その言葉は、すっと俺の心の中に入ってきた。俺は、俺が信じる道を行けば良い。その通りだ。俺は、工房が大好きでトランペットも気になっているし、色んな音楽も好きになっている。それらに、父さんは関係ない。

「マスター、ありがとうございます。また、三人で飲みに来ます」

「うん、是非来てね」

「はい!」

 そう言って、ドアを開けると目の前にびしょぬれの碧と博くんがいて、俺は何で⁉ と声をあげた。


マスターは、おかしそうにクスクス笑いながら店内にあげてくれて、碧と博くんにタオルを貸してあげた。それから、三人分のコーヒーを淹れてくれた。

「……なんで、俺がここにいるって分かったの?」

「真日那が行きそうな所なんて限られてるからな。ほんとは、もっと早く来たかったんだけど、外どしゃぶりでバスめちゃめちゃ混んでて」

「後、道端で転んじゃったばあさん助けたりしてたら、遅くなった」

「そっか」

 しんと静まり返ってしまった。早く謝りたいけど、どう切り出したら良いのか分からない。どこから、何から謝れば良いのだろう。

「真日那、本当に悪かった……っ!」

 先導を切ってくれたのは、やっぱり碧だった。碧は、立ち上がって頭を下げた。

「オレが、一番真日那のこと分かってやらないといけなかったのにっ! お前が嫌がることたくさん言って、すげぇ後悔してる。オレ、真日那に嫌われたら生きていけないっ。こんなオレだけど、仲直りしてくれないか?」

 碧の声は、ひどく震えていてこんなにも碧が俺のことを想ってくれているのが嬉しかった。

「……俺も、ごめんなさい。碧を傷つけることたくさん言った。博くんにも……。二人に絶交って言われたらどうしようって思って……怖くなって、今日工房に行けなかった。こんな雨の中、探してくれてありがとう」

 俺が、そう伝えれば碧は安心したように頭を上げた。

「真日那~~~~」

 碧は、そう言うと俺に抱き着いてきた。

「碧、苦しいって……」

「だって、久々に真日那の穏やかな声聞いたらそれだけで、泣きそうで……っ」

「あー鬱陶しい碧が戻ってきた……」

「なんだと~~お前だって、嬉しいくせに」

「嬉しい、けど。……真日那、この前は細かいこと気にしてないで、やってみたいって思ったならいつでも始めて見たら良いんじゃね? なんて軽々しく言って悪かった。新しいことに挑戦するって、そんな適当な気持ちで出来るもんじゃないよな」

「ううん、俺もムキになっちゃった。今はまだ、工房のことで精一杯だけど、もしいつか、やっぱり始めたいなって思ったらトランペット教えてくれる?」

「あぁ、もちろん」

 博くんは嬉しそうに頷いてくれた。


 それから、無事に仲直りをした俺たちはコーヒーを飲みながら語った。

「俺さ、工房のこと大切だしトランペットも気になってる。音楽にも色々興味出てきたんだ。だけど、それらには父さんは別に関係なくて、俺の純粋な気持ち。父さんの為とか、父さんが喜ぶかもとか、そんなのは俺の気持ちの中には何もないんだよね」

「うん」

「新庄さんも、気にしてた。この前、真日那の前で匠さんの名前たくさん出しちゃったって」

「そっか……でもね、皆に父さんを忘れて欲しいとか父さんの名前を俺の前で出さないで欲しいとか、そういうことではないんだよ。皆にとって、父さんの存在が大きいことは分かってるし。ただ、俺のことは俺個人として見て欲しい。血は繋がっていても別人だから。父さんの代わりに俺はなれない」

「あぁ、ちゃんと切り離すようにする」

「真日那は真日那だもんな」

「ありがとう。俺は、俺なりに工房を存続させていく方法を考えていくよ」

 きっかけは確かに、父さんだった。だけど、この道を選んだのは俺自身だ。父さんが大切にしていた工房だから守りたい、のではなくて俺にとっていつの間にか大切になっていた場所だから、ずっと守っていきたいのだ——


そんな風に思っていた時だった。ポケットに入れていたスマホが珍しく着信を告げた。

取り出してみると、そこに表示されていたのは〝新庄尚哉〟の文字。

「新庄さんから、電話だ」

 俺のその言葉に、二人も不思議そうな顔をした。俺は、恐る恐る通話ボタンを押した。

「もしもし?」

『真日那くんっ! 工房が大変なんだ!』

 切羽詰まった新庄さんの声に、俺の心臓はバクバクと変に鳴り響いていた……。


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