マーガレットのベンガル 3

 ホセンは十七歳の小柄な少年で、もっと幼く見えたが、描いた鳥や職人の絵を見せてもらうと、ぎこちない様式的な絵だが、対象の特徴を見事にとらえていて、わたしは思わずベンガル語ですばらしいチヨモントカル、と言った。少年はほほえみ、もっと写実的な絵が描きたいのです、と言った。わたしの植物画を見たが、その写実性に仰天し、ウスタードとしなければならないと思ったそうだ。

 ウスタード?

 師という意味です。

 そんな……。わたしなんて、名のある画家ではないよ。女だし。

 絵の道に、名がなんの意味を持ちますか? それに、あなたが女性でも、幸運ながら、わたしは近くに居ることができる。

 少年は宦官だった。幼いころ、デカン高原の故郷を襲われ、ペルシアに売られたが、ベンガル太守の役人に絵の才を見込まれて、ヒンドゥスターンに戻ってきたそうだ。

 わたしは、自分より幼い少年を前にして、圧倒された。ちいさな子どもだったころに、暴力と理不尽に見舞われたかれが、まっすぐ自分の道を見据え、邁進している。

 ジョゼフにカルカッタで引き合わされたかれは、その日のうちからわたしの弟子になったと言い張り、わたしの荷物持ちや身の回りの世話を始めた。ヒンドゥスターンでは、弟子が師にそうした奉仕をするのは当然のことであるという。

 さあ、シュンドルボンへ。

 ジョゼフはにこにこと言った。舟に乗り、田園地帯を下っていく。青く生える稲のなかに、ぽつぽつと村と灌木がある。そのなかのひとつの木に、わたしは目を留めた。

 ホセン、あのおおきな実がたくさんなっている木はなに?

 遠目では、木のおおきさに比してぎょっとするような、おおきな実がなっているように見える木がある。

 少年は澄まして言った。

 あれは実ではありません。ハタオリドリの巣です。

 巣?

 ああ、モリーはまだ見たことがなかったのか。

 ジョゼフが言い、舟を岸に泊めさせる。

 木に近づくと、スズメほどの小鳥が群れでまとわりついている。この鳥の巣らしい。

 巣は袋状の塊の下に、筒状の口を付けたもので、鳥はその下の口から出入りしている。兄大ジョゼフが持っている、最新の解剖図鑑で見た、人間の胃のかたちを思わせる。

 黄色いのがオス、褐色のがメスです。ヤシやアシの葉を引き裂いて、蜘蛛の糸でつなぎ合わせて、機を織るように巣をつくるのです。

 ホセンは諄々と言った。わたしに教えるのがうれしいらしい。

 雨季の前にオスが巣をつくって、メスに選んでもらうのさ。選ばれなかったほうは空き家になる。あれとか。

 ジョゼフが言い、筒状の口のない、二つ口の開いた袋状の巣を指す。

 家の建築技術を厳しくチェックするんだ!

 わたしが驚いて叫ぶ。ジョゼフとホセンは笑う。

 低木で、触れるほどちかい場所に巣が作られている。小鳥が運べるくらいほそく裂かれた葉が、緻密に巣をかたちづくっている。筒状の口の端は、薄い布のように透けていて、日の光にきらきら光る。ベンガルの極薄モスリンを思わせる工芸品だった。

 見て。鳥の家のなかにも、棚がある。

 ジョゼフが建築途中の巣を示す。袋に穴が開いた巣で、なかにはなにもないが、外側の葉よりもやわらかなふかふかの内壁に、粘土のくぼみがある。

 卵をそこに産みつけるのかな?

 いいえ。ホタルをそこにくっつけて、明かりにするのです。

 ホセンが言い、わたしとジョゼフは顔を見合わせて笑った。

 そんな、人間じゃないんだから。

 ホセンはむっとしたように眉をひそめ、

 ほんとうですよ。土地のひとに聞きました。

 としたり顔で言う。

 人間みたいに本を読んだり、料理をしたりする必要がないのに、どうして灯りが必要なんだい?

