マーガレットのベンガル 6
イングランドやスコットランドには工場が立ち並び、機械仕掛けの錘と織機が、人間の手の何倍もの速さで綿布を作り上げ、それには銅板で染色された模様が入り、高価なヒンドゥスターン製綿布を駆逐したという。ヒンドゥスターンの市場にもその布は現れ、多くの紡ぎ手や織工が手紡ぎ糸や手織り布の在庫を前に途方に暮れた。白人たちが、新大陸の奴隷たちが詰んだ綿をヨーロッパに送り、それを安価な布にして、世界中で売りさばいた。専門カーストの男の職人によって紡ぎ、織られる蝉の翅のようなうすさのダッカモスリンは依然、ムガルの宮廷に珍重されたが、女たちが日常的に紡いで売りに出していた、キャラコと呼ばれる日用布用の糸は、買い取りが渋られるようになった。
あの後家村の女たちが気がかりでならなかった。
ジョゼフは回復し、カルカッタに戻ったが、白人の医師に診せたところ、涼しい場所での療養が必要だと言われて苦笑いした。東インド会社が手に入れた領土には、いまのところ、そんな場所はなかったのだ。帰国するには航路が過酷過ぎたし、かれはまだヒンドゥスターンにいると言った。兄ピーターの同僚が勤めている北部の村に療養に行くことになった。そこであれば幾分湿度がましだというのだ。わたしはホセンとともに東インド会社の求める絵を描くことになった。商館で飼っている鳥。あたらしく設置された、カルカッタの植物園で栽培している商品作物。茶や罌粟。――阿片の原料。中国の独占を突き崩すための茶の栽培は、カルカッタでは難しそうだ。もっと北の奥地であれば適しているだろう。中国の栄華を骨抜きにするための阿片。阿片は、ムガルの太守たち、東インド会社の社員たち、その領事にまで蔓延していた。領土拡大の立役者であるロバート・クライヴも、自殺の遠因は阿片であったとされる。西インドからもたらされた、奇怪な見た目のコチニールサボテンは、寄生するカイガラムシから、インド茜を凌駕する鮮やかな赤を染めることができる。
わたしはホセンに植物学と植物画を教え、わたしはホセンに鳥類画や人物画を習った。ヒンドゥスターンらしい、細密でデフォルメされた絵だ。街に出て、籠編み職人の夫婦をスケッチする。大ブリテン人が故郷へ土産として持って行く、ヒンドゥスターン「らしい」絵が必要なのだ。できあがったものは、たくさんのスケッチの集合体であって、だれか特定の人間をモデルにしたものではない。
標本。
これらは標本だった。生きた人間ではない。
しかし絵を描くという行為は、首ごとむしり取った薔薇を薬液に瓶詰めすることと、なにがちがうのだろうか?
わたしはホセンに学ぶことに集中した。衣服の裾、枠、絨毯として描かれた花模様。少ない線と色で鬱蒼とした熱帯の森を表現すること。物語りの登場人物として、決まったポーズで描かれる人間たち。うすい布の、様式的な襞。ラーダーの髪を梳いてやるクリシュナ。葡萄酒に酔い、乳房も露わに浮かれ騒ぐ女官たち。ぶらんこに乗る踊り子たち。
うつくしく、豊かな趣きがあり、実在しない。まぼろしであるからこそ、いたましいうつつの慰めとなる。わたしはヒンドゥスターンから学び、奪い、盗用し、窃取した。
大ブリテン人の男たちは、もっとこういう絵を描いてほしいと言った。自分たちが見慣れた技術で、脱色された――飼い馴らされたヒンドゥスターンを故郷に持ち帰ることができるからだ。
わたしのたましいはずたずたになった。
賞賛。金銭的報い。師として崇められること。
あなたの名前を本国に伝えたいと言われて、わたしは頑なに拒んだ。この名に負うものは、この絵にはなにも描かれていない。
わたしのいのちは、蔑まれ、石を投げられ、嫌悪されるもののなかにある。醜い、まだらに黒いあばた面のいかず後家。そのなかに。
美という快楽によって、わたしの肌は漂白され、わたしの身体は標本になり、世界中に流布される。隠された物語りを言い立てて、子どもたちが指をさしてあざ笑う。大人たちはわたしの白さにしか興味がない。
わたしは醜い。なぜだれも、わたしの醜さを認めないのか。奪い、盗み、踏みつけにして生きているということを、なぜだれも責めないのか。自分もそうしているからか。
ああ、気のふれたパゴルこころよ
こころのひとよ
名も知らぬ鳥を
とどめておくことはできない
わたしのこころの鳥籠は
青竹でできているから
兄の別邸に、歌う行者がやってきた。男女のふたりづれで、中庭で神々の名を唱え、かれらが「
義姉は言う。
バウルよ。
バウル?
