第四章 逸名画家の機織鳥

マティルダのイングランド

 キュー庭園は、幼いわたしにとって魅惑の園だった。世界各地の植物が集められ、中国の塔パゴダが建ち、田舎家を模した庵が佇み、柑橘の鉢植えを守る栽培棟オランジェリーのなかで、黄金いろの実がたわわに生る。

 父は種苗商で、園内の庭師に栽培法を伝えたり、植物学者を兼ねるかれらの求める植物を聞き取ったり、植え付けを手伝ったりした。わたしは父に付いて苗を運び、大人たちが話しているあいだ、園内をちょろちょろと歩き回った。立ち入りを禁じられていたオランジェリーに入り込み、おおきなガラス窓から入る冬の日差しを燦々と浴びるオレンジやレモンを見ていると、白い絹のドレスを着た少女がこちらにやってきて、手に持ったオレンジを差し出す。

 食べる?

 あきらかに身なりのよい、やさしげな目元のその少女に、わたしはうなずく。

 片手いっぱいのオレンジ。わたしはそれをエプロンの端で拭き、噛みつく。

 少女がころころと笑った。

 硬い!

 わたしは小声でさけぶ。

 林檎みたいにかじって食べるんじゃないのよ。

こうするの。

 そう言って、少女はわたしからオレンジを取り、腰帯に下げたナイフを抜くと、へたの回りを皮を切り取る。白い綿のようなものと、そのなかのいくつもの袋。

 ここがおいしいの。

 そう言って、彼女は皮を剥こうとするが、ほそく傷ひとつない指でがんばっても、白い綿がぽろぽろこぼれるだけで、剥ぐことができない。

 貸して。

 わたしは少女から返してもらい、エプロンのポケットに入っていた自分のナイフで切れ目を入れる。なかの袋を傷つけず、皮を剥ぐのはむずかしい。加減を調整し、切れ目をいくつも入れ、わたしは皮を剥く。ひと仕事だったが、いくつも房が集まり、球体になった果肉が現れる。わたしは一房をそっと取り出し、彼女に渡す。

 いいの? あなたにあげたのに。

 わたしはうなずき、自分も一房を取る。袋になっている皮がうすく付いているので、それを剥ぎ、果汁の詰まった粒の集まりを口に入れる。

 甘い! すっぱい! ふしぎなにおいがする。

 でしょう。貴族たちはここに来ては、感心して誉めるついでに、だれも見ていないと思うとちいさいのをいくつか服のなかにくすねていくのよ。

 お金持ちなのに!

 少女はしたり顔でうなずく。

 でしょう。お母さまが言っていたわ。貴族にもオレンジはめずらしいんですって。

 わたしは口のなかに残った種を手に出すと、しげしげと眺めた。これがおおきな木になって、水けいっぱいの実になる。

 さっきオレンジの絵を描いたの。見る?

 少女は言い、わたしは彼女について行くと、画台と椅子、水彩ガッシュ用具を入れた箱が置かれていて、たしかに彼女が注意深く描いたオレンジの枝の絵がある。テーブルには半分に切ったオレンジの実。その断面図も克明に描かれている。

 すごい! 絵が上手なんだ。

 ふふ、と少女は笑う。

 植物画と植物学を習っているのよ。

 わたしも習っているよ。

 ほんとうに?

 うん。商売に必要だからね。こうして大きくなっているすがたは、ここや、チェルシーや、貴族の庭に行かなければ見れないけれど、庭師たちはよくわたしや兄さんたち、父さんに見せてくれる。かれらも珍しい種や苗が欲しくてたまらないから。

 そう……。

 少女はわたしの土じみた服をじろじろ見た。髪を覆うボンネット、丈夫なリネンの青っぽい上着、茶色のスカート。苗木を運ぶのに汚れている。

 あら、あなた女の子だったのね!

 わたしは目を見開いた。

 そうだよ。

 兄さまたちはちいさいころみんな女の子の服を着ていたから、あなたもそういう時期なのかと思っていたわ。

 身分の高いひとたちは、幼いうちは男児でも女児の服を着るという。

 男だったらよかったんだけど。

 そうお?

 兄さんは東インドに行く。わたしも船に乗って、珍しい植物が生えているところを見たい。

 男だってたいへんでしょうに。東インドでは戦争ばかりだそうよ。ここなんか目じゃないくらいすごく暑いし。

 それはそうだけど……。走るなとか、ズボンを穿くなとか言われないし……。スカートは動きづらい。

 まあ、それはそうね。わたしも、たくさん勉強しても、結局はデンマークに行って、たくさん子どもを産まないといけないわ。一番上の姉さま以外の姉さまたちはからだがよわくて、結婚できないの。子どもを産んでも、母さまみたいに、死なずにいられるかしら……。

 ……。わたしの母さんは、わたしを産んだときに死んだ。

 まあ、かわいそうに。

 少女はちかくの木から、指の先ほどのちいさなオレンジをぷちぷちむしると、わたしに差し出した。

 それは皮ごと食べられるわよ。

 いらないよ……父さんに見つかったら怒られる。

 わたしは首を横に振り、もう行かなくちゃ、と言う。

 わたしも……生まれたときには、父さまはいなかったわ。

 ……そう。

 少女はふっくらした頬をゆがませると、わたしのエプロンのポケットにオレンジをぽろぽろ落とす。

 あなた、名前はなんというの。

 モリー。

 マーガレットね? わたしはマティルダ。

 マティルダは瞳をきらきら輝かせ、わたしをじっと見つめる。

 物心ついたときに親のどちらかがいないなど、よくあることだ。わたしの家の近所にも、そういう家庭、再婚した家庭はたくさんあった。けれど、このような身分の高い少女が、土に汚れたわたしのような人間に、自分と同じだ、とまっすぐ言うのは、ふしぎなここちがした。だから、ポケットのオレンジはそのままにして、彼女と別れた。案の定、目のするどい父さんにばれて殴られた。

 ドイツから来た、イングランド王室のむすめ。キュー庭園を作らせたオーガスタ皇太子妃の末娘。十五歳でデンマーク王に嫁ぎ、精神障害をもつ夫から疎まれ、十四歳年上の宰相に取り入られて愛人にさせられ、クーデターに際して失脚し追放され、そのままイングランドに帰ることも、デンマークに返り咲くこともできず、たった二十三歳で病死する薄倖の王妹――

 キャロライン・マティルダ・オヴ・ウェールズ。

 わたしと彼女が会うことは、二度となかった。

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