 小ジョゼフがからかいまじりに言う。

 それは、そうですが……。雛は飛び立つまで巣のなかにいる。親は子どもの顔が見たいのではないでしょうか。

 ……。

 ジョゼフは黙り、わたしを見やった。

 わたしはそっと言った。

 鳥は耳が良いよね。声で雛を判別するんじゃないかな。

 ……。

 ホセンとジョゼフは黙り込んだ。真剣に考えているようなふたりがおかしく、わたしは笑い、

 こんな小鳥でも、すごく繊細な巣がつくれるんだ。ダッカ・モスリンのような巣を……。

 画帖を取り出し、荒くスケッチをした。ホセンはあわててわたしの手元を見る。まずは巣を。それから、建設途中の巣に向かうオスの羽ばたきを。植物画とちがって、動物の絵、とくにちいさな生きものの絵は難しい。じっとしていてくれないからだ。じっと見つめるうちに、飛び去り、またやってくる。鳴き交わし、餌を運ぶ。そのなかで、羽音やさえずり、羽根の薄さの、一瞬の残り香を聴く。それらが、手元で一本の線に変わる。羽根を広げた瞬間、首をかしげた瞬間を、紙の上にとどめる。

 すごいすごい! そうです、こういう絵です。

 ホセンが叫び、わたしは首を振る。

 だめだよ、うまく描けない。動物の絵はむずかしい。どの線も、次の瞬間には変わってしまう。

 でも、あなたの絵は、次の瞬間の筋肉の動きが伝わってくる。止まっているけれど、動いているような絵です。まるで生きているみたいに。

 わたしはほほえんだ。

 そんな不遜なことはできないよ。紙の上に神のわざを残すなんてこと。

 そうでしょうか……。

 ごめんジョゼフ、舟を長く止めてしまった。

 いいんだよ、きみが描くための旅だ。

 ジョゼフはゆったりと言い、旅は再開された。



 しばらく、脳裏に黄色の小鳥の像が浮かんだ。一瞬を切り取ったようでいて、もやもやと滲んでいる。そのままを絵にすることはできない。やはり実物を見ながら、じっくりと素描する必要がある。巣だけでも着色できないかと思ったが、それも、風にふよふよと揺れる出入り口の像にしかならず、もやもやしている。

 考えてみれば、植物画というのは不自然な絵だと思う。鮮やかなうつくしい絵だが、それは植物を見たままを顕さない。草や木や果物は、その生える土あってこそのものだ。切り取ってじっくりと観察するには、それに人間が死を与える必要がある。だとしたら、わたしがハタオリドリを描くには、それらを殺す必要があるのだろうか? ……ばかばかしい。たかが絵のために、神の被造物を殺すなんて。それも博物画だ。学問に資するもの。交易のためのもの。だれかの私腹を肥やすためのもの。いずれにしても、いのちと天秤にかけるものではない。猛烈な欲望のために求められる絵に対し、わたしはふたつの相反した思いを持っていた。

 未知の、めずらしくうつくしいものを絵にしたい。

 描いたものを売り渡したくない。その土地に生え、固有の環境のなかで生きるものたちを。

 毛細血管のように川の流れるシュンドルボン。ガンガーの流れが深い森に沁み通る。汽水域のマングローブの森は、火花のようなかたちの、ぎょっとするほど鮮やかな赤い花をつける。蜜蜂が行き交う。ワニやカワイルカが水面から顔を出す。むっとする高い湿度、暑さ。わたしたちはだらだらと汗をかく。

 虎が出ますよ。

 ホセンが言う。とりあえずムスリムの村に投宿させてもらう。ヒンドゥーよりは、カーストの外にいる人間にあたりが柔らかい。礼は米で支払われる。わたしは女部屋に引き渡され、好奇心に満ちた子どもたちに顔や手をさわられる。ホセンが入ってきた。

 そんなことをしてはだめだ。このひとはわたしの師匠なのだ。

 一生低くなることのない声で、それでもつよく叫ぶ。

 それでもわあわあと騒ぐ子どもたちを、女たちがなだめる。

 ホセンがわたしのそばに座り、あたりを睨みつける。

 ホセン……。

 少年はわたしを見返した。

 見知らぬひとには、最初にきちんと告げなければ。無遠慮にさわるな、画家の指に触れるなと。

 怒りよりも誇りの満ちたことばに、わたしははっとした。

 恐れ、逃げるばかりで、足を踏みとどめて、線を引くことを怠っていた。いまわたしは、自分を守ってくれるひとがいて、危険はないのだ。

 ありがとう……あなたはわたしを画家にしてくれた。

 それ以外のなんです?

 確信に満ちたことば。

 わたしはほほえんだ。

 あなたの師匠。

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