マーガレットのベンガル 8

 名も知らぬ鳥を

 青竹の籠にとどめておくことはできない

 ひろやかな森に飛び去ってしまう

 わたしの鳥よ


 モリー! 会いたかったよ。

 ジョゼフがカルカッタに戻った。義姉の家で出迎えると、かれは血色のよくなった顔で、にこにこわたしを抱きしめた。冬で、スコットランド人には過ごしやすく、村では一面の辛子菜畑が黄色い花を咲かせていた。それを眺めながら、農民が休むのに使っている、道ばたに置かれたベンチの端に座る。かれはもう一方の端に座る。目路の向こうでは、男が牛を引き連れて歩き、女たちが水路で洗濯をしている。

 モリー、おみやげがあるんだ。

 そう言って、かれは布包みをほどき、なかから白い布を出して腕を伸ばし、わたしに渡した。

 それは霞のようにふわりと軽い。ダッカモスリンだ。広げると、きわめて細い糸が平織になっているなかに、藍いろの糸が星のような、花弁のような紋様に織り込まれている。ジャムダニと呼ばれる織物で、すこし前であれば、ムガルの宮廷人にしか手に入らないような織物だ。糸は、専門の職人によって、湿度の高い早朝と夕べに紡がれる。紋様は刺繍のように見えるが、単純な機で竹串のような簡単な器具を使い、織物として織り込まれている。よわい風に、ゆらゆらと揺れるさまは、まさに霞に花びらを散らしたようだった。

 ムガルの宮廷に仕えていた踊り子の女性が、きみの絵の対価にとくれたんだよ。

 えっ。

 たしかに、ジョゼフにはわたしの描いた絵を託していた。北部に勤める東インド会社員や、ムガルの藩王国の宮廷人に、売れる可能性があったからだ。しかし、成人した白人男性であるジョゼフが、男女を峻別する風のつよいヒンドゥスターンの女性に絵を売ることができたのは意外だった。

 かれの話しぶりは曖昧だったが、つまりは、世話になっている東インド会社員、リチャードが踊り子たちを屋敷に招き、宴会を楽しんでいたところ、そこに参加したジョゼフはその女性――ザイナブと個人的に話をし、彼女がわたしの絵に興味を持ったので売った、ということらしい。

 なんの絵を?

 宮廷の女官ふたりが楽しそうに歌っている絵。平和だった皇帝の宮廷を思い出すから、と。それから、鴉。

 鴉?

 故郷に飛んでいたのとそっくりだって。彼女の故郷はだいぶ西のほうらしい。

 そう……。

 わたしの絵が、ひとりのヒンドゥスターンの女性を慰めたのだ。それは、じわりと胸を温めた。手元に畳んだジャムダニを撫で、そのやわらかさにうっとりする。

 あれからずっと……シュンドルボンでモリーと話したことを考えていた。モリーが感じたことを。どうしたら、モリーがこころのままに絵が描けるか。

 ジョゼフは辛子菜畑の黄色を見つめ、ぽつぽつと話した。

 いくら考えてもわからなかった。植物探しはなんとかできても、たいせつなひとの悩みの答えは探せなかった。いちばん欲しいのは、その答えなのに。

 ……ジョゼフ。

 かれがわたしを向く。わたしはほほえむ。

 ありがとう。あなたがわたしのことをたいせつに思ってくれるのは、すごくうれしいよ。

 ジョゼフはわたしを見つめたまま、ぽろぽろと涙を流した。

 モリー。モリーは、おれのことが必要?

 ……必要だよ。

 ちがう。おれのことは、必要じゃない。モリーにとってたいせつなのは、おれじゃない。……いや、もっと正確にいえば、モリーはこの世すべてが重要で、そのうちの砂粒ひとつはおれだけど、つまり、おれは砂粒ひとつ程度の男ってことだ。

 ジョゼフ。わたしも渡したいものがあるんだ。

 え?

 とりあえず、これで拭いて。

 そう言って、わたしはかれに近づくと、かれの腰に挟まった赤と白の格子模様の手ぬぐいガムチャを引き抜き、差し出した。かれはごしごしと顔を拭う。そのあいだに、わたしは巻衣のなかから、ちいさな二枚あわせの紫檀の化粧箱を取り出した。睡蓮のかたちに彫られていて、花弁の一枚に軸があり、それ以外を横に滑らせると、中が現れる。義姉にもらった古いもので、もとは色粉を入れるものだったが、いまは――……

 機織鳥だ。

 ジョゼフがつぶやく。

 内貼をし直して、自分で描いた絵を貼った。手元で見るための、ちいさな絵。ダッカモスリンのように透けた入口を持つ巣と、その上には黄色い羽根のオスが留まり、入口からは茶色い羽根のメスが顔を覗かせている。時刻は夜で、藍色の背景に、巣は、中心で蛍が輝いているため、ぼんやりと温かくあかるい。

 受け取ったジョゼフは、両てのひらでそれを抱え、しげしげと見つめた。

 スコットランド人画家マーガレットの、最後の絵だよ。

 えっ。

 わたしはふふ、と笑うと、かれの肩をぽんぽんと叩いた。

 これからはバウルのモリーだ。もうすこししたら、バウルの名前をもらえると思う。もう入門の儀式はしたんだ。だいじょうぶ、だれかに会えなくなるとか、なにかできなくなることが増えるわけじゃない。絵は描く。ホセンはたまに訪ねてきてくれると思う。わたしはね、これから。

 立ち上がり、かれの正面に回ると、わたしはかれの額に口づけした。

 不羈の愛の湧き出す泉になるんだ。

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蜜蜂よ、夜々を遊行せよ 鹿紙 路 @michishikagami

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