シャンベリー伯爵令嬢の論破劇

十井 風

その話、本当でしょうか?

「アデルハイト、俺はお前との婚約を破棄させてもらう!」


 はつらつとした青年の声がホールに響く。それまで優美な音色を奏でていた演奏家達の手がぴたりと止まり、同時に思い思いに楽しんでいた人々の視線が中央の男女に集まる。


 声をあげた青年は、困惑した表情を浮かべる可憐な令嬢の肩を抱き寄せ、眼の前に立つ令嬢に向かって指を突きつけていた。突きつけられた令嬢は、ぴくりとも表情を動かさず、濃い茶色の瞳は冷たい。


 アデルハイト・シャンベリーはふぅっと息を吐く。自分に婚約破棄すると寝ぼけたことを言っているこの男――ラルフ・クロトーネは伯爵家の長男で、不服なことにアデルハイトの幼なじみである。お互いの母親が女学校時代の同級生で仲が良いが、アデルハイトとラルフは仲良くない。


 アデルハイトはラルフの隣に立ち、動揺している令嬢に視線を移す。彼女はジェイダ・バスティア。男爵家の娘である。個人間での交流はないので彼女の事はよく知らない。そして、どういうわけか、右胸(ジェイダ側から見て左)から腰あたりにかけてドレスに赤いシミが出来ている。


 ラルフは鼻息を荒くしてアデルハイトに怒鳴りつける。


「ジェイダから聞いたぞ。お前、彼女が憎いからと様々な嫌がらせをしていたようだな。そんなことをしても俺たちの愛は揺るがない! 俺は真実の愛を見つけたんだ‼」


 恍惚な表情を浮かべ、アデルハイトに叫んだラルフはジェイダを抱き寄せる。まるでこの世界の主人公が自分達であるかのように振る舞っている。アデルハイトは彼らに全く興味がなかったが、聞き捨てならない言葉が引っ掛かった。


「わたくしはあなたの事など心底どうでも良いのですが、一つお尋ねしてもよろしいでしょうか?」


 物言いは丁寧だが有無を言わせない態度に、ラルフは険しい表情を浮かべて頷いた。


「わたくしがジェイダ嬢に嫌がらせをしたという点ですけれど、具体的にどのような事をしたのか教えてくださいます?」

「お前がやったことだろう。覚えていないとすっとぼけるつもりか! ワインや水をかけられたとか話しかけたのに無視をしたなど、たくさんあるぞ」


 ラルフの言葉にアデルハイトは表情をぴくりとも動かさず、首を傾げた。彼女の動作が人形めいて不気味だったのか、ジェイダは小さな悲鳴を上げる。


「なるほど、わたくしにはどれも身に覚えがありません。ですが、公の場であらぬ疑いをかけられたままでは不利益を被ってしまいますので、一つずつ訂正させていただきましょう」


 アデルハイトは一歩、彼らに近づいた。


「では、まずワインをかけたという点からいきましょう。ジェイダ嬢、わたくしはいつどこでどのようにしてあなたにワインをかけましたか?」


 アデルハイトの威圧感にジェイダは瞳に大粒の雫を浮かべる。しどろもどろになりながらも彼女の問いに答えていった。


「さ、先程、通りすがりにかけられました……。ば、場所はこのホールに繋がる廊下です」

「わたくしはあなたに勢いよくワインをかけたのですね?」


 それでこのシミが出来上がった、と言うとジェイダは小刻みに頭を縦に振る。

 アデルハイトはさらにジェイダへ近づき、赤いシミをよく見た。


 赤いシミは、ジェイダの右胸を起点として真っ直ぐ滝のように腰辺りまで縦に広がっている。まるで太い絵筆で線を引いたかのようだ。

 アデルハイトは頷くと、ジェイダを見据えて言葉を紡ぐ。


「ワインを勢いよくわたくしがかけた、とあなたはおっしゃいますが、おかしな点が2つあります」


 アデルハイトは指を2本立ててみせた。


「まず1つ目。勢いよくかけたのなら飛沫が上がって細かなシミもつくはず。しかし、あなたのドレスについたものは『綺麗な』ほど真っ直ぐです。なぜ、周りに小さなシミすら出来ていないのでしょう? このようなシミを作るには自分でグラスを傾けて濡らさないと出来ませんよね」


 アデルハイトの指摘にラルフはジェイダのドレスを観察し、確かにと頷いた。


「2つ目。シミがあるのはこちらから見て右胸。ということは、左手でグラスを持ち、あなたにかけたことになります。しかし、わたくしの利き手は右。グラス以外、持つものがなければ利き手を使うのが普通でしょう? 仮に右手でグラスを持っていたとしても、右胸までには距離がある。勢いよくかけないと届かない。よって飛沫が上がります。不自然なほど真っ直ぐ縦に汚れたシミの説明がつきませんね」


 アデルハイトの説明にラルフはなるほどと納得し、ジェイダは目を泳がせる。


「では、次。水をかけられた点ですがこちらもいつどこで?」

「ガ、ガーデン伯爵のお庭を見ていた時です」


 社交界一、植物を愛するガーデン伯爵は自身の邸宅の庭にかなりこだわりを持っている。春夏秋冬の区画を作り、その季節ごとに花が咲いたら客人を呼び庭を案内して見せるのが恒例であった。貴族たちも美しく整えられた庭を見るのが楽しみで、社交界では『お披露目会』として人気の行事になっている。