いかれている、という意味。
ヒンドゥーなの?
ヒンドゥーでも、ムスリムでもない。サードゥーでもフォキルでもない。あるいは、どちらとも呼ばれる。
ヴィシュヌ派ボイシュノブのような額のしるしをしている。
クリシュナを慕うラーダーのようなひとたちだから。
クリシュナはヴィシュヌの化身のひとつで、このあたりのひとたちに人気が高い神だった。
わたしは顔を隠すことなく、その老齢のふたりづれにちかづいた。
その歌はどういう意味ですか。
白髭を長く伸ばした男行者はわたしを見てすこし目を見開き、それから言った。
たいせつなものは自分のからだのなか、こころにあると歌う歌です。しかし、そのこころにある鳥は、羽ばたき、鳥籠というからだを出入りする。
たいせつなもの? 神々ですか。
こころのひと、とわたしたちは呼んでいます。
老行者はゆっくりと話した。もったいぶっているというより、正確であろうという話し方だった。
寺院や、聖者廟や、聖地にいるのではなく?
ええ。人間のからだのなかに。しかし、それを感じようとするひとだけに。
行者ふたりは、簡素な楽器――釣瓶のようなかたちの
ものぐるいは歌う
この世はにせものの狂いであふれている
あるひとは富に
あるひとは美に
あるひとは困窮に
あるひとは名声に
欲望という病
欲望という炎
欲望という傷
死という行をすれば
この鎖から解き放たれるだろう
こころよ
不羈の愛の湧きいでる泉を おまえは見る
かれらが去っても、わたしの胸の裡がわに、かれらの歌がひびく。無意識のうちに、かれらの詩を画帖に書き留める。かれらの楽器や、飛び跳ねた足首を描く。
ホセンはそれをじっと見ている。
自分がずっと求めていたおおきなものの、表面をひと撫でできた感触がある。しかし、それはすぐに消えてしまう。ことばは文字に、音楽は絵に残っても、それは真理のおもてに過ぎない。そのなかに入っていくには、どうすればよいのだろう。
巷間では天然痘が流行りはじめ、東インド会社からは外出を控えるようにという通達が出る。よろこばしいことに、わたしには関係ない。いちどかかればもうかからないと聞いていたし、かかったとしても、これ以上醜くなりようがない。ヒンドゥスターンのひとびとは、見知らぬ他人から食べ物をもらうことがほとんどないが、乞食や行者はちがう。人出がすくなくなって、そのひとびとが飢えていないか、わたしは米を持って街へ出た。ホセンは止めてもついてくる。
案の定、バニヤン樹の気根のもとで、やせ細った乞食の子どもたちが寝転がっている。わたしはかれらに米を与え、閑散としたカルカッタを歩く。といっても、そんなにおおきな街ではない。ヤシの木と田畑、藁葺に土壁の家が現れる。道ばたの木陰に、白い服を着た子どもが倒れている。乞食のひとりだろうと近づくと、かれは全身に発疹がある。罹患している。かれの服装はきちんとしていて、ブラフマンの印である聖なる紐をかけている。
いったいどうして、あなたはひとりなの。
熱に浮かされた少年に訊くが、少年は苦しげに呼吸するばかりだ。
巡礼者だったのが、道連れに見捨てられたのでしょう。
ホセンが言う。
どうしたんです。
声をかけられて振り返ると、礼拝帰りなのか、服装からムスリムとわかる男が立っている。
この男の子は、天然痘にかかって見捨てられたようです。
わたしは言う。ヒンドゥーの少年をこの男は助けないだろうと思いながら。
たいへんだ。うちはすぐちかくです。運ぶのを手伝ってもらえますか?
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