ムラサキハナナ

川辺さらり

繊細さんのショートショート この世界に疲れたあなたへ @川辺さらり

ムラサキハナナ


 今朝も中央線の東京行きは超満員だ。私は毎朝これに乗って、会社のある御茶ノ水駅まで運ばれていく。新宿でドッと人が降りるけれど、入れ替わるように同じ量だけの人がまた乗ってくる。東京駅に行く人々だ。

 私が乗り降りする立川も、入れ替え駅のひとつだ。ドアが開くと、人がひと塊のなにかのように、吸い込まれるように社内に移動していく。

列の最後尾に並んでいた私は、取り残されまいとドアに対して後ろ向きになり、ホームに残した足を力の限り突っ張って、すでに乗り込んでいる人々の塊に背中をねじ入れだ。そして、ドアが閉まる寸前に足を引っ込めることに成功した。ふう、今日も遅刻しなくてすんだ。


 人と人との隙間に挟まれてホッと一息ついていると、私の横にリュックを背負った小柄な妊婦さんが立っていることに気がついた。お腹はかなりの大きさだ。お腹を押されないように両手でお腹をガードしながら、スーツの中年男性たちの隙間で必死に立っている。

 電車が揺れるたびにお腹が圧迫されて苦しそう。こんな朝早くから、検診か何かだろうか。周囲の人は誰も妊婦さんを気にも止めてはいない。席からは遠くて、当然席を譲る人もいない。

 こんなラッシュ時にわざわざ乗らなくたっていいのにとも思うけれど、妊婦さんにだって早朝に出かける用事はあるだろう。私も、妊娠時の定期検診には電車やバスなどを使っていたから、肩身の狭さや体にかかる負担の辛さがわかる。

 ラッシュ時にわざわざ乗り込んでごめんなさい、周囲に対してそう思っているに違いない。一方で、母として大事なお腹を守らなければ、とも。


 妊婦さんと背中合わせに立っている男性が、なぜか妊婦さんのリュックに背中を預け始めた。

 あ〜、いるいる、満員電車で人の背中を背もたれに使う人。でも、よりによって自分より小さい女性に、しかも妊婦さんに寄りかかってラクしようとするなんて…!

 男性の背中にはリュックが当たっているので、もしかしたらリュックの持ち主を若くて体力のある大学生かなにかと勘違いしているのかもしれない。若いことには変わりないけれど、あなたより力のない女性だし、しかも妊婦さんだし! と私はヤキモキした。

 電車が揺れた拍子に後ろから強く押されて、妊婦さんは思わず前の人の背中に両手を突き出してお腹を守った。


 「押すんじゃねえよ!」


 苛立った声が妊婦さんに浴びせられた。押された男性も前を向いたまま身動きできないので、相手が妊婦さんだとは気づいてない様子。


 私は身を捩って、するりと妊婦さんと自分の立ち位置を変えることに成功した。そして、背中寄りかかり男を自分の背中で受け止めつつ、自分と妊婦さんとの間の空間を確保した。妊婦さんは降りる寸前、少しはにかみながら「ありがとうございました」と、お礼を言った。


 何日か経って、またあの妊婦さんがホームに立っているのをみつけた。

 妊婦さんは電車の中に私の顔を見つけると「あ!」と言わんばかりに満面の笑顔になって乗り込もうとした。けれど、私は思わず戸惑った表情を浮かべてしまった。この前は当然のことをしたまでで、”妊婦さん”だったから見かねてあのような行動をしたのだ。その妊婦さん個人に、特別な感情はなかった。友達になろうとか、そういった気持はなく、今日会ってもどうしていいか分からなかった。

 私はつい、気づいていないふりをしてしまった。妊婦さんはそんな私の素振りを見て、別のドアから乗った。


 妊婦さんは、私が知らないふりをしたのに気づいたはず。またガードしてほしいと、私に思われたのではないかと思ったかもしれない。でも、多分そうではなくて、純粋に好意から同じ車両に乗ろうとしただけなのだろう。妊婦さんは私の表情を見た時、きっと少しがっかりしたことだろう。


 妊婦さんが近づいて来た時、普通に会話をすれば良かったのでは? その時、当たり前のことをしたのだと自分の気持ちを伝えれば良かったのでは?

 私は御茶ノ水に着くまで悶々と考え、後悔した。


 別の日。


 通勤時でも比較的空いていて、座ることができる車両をみつけた。ホームの階段からは少し遠いけれど、片道1時間の通勤で少しの時間でも座れるのはとてもありがたい。その日から、その車両が私の定番になった。

今日もいつものようにシートに座り、コクリコクリし始めた。しばらくすると、目の前に杖をついた40代くらいの女性が立っていたことに気づいた。

 

 「足が悪いのかな」


 そう思って席を譲った。


 翌日も、同じ駅から杖をついたその女性が乗ってきて、やはり座っている私の目の前に立った。

 「あ、昨日の人だ」と、私はその日も席を譲った。

 けれど、次の日も、そのまた次の日も、女性は私の目の前や斜向い、つまり私の視界に入る場所に乗り込んできた。

 足が悪い人が視界に入れば、なんだか席を譲らなくてはいけないような気になってソワソワする。けれど、他の人は席を譲らない。なんだか私がその人のために、毎朝席を確保してあげているようではないか。


