マーガレットのベンガル 4
ヒンドゥスターンにおける師匠と弟子は、親と子以上の絆で結ばれるという。師は弟子をふかく受け入れ、弟子は師に自分をまるごと差し出す。わたしはホセンによって師になった。わたしは伝えられるだけのすべてのことを伝えようとつとめた。植物画は、うつくしさばかりでなく、正確さ、特徴をとらえる力が必要になる。それには植物学の知識が不可欠だ。花の構造、水や栄養を吸い上げるしくみ。絵としては見過ごされがちな、根や茎も、それがほかの植物とちがうのはどこか、とらえなければならない。そして、その自分がとらえた特徴を、絵ばかりでなく、文章でも残しておく。それが、わたしが学んだ、博物画としての絵画だ。当然、根を引き抜いたり、花を切断したり、アルコールに漬けたり、押し葉にすることもある。
教えながら、疑問や罪悪感がわたしを苛む。人間の作為で、植物のいのちを奪うこと。描いたものは、学問と商業に利用されること。描くことは、名付け、分類し、序列をつけ、所有することとちかしい。いま植物学者が、世界中の植民地へでかけて行っていること。白人の男たちが、植民地で行っていること。すぐれた人間とはどんな種類か。白い肌を持ち、男で、理性的で、ほかの「種類」の人間を従える役割を持っていること――……対して、褐色の肌の女たち、子どもたちは、劣って、感情的で、従属したものとされる。
仮面?
わたしの疑問に、ジョゼフが笑う。
そう。それを後頭部にくくりつけて、虎よけにするそうだよ。虎は正面に回るのを避けるから、蜂の巣に夢中になっている人間の後ろではなくて、前に回ってきて、人間は気づいて逃げることができるとか。
ホタルを巣に招くよりは本当のように思える。
まあ、そうだね。実際、蜂蜜とりをすると、虎にはよく遭遇するそうだよ。それから毒蛇。それからワニ。
……。
マングローブの花。蜜蜂。カワイルカ。こころ踊るものと、危険なものは、同時に。この村の案内人を雇ったから、もうすこし奥地にも行ける。
……ジョゼフ。
ヤシの茂る中庭。木材を加工したり、蜂の巣から蜜を取り出したりする作業場の、その甘いにおいのする土を突き固めた台で、わたしは年上の甥に訊く。
なに?
どうして植物採集人をしているの? どうしてイングランドに植物を送るの?
……それは、儲けになるから。
ちがう。儲けたいのなら、わざわざここまで来る必要はない。危険をおかして。長い時間を使って。ロンドンにいる父さんみたいに、手配だけして、じっと待っていればいい。
見たことのないものを見て、会ったことのないひとと話せるから、かな。自分の知識と、勘を働かせて。自分で、なんでも切り抜けて――……
それはジョゼフが持っているからだよ。白人で、男で、学があって、旅をできる金を持っていて。持っている人間が、地べたで這い回ることしかできないひとびとから、快楽と富と知恵をむしり取ることを、搾取と言う。
モリー。
鳶いろの瞳を曇らせて、ジョゼフがわたしを見つめる。
……わかってる。わたしもジョゼフと同じだ。白人で、女だけど、絵が描けて、安全に旅する立場にあって。あなたに従っていれば、わたしはむしり取る側だ。
でも、モリーはそれに気づいている。
気づいていて、なんになる? なにも変えることができないのに。わたしはマングローブやイルカを描いて、イングランドの金持ちに珍奇なものとして買い取られて、この自然を売り渡す。カルカッタに戻れば、兄さんはヒンドゥスターンのひとびとから富を奪い取っていて、その家で暮らすことになる。イングランドに戻っても同じだ。わたしは、……わたしたちは……
ホセンに絵を教えている。ホセンの師匠だ。
弟子に教えられて、ようやく師匠になった。かれに教えられることのほうが多い。
きみは奪うばかりじゃない。与えている。……いや、奪ってもいない。おれとはちがう。おれに、おれが見えていないことを教えてくれた。たいせつなことだ。いのちのように。
ここでは、いのちは蕩尽される。戦争で、飢饉で、税の収奪で。
きみはいのちは敬われるべきだと教えてくれた。植物画はそれに資するものだと教えてくれた。植物学は、名付け、分類し、序列をつけることが目的じゃない。この世の真理をさがすためのものだ。
目的が尊ければ、なにをやってもいいと?
