第37話 侯爵令嬢は不変です

 かなでの願いが通じたのか、それともさすがにそんな大事件は頻発しないのか、そこからの日々は平和だった。

 おかげでこの世界における流行りのメイクの練習ができて、服を買いそろえる時間があるぐらいは。


(謎ですわ……。学園の規則ではお化粧は違反。なのに学園から卒業した直後から、メイクが礼儀として求められるとは。ああ、そう言えば七世代ななよしろ学園では特別講習として三年時にメイク講座が設けられると言っていましたわね)


 シェルランダ貴族令嬢であったリリティアは、もっと幼い頃から化粧に対して親しみがある。こちらの世界の物の方が大分質はいいが、求められる結果は同じだ。

 つまり、肌をより滑らかに見せて皺を隠し、シミを隠し、ほくろを隠す。

 何となくうんざりした気分で息をつき、不満は一度忘れることにして立ち上がった。そろそろ向かわなくては。


「――お? どうした、璃々りり。手伝いを断ったと思ったら、デートか?」


 行きがけに緋々希ひびきと会って、そんな質問をされた。表情がからかう様相を隠さずにやついている。

 はっきり言って、非常に不愉快だ。


「そうですわよ」

「はッ!?」


 心情そのままに、リリティアの返事はいつもより三割り増しつっけんどんになった。

 妹がちょっと気合いを入れて出掛けるのを見かけて、軽くからかうだけのつもりだった兄は、予想外の返事にうろたえた声を上げる。


「ま、待て待て! 相手は誰だ、っていうか、いつそんな相手がっ」

「まあ、お兄様。わたくしのような魅力的な女性が、いつまでも放っておかれる訳がないではありませんか。家族として、誇りに思ってくださいませね」

「自分で言うか!」

「事実ですもの」


 色々考えるところはあったものの、やはりリリティアは自分の価値を疑わない。きっぱりと言い切る。


「ではお兄様、ごきげんよう」

「待て待て待て!」


 珍しく、肩まで掴まれて物理的に止められた。真剣さが違う。


「……何でしょう?」

「いいか、絶対に人通りの少ない所には行くなよ。あと、五時までには帰って来い。どこに行く予定なんだ?」

「とりあえず、七世代駅前で待ち合わせですわ。それ以外は決めていません」

「璃々……」

「大丈夫です。誓って、婚前に己が不利益を被る真似はいたしません」


 リリティアの感覚では、淑女が人目のないところで男性と会うのも『不利益』に相当するので、全面的に緋々希の忠告に従うつもりだと言える。


「相手の方もそんな常識知らずではありませんので、ご心配なく。では、ごきげんよう」

「あ、ああ……」


 まだ動揺したまま、曖昧な言葉で妹を見送る兄に一礼して、リリティアは外に出た。


(お兄様はどうやら、わたくしが思っていたより心配性ですし過保護ですわね。それとも、璃々があまり積極的に交友を広げなかったせいでしょうか)


 どちらも理由である気がする。

 緋々希は門限を五時に定めたが、リリティアもその時間を破るほどに長々と過ごす予定はない。

 十時よりも一、二分早く、リリティアは七世代駅前に着いた。いつきもすでに待っている。


「ごきげんよう、谷城やしろさん」

「ごきげんよう、宮藤くどうさん。来てくれて嬉しいよ」


 喜んでいる、というよりもほっとしている、と言った方が正しそうな笑みで樹は言う。


「お約束を無闇に破るほど、愚かではありませんわ」


 履行されるからこそ、約束には意味がある。交わした文言を遵守しない相手との約束など、何の意味もない。

 そんなことを続けて行けば、信用を失うばかりである。


(信用というのは得難いものです。長い年月をかけてようやく手にすることができる。対して、失うのは一瞬)


 そして失ったあとで信用を回復するのは、ほとんど不可能だと言っていい。

 だからこそリリティアはできない約束はしないし、約束をすれば必ず守る。貴族とて、信頼が得られなければ追い詰められていくのは変わらないのだ。


「そうだね。今のは失礼だった。謝るよ」

「許します」


 樹の発言が悪意からではないのは分かっていたので、リリティアは鷹揚にうなずいた。


「では早速ですが。これからどういたしましょう?」

「散歩でもしながら話そうか。近くに菜の花が見頃を迎えた公園がある」

「それは素敵ですわ」


 樹の提案に、リリティアは素直に応じる。彼のエスコートに任せるまま、隣を歩いて付いて行った。

 ややあって、入り口に『憩いの森公園』と掲げられた門を潜る。中はそれなりの敷地面積があるようで、中央に遊び場を置き、そこをぐるりと囲うように散歩コースが作られていた。