 『殿、草履を温めておきました』


 秀吉になる前の藤吉郎の、有名なあのフレーズが頭をよぎった。なんだか息苦しくなった。

 それでも、やっぱり今日も席を譲ってしまった。


 私は翌日から、同じ車両でも別のドアから乗ることにした。場所をちょっとだけずらしたのだ。おかげで彼女と会うことはなくなった。

 けれど、そうなると今度は「あの人は誰かに席を譲ってもらえただろうか?」とかえって気になってしまう自分もいた。


 さらに別の日。


 今日は運良く、ドア横の人一人立てる位置をキープできた。この場所はとても安心する。片側は壁に寄りかかれるし、背中は座席なので後ろからは押されない。ドアからちょうど一人分奥まっているので、ドアの開閉時にも人の波に巻き込まれることがない。私は空間にすっぽりとハマって、窓の外を見るともなく見ながら電車に揺られていた。


 今朝はたまたまラッキーだったけれど、毎朝こんな思いをするのは疲れるなぁ。会社に着くまでにドッと疲れてしまう。みんなも同じなのかなぁ。観察していると、妊婦さんや足の悪い人に席を譲らない人もたくさんいるみたいだ。なんだか自分だけ人より損をしたり、ストレスを感じたりしている気がする…。


 窓の外に流れていた風景は、ビルや住宅の無機質で暗い壁の波が一瞬途切れて視界が開けた。鉄道会社所有の空き地で、背の低い雑草が生い茂っている。「夏に向けて、植物も着々と伸びているなぁ」などと思っていると、急に雑草の緑色から一面の紫色に変わった。ムラサキハナナの群生だ。濃い紫や薄紫色がグラデーションになっていて、繊細な彩りを自然に醸し出している。

 春といえば桜や菜の花も美しいけれど、通勤電車の窓から見えるこのムラサキハナナを、私は毎年楽しみにしていた。時々、菜の花と一緒に植えられている区間もある。菜の花もやはり群生して生えるので、一面の黄色と紫色の共演は、それは見事なものだ。

 「植物はいいなぁ、ただそこにいればいいのだから。毎日気を遣う必要もないし。いっそのこと植物になりたいなぁ」


 そんなことをぼんやり考えていた時、電車が急停止をした。中央線は多発する事故で遅延するので有名な線だ。今日もまた遅延届を貰わなきゃ…。


 しかし、気がつくと、私は電車を下から見上げていた。ん? どういう状況? 私は一瞬混乱した。電車が事故に遭って横転して、自分は投げ出されてしまったのだろうか?


 しばらくして、私は1本のムラサキハナナになっていたことにようやく気がついた。


 しばらくは、信じられなかった。けれど、時間が経つにつれて平静さを取り戻した。私は本当に植物になったのだ。こんなことってあるんだろうか。


 すると今度は、別の感情がじんわりとやってきた。

 「もう、毎朝満員電車に乗らなくてもいいんだ。仕事も苦手な人づきあいもしなくていいし、人間関係で苦しんだりしなくていいんだ」


 そして私は、ムラサキハナナになったことを楽しんだ。


 電車が通るたびに全身に風が当たる。ゆらゆら揺れるけれど、押しつぶされることはなく、心地よさだけを感じていればいい。なんて幸せなんだ。


 雨も気持ちいい。全身で水を感じる。花や葉、茎が洗われていく。雨が止んだ後に葉に残った雫が重さに耐えきれずに、ピンと落ちる。

 太陽の暖かさも気持ちいい。じんわりと葉や茎の内側に光が入り込み、体中に栄養がゆっくりと循環して、生きていることを実感する。

 一日中、いろんな音がする。スズメやカラスの鳴き声、電車が通る音、遠くの人々の話し声、雨が地面や葉に当たる音。

 時折、野良猫がやってくる。この辺を根城にしているのだろうか。ふわふわのヒゲが、私の細い茎や葉に微かに当たってくすぐったい。


 なんて平和な世界なんだろう。植物になった私は、この穏やかな世界を堪能した。


 秋が近づくにつれ、やがて葉や茎が枯れて、私は根っこだけになった。土の中は思ったほどひんやりしていない。私は根っこだけの姿で春を待ち、また芽を出して3月に紫色の花を咲かせる。そうやって、永遠に命をつないでいくのだ。


 けれど、2年3年経つと、私はだんだん単調なこの世界に飽きてきた。変わらない景色、変わらない毎日。陽の光や風や雨の音は私を幸せにするけれど、新しいことも起きない。

 幸せを感じても、その幸せを誰かに伝えて共有することができない。望んでいたはずの世界、望んでいたはずの生活なのに、いざその世界に身を置いてみるとないものねだりをする。私はなんて傲慢なんだろう…。


 そこで、膝がガクンとなって、目が覚めた。と同時に、ドアが開いて「新宿〜、新宿です」とアナウンスが告げた。どうやら、立ったままウトウトしていたらしい。


 ムラサキハナナになったのは、夢だったのか。残念なような、ホッとしたような、なんとも言えない気分が残った。

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