そうじゃない。しぶとく生きることは可能だということだ。やっていることが同じでも、結果は自ずから変わってくる。一緒にさがそう。きみが、思い煩わず絵を描ける道を。
いったいそんなことをして、あなたになんの利益があるの。
人生は商売じゃない。自分の得はどうでもいいんだ。植物採集人はひどい職業だが、ひとつ美点があって、それはしぶとい生き方を身につけられることだ。世界の果てだろうが崖の向こうだろうが、あきらめずにいれば、港で風待ちをしているうちに、なんとかなったりする。
かれはヒンドゥスターンの男のように、腰巻の裾をぱたぱたさせて涼んだ。
……ジョゼフ。わたしのことはほうっておいて、べつの場所に採集に行ったら。
いったいどうして?
かれは目を見開き、わたしを見た。
わたしと一緒にいても、なにもおもしろくないでしょう。
いや、だから――
結婚は? 兄さんがすすめていた話を放っておいているでしょう。ロンドンに帰って――
かれは眉間に皺を寄せ、首を横に振った。
ここに来るのに一年かかってるんだ。破談になってるに決まってる。
だれかあなたを支えてくれるひとと、楽しく暮らしたほうがいいよ。こんな、とげとげしくて気むずかしくて引きこもりの叔母の面倒を見るより。
モリー!
ジョゼフは立ち上がった。
かれは傷ついたように目を伏せた。
……ごめん。ここまで連れてきてくれたのに。でも、人生、明日どうなるかもわからないのに。自分が楽しいとか、安心できるとか、そういうことのために生きたほうがいいよ。
おれは、モリーといると、楽しいし、安心できるよ。
……そう。
モリーは? だれと一緒にいると一番楽しい?
わたしは首をかしげた。
だれと? 考えたことないな。絵を描いたり、植物にさわっているときは楽しいよ。
そうか……。
ジョゼフは自分のてのひらで、額を何度か叩いた。
えっ、どうしたの。
なんでもないよ! 明日は早起きして、蜂の巣を見に行こう。
うん……。
わたしは小柄な少年が銃を背負っているのを見て驚いた。
ホセン、銃が撃てるの?
いちおう。カルカッタでジョゼフさまに習いました。
おれだけだとこころもとなかったから。
ジョゼフが言い、舟を出させる。全員、後頭部に木の仮面をくくりつけている。
村人が蜂の巣をさがすのに同行する。蒸し暑く、汗が噴き出る。わたしは男物の上衣(パンジヤビ)に、土地の女たちのように布を巻き下半身と胸を覆っている。ロンドンで着ていた服よりは圧倒的に過ごしやすいが、そうでもしなければ暑くて昏倒していただろう。触れていると紙が湿ってしまう。その上、蜂除けに網をかぶらなければならない。村人に指示されてかぶると、ある島に上陸する。たいへんな労働だった。男たちは森の中でいちど散開し、巣を探すが、ひとりが指笛を鳴らして皆を呼び寄せる。巣に近づくと、火を焚き、蜂を追い出す。羽音がうなりを上げ、蜜蜂の群れが黒い塊となり、木の枝にぶら下がった巣から飛び立つ。わたしたちは遠くから見ていればよいが、村人は巣を奪わなければならない。
蜂蜜取りというより、これは蜂狩りだった。かれらの家を奪い、追い出し、破壊する仕事だ。蜂に攻撃されながら、村人たちは巣をむしり取り、舟に急ぐ。村人たち、ホセンが舟に乗り込み、あとはわたしとジョゼフだけというとき、
虎だ!
ホセンが叫んだ。
振り返ると、緑の茂みに赤褐色と黒の鮮やかな模様の毛皮が飛び出し、わたしは凍り付いた。
ヒンドゥスターンの女たちのような、黒々とした目化粧、燃え立つような毛並み、うねるような黒縞。「かれ」は髭をぶわりと膨らませ、躍り上がった。
モリー!
わたしはジョゼフに突き飛ばされ、舟に倒れ込む。ホセンがわたしを引っ張り上げるうちに、ジョゼフは銃を構える。が、間に合わない。
がっしりとしたしなやかな四肢を、流麗に動かし、虎はジョゼフに襲いかかった。
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