 まず出迎えてくれたのは桜並木だが、すっかり葉桜になっている。それだけの時間が経ったということだ。


「改めて。芳野よしの――ああ、猫の名前だけど。あの子を助けてくれてありがとう」

「どういたしまして。その後の様子はいかがです?」

「変わらず、元気で過ごしているよ。君のおかげだ」

「良かったですわ」


 助けたのはリリティアではないが、それを口にすることはおそらく今後もほぼないだろう。


「会いに来る?」

「そうですわね……」


 余程の猫好きでなければ、わざわざ猫の様子を伺いに他所の家にお邪魔したりはしない。それでも行くのなら、別の目的が付随してくるときだろう。誘う相手方も、勿論。

 そうたとえば、樹と友好を深めるため、などだ。


「行っても構いませんわ」


 にこりと微笑み、リリティアはやや高慢にそう言った。


「じゃあ、誘わせてもらおうかな」


 リリティアの言い方を気にした風もなく、樹は平然と誘って来た。

 だが交わした通りの会話ではないと、双方が承知している。特に試す言い方をされた樹の方は、リリティアの真意が気になるだろう。


「僕の家の話は、多分、七世代君から聞いているだろう?」

「ええ」

「その上で、誘いを受けてくれるということでいいのかな」

「延長上に、わたくしの魔力を継いだ子どもが欲しいから、という部分があることは構いません」


 政略結婚が当然の社会で育ってきたリリティアだ。自分自身よりも血や名前に重きを置かれることに、然程抵抗はない。

 しかし。


「ですが誤解はなさらないでくださいましね。わたくしがお断りしないのは、わたくしを求める貴方がわたくしにとって魅力的かどうかが、まだ分からないからです」

「っ……」


 きっぱり言い放ったリリティアに、樹は虚を突かれた顔をする。


「貴方の家は、わたくしにとって然程魅力的とは言えません。ですが忌避する要因とも言えません。ならば問題は、貴方とわたくし自身の関係でしょう?」

「僕が、魅力的かどうかか。何というか……痛いところをついてくるね」


 樹のこれまでの人生において、血筋や家の事情よりも先に、自分自身の評価が影響することなどなかっただろう。

 だがリリティアは今、樹の背景は気にしないと言い切った。

 自分自身だけで評価される――それはきっと、初体験となる樹にとって恐れを感じるものだろう。


(けれど、望んだことはあったはずです。貴方も)

「たまには、『普通』に扱われてみるのもよろしいでしょう?」

「ああ、そうだね。……やっぱり君は稀有な人だな」

「ほら、そういう傲慢な物言いが、反感を買うのですわよ」

「え」


 傲慢に振る舞ったつもりはないのか、樹は素でうろたえた声を出す。


「すべての生命は個なのですから、稀有で当然。だというのに自分の秤で価値を決めている物言いが、傲慢ではなく何だというのです」

「……」

(まあ、わたくしもこちらに来て学んだことですけれど)


 少しまで間で樹と同じ思考をしていて、しかし己の中の常識を経験によって書き換えたリリティアの言葉だ。多少なりと、樹にも響く部分はあるだろう。


「ええと、じゃあ今のは減点、かな?」

「貴方の育ちは知っていますから、そこまで狭量ではありません」

「そっか」


 ほっとした息をつき――続いて樹はくすくすと笑い出す。


「指摘された直後にどうかと思うけど、やっぱり君は僕にとって特別だよ、宮藤さん。――いや、璃々さん、と読んでもいいかな?」

「構いませんわ。ではわたくしも、樹さんと呼ばせていただきますわね」


 シェルランダの文化では、親しさに関わらず名前で呼び合うことは別に不敬ではない。しかしこちらでは名字で呼ぶ方が自然であったようなので、立場上、目上に当たる人物には周囲に合わせておいた。

 だからこそ、樹のことは名前で呼ぶことにする。


(家格も上。立場も年齢も上の男性にそのように求めては、シェルランダでは大層ひんしゅくを買うでしょうね)


 リリティアが樹に求めたのは、ただの呼び方の変更ではない。真の意味合いは、対等の相手として扱えという要求であり、扱うという宣言だ。


(こちらの世界の方では、許されるはずなのですが)


 正直に言って、どきどきする。待つ数秒がとても長い。


「勿論、構わないよ」


 だが樹はあっさりと受け入れた。


「ではこれからよろしくお願いいたしますわね。ああ、貴方がわたくしの夫として不適格だと断じたときはすぐにお伝えしますので、ご安心なさって? そう長く貴方の貴重な時間を奪いはしません」

「不合格の話が先に出てくる時点で安心はできないんだけど……。まあつまり、それが君の、僕に対する現在の評価ということだね」


 樹は苦笑したが、現時点での立ち位置が望みの場所からかけ離れているからといって、諦めるつもりはないようだった。


「じゃあ改めて。これからよろしく、璃々さん」

「こちらこそ」


 なんということもなさそうに応じながら、内心、リリティアは驚いていた。理解はしていたつもりだが、実体験はまた別格だ。


(これが、自由)


 自分の意思で、結婚相手を選んでいい。

 ――恋をして、愛する相手を選んでいいのだ。

 その実感は、リリティアの胸をときめかせる。

 ただ思い描くべき相手は、まだ像を結んでいなかったけれど。




「ただいま戻りましたわ」


 その後はオープンテラスで食事をして、駅で解散となった。リリティアの帰宅は緋々希が課した門限よりも大分早い。

 家人は全員店に出ているので、迎えの言葉はない。特に珍しくもないのだが、それでも、そんな日は少し寂しく感じる。


(変わったものですわ)


 父母の姿を見ないことなど、日常でさえあったシェルランダの日々。使用人は大勢いたので不便はなかったけれど、きっと今ラミュアータ家に戻ったら、より寂しく思うだろう。


 そちらにいたときは当然すぎて、考えたこともなかったというのに。

 元の世界のことを考えると、心が疼く。この想いが消えることは一生ないだろう。

 だがこちらの世界もすでに、リリティアにとっては愛しき日常。


(今はそれでよいのでしょう)


 いつかまた、時空の悪戯か運命かでシェルランダに戻ることになったとしても。あるいは逆に、永遠に戻らなかったとしても。


(わたくしはわたくしとして、恥じぬように生きるだけ)


 リリティア・フィー・ラミュアータという存在は、立場になど依らず不変なのだ。

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侯爵令嬢のプライドは、JKになっても揺らがない 長月遥 @nagatukiharuka

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