第15話 家康の死
千姫の婚姻という祝い事があった徳川だが、実は、その直前に偉大な主導者を失っていた。
それは徳川家康の死である。
家康は、千姫の婚約が決まった後から、徐々に体調を悪化させていった。
恰幅良かった、その身体はどんどん痩せてゆき、吐血、
そして、亡くなったのは、武家の出では史上四人目となる『
辞世の句は、二首、詠んでおり、
・喜びやと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空
・先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ
特に二首目は、自分の死後、後追い自殺を禁じたものであり、本当に家康のことを思うのであれば、現世に残り徳川家のために励んでほしいという願いだった。
織田信長や豊臣秀吉といった、時代の先駆者の死後は一様に混乱が生じたが、家康が身罷った後も徳川の体制は盤石で揺るぎない。
というのも、家康の生前に『
この二つの制令には、大名たちの統制と朝廷への幕府の影響力をより強める効果がある。その結果、徳川一強の時代を、より長く続けることが可能となったのだ。
自身が死んだ後のことも見据えた、家康ならではの用意周到さが垣間見える。
葬儀は徳川の
家康は、この葬儀で神として祀られ、その神号は、『
これは家康の側近である黒衣の宰相、
遺言で、一周忌を経て
それは、かの地で神として祀られることで、八州の鎮守となるという家康の強い意志の現れだった。
初夏。
夏空の下で家康の死、それらにまつわる話を甲斐姫から聞いた天秀には、特に感傷的な気持ちはなかった。また、喜ぶという感情もない。
ただ、千姫が、さぞかし悲しんでいるだろうなと、義母を思いやっただけである。
兄、国松丸が、六条河原で、徳川を非難しつつも、最後は、「これが戦国の世だ」と矛を収めたと聞いていた。
ならば、それが豊臣の総意。
天秀は、仏門に帰依した身として、故人の冥福だけを祈るべきなのだろうと考える。
そこに東慶寺より、瓊山尼が下りて来た。
そして、天秀の顔を見るなり、安心した様子を見せる。
「もしあなたが人の死に対して、嬉々と喜んでいるのであれば、𠮟っているところでした」
天秀の素性を知る師匠は、もし誤った考えをしているならば、御仏に仕える道を説こうとしていたのだ。
だが、天秀からは、そんな様子は微塵も感じられない。
安心するのと同時に、本当に八歳かと疑ってしまった。
「なあに、天秀は、自分のことに対して、鈍感なだけじゃ」
決して誉め言葉には聞こえない。天秀は、甲斐姫に抗議した。
ところが、「どうせ、最初に思ったのは千姫のことであろう?」と、見透かされているのである。
「自分のことより、まず、人のことを思いやる。それは、大切なことぞよ」
甲斐姫と瓊山尼が、頷きながら温かい目で天秀を見つめた。
この二人には、一生、敵わないのだろうと天秀は思う。
「家康の死にまつわることで、一つ、
「なんでしょうか?」
天秀は、武芸の師匠、甲斐姫の言葉を身を正して待った。
「家康は日ノ本を自分で守ると言った。だが、国松丸さまは家康に頼むと託された。死に際しての言葉、どちらが正しいと思うかえ?」
甲斐姫の問いに、天秀は思考を巡らせる。二人の立場が違い過ぎるので、一概に答えは出せないだろうというのが、主な考えとして浮かんだ。
ただ、強いて言えば、天下人として考えた場合、どうだろうか?兄を推したい気持ちもあるが、やはり、家康のような気がした。
「それは、・・・権現さまの方でしょうか」
「残念ながら、外れじゃ」
とすると、兄の方が正しいのか。天秀は、少し誇らしげな気持ちになるのだが、目の前に悪戯っ子のような笑顔を見せる甲斐姫に、ハッとする。
「答えは、両方とも正しい」
甲斐姫の顔を見た瞬間、脳裏に過った言葉が、そのまま出て来た。
天秀は、ちょっと拗ねた顔をしながら、続きを聞く。
「家康の言葉は、自分の強さを表す言葉じゃ。一方、国松丸さまの言葉は、他人を信じる心を表した言葉。どちらも欠けてはならぬ」
言われてみれば、確かに、その通りである。問題の出し方は、少し意地悪だが、甲斐姫の言うことには納得できた。
但し、両方、兼ね備えることは、相当、難しいのではないかと思われる。
そんな人物が、果たしているのだろうか・・・
「お主なら、なれるぞえ」
「わ、私ですか?」
甲斐姫から、指名されて、思わず自分の顔を指で刺す。
天秀が驚いているところ、甲斐姫は、その理由を話し始めた。
「天秀には、国松丸さまと同じく太閤さまの血が流れておる。そして、血の繋がりはないものの徳川の姫の娘でもある。お主なら・・・いや、お主だからこそ、両方の良い所を併せ持った人物になれるのではないかのう」
「そう言われれば、日ノ本、広しといえど天秀ほど、血筋、資質を兼ね備えた者は、他にいないかもしれませんね」
二人の師匠から、持ち上げられて何だか、むず痒くなってくるが、これも期待されてのことだと思う。
今以上に、精進せねばと誓う天秀だった。
これより、写経を行うことになっており、瓊山尼とともに天秀は、東慶寺へと向かう。
二人がいなくなると甲斐姫は、鋭い視線を物陰に送った。
「見ての通り、天秀は家康の死に乗じて、何か行動を起こすつもりは、ないぞえ」
「嫌ですね。そんな事、疑っていませんよ」
睨んだ先から出て来たのは、寺役人の小栗右衛門である。
甲斐姫の鋭い視線を前にしても、いつもの柔和な表情は崩さない。
「気配を消して、盗み聞ぎしておきながら、よく言うのう」
「気配を消すのは癖なんです。勘弁して下さい」
それに、今、天秀に人を信じろと言ったばかりではないかとも、右衛門はつけ足した。
「ふん。まあ、よいわ。お主の後ろにいる人間に言い聞かせるのじゃな。天秀は、徳川に仇なすことはしないと」
「そんな人はいませんが、頷かないと帰してくれそうもないですね。ここは、分かりましたと言っておきましょうか」
立ち去る右衛門の背中を、ジッと見つめる甲斐姫。
『監視しているだけなら良い。ただ、天秀に手を出そうというのであれば、容赦せぬぞ』
放たれた殺気に、冷や汗をかく右衛門は、自然とその足が速くなるのだった。
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