「どんなもので水を? どの時に? 濡れ方は?」

「桶に入った水を私とアデルハイト様の二人きりになった時……です。頭から水を被り、全身びしょ濡れになりました……」


 アデルハイトは少し考える。やはり納得いかないようで首をまた傾げた。ジェイダはひぃっと青ざめる。


「おかしいですね。まず、ガーデン伯爵のお披露目会は、伯爵の案内のもとみんなが庭を見て回ります。二人きりになる機会などまずありえません。二人きりになれたとしても、護衛も侍女もつけずに令嬢がうろうろするなんて起こり得ますか?」


 そして息継ぎをした後、彼女は続ける。


「あなたが主張する濡れ方ですが、頭からずぶ濡れになるほど濡らすには大きめの桶を用意しなければなりません。わたくしが言うのもなんですが、ただの令嬢が水が入った大きめの桶を持ち上げられますか? 頭から被ったとなればあなたの頭頂部より高く持ち上げなければなりませんが」


 身長差があまりないわたくしに出来ると思いますか? と聞かれ、ジェイダは首を横に振るばかり。隣に立つラルフはなるほどと納得している。


「では最後。わたくしがあなたに話しかけられて無視をした、という点ですがいつどこでどんな時に起こった話ですか?」

「せ、先月のお茶会で私から話しかけたら無視をされました……」


 アデルハイトは少し黙って、また首を傾げた。いよいよジェイダは震え上がり、ぽろぽろと涙をこぼす。


「わたくしの家は伯爵家、たいしてあなたの家は男爵家。あまり言いたくはありませんが、身分の低い者から高い者へ話しかけるのはマナー違反です。わたくしでなくても無視をします。貴族のご令嬢ならこのくらいのマナーは知っていて当然。さすがに知らなかった、ということはないと思うので今咄嗟についた嘘ということではありませんか?」


 ジェイダは答えることが出来ずに嗚咽をあげる。ラルフは隣でなるほどと納得し、ジェイダに向き直る。


「ジェイダ、正直に答えてくれ。君が言った嫌がらせというのは本当の事なのか?」


 彼女はもう誤魔化せないと悟ったのか、泣きながら頷いた。ラルフは彼女を見て唇を噛みしめる。


「なぜそんな嘘をついたんだ?」


 すると、ジェイダは嗚咽混じりに答えた。


「悔しかったんです。見目も綺麗で頭の良いアデルハイト様に嫉妬していました。傷つけてやろうと思ってラルフ様にお近づきになったのです」

「そんな……俺を愛していると言ったのは嘘だった? アデルハイトを傷つけるために俺に近づいたのか?」

「ごめんなさい……本当にごめんなさい」


 ラルフが何を聞いてもジェイダは謝るばかりだった。いや、謝ることしかもう出来ないのだろう。アデルハイトは彼らに冷めた視線を向けつつ、とどめを刺そうとした。


「ところでラルフ。先程、婚約破棄と言いましたが無効ですよ。だって、わたくし達は婚約していませんもの」


 アデルハイトの言葉にラルフだけでなく、一部始終を見守っていた人々にも動揺が走った。


「婚約してない? ど、どういうことだ。俺の母上とお前の母上の間で、年が近い子どもが生まれたら婚約させるという約束があっただろう」

「口約束ですよ。正式に手続きしていませんから婚約自体、成立していません」

「俺は勘違いしていたのか……12年間ずっと?」


 呆然とするラルフにアデルハイトは過去を振り返る。初めてラルフと顔を合わせたのは、5歳の時。家に帰る馬車の中で母が「いつかラルフと結婚出来たらと思っている」と言うので、「あんな頭の悪そうな男は嫌だ」と泣いて嫌がったのだった。


 まさかラルフが勘違いをしていたとは。おかげで有りもしない罪を被りそうになっただけでなく、公衆の面前で恥をかかされそうになるとは。この男、迷惑極まりないとアデルハイトは思う。うなだれるこいつの頭に唾でも吐きかけてやりたいくらいだ。


「舞踏会を台無しにしたのですから、あなた方はさっさと退場なさった方が身のためですよ」


 アデルハイトも巻き込まれたとはいえ、騒ぎを起こした者である。主催者に謝って自分も立ち去ろうと思い、彼らに背を向け歩き出す。嫌でも目立ってしまった。それに、男であるラルフに己の意見を言う気の強い令嬢であることもみなにバレてしまっただろう。男性を引き立てる女性が好まれる社交界では、アデルハイトのような令嬢にダンスを申し込む奇特な男性はいない。さっさと立ち去るが吉だ。


 と、思っていたのだが。


「やぁ、さっきの見ていたよ」


 アデルハイトの目の前に立ち塞がるようにして一人の青年が現れた。銀色の美しい髪は襟足だけ伸びていて、透き通った青色の瞳はどこか油断ならない鋭さを含んでいる。


「失礼ですが、あなたは?」

「僕はブラッド・サンテティエンヌ。最近、家督を継いだんだ。どう、僕と一曲踊ってくれうかい?」


 アデルハイトだけでなく、周りの人々も息を飲んだのが分かった。


 舞踏会で未婚の男性(ブラッドは指輪をしていない)が令嬢にダンスの申込みをすることは、求婚とほぼ同義である。アデルハイトにダンスを誘う奇特な男性がいただけでなく、その相手が今をときめく若き公爵だとは。


「君があの子と婚約していなかったと知って嬉しいよ。ずっと君を想っていたからね」

「わたくしとは初対面のはずですが」

「話したのは今日が初めてだけど、これまで社交場で何回か見かけているんだ。君の理知的な雰囲気とか立ち振舞とか好きだったけど、さっきのを見てさらに惚れたよ」


 にこにこと恥ずかしいことを言ってのけるブラッドは、アデルハイトの手を取り、膝をつく。彼女を見上げるようにして言う。


「僕と踊ってくれませんか?」

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