女神殺し 5
階段井戸の底で、寝台の上にラタン・バーイーが眠り、そのかたわらで目を閉じたアアフリーンが穏やかに歌っている。寝台の脚には、ラングがもたれて座り、タンプーラを奏でる。珠がたくさん集まった。それらはヴァーマナふたりの懐のなかに収められている。ラタンは珠を出し過ぎている。ふつうは一晩にひとつだ。
おおきな羽音を立て、迷いなく一羽の鴉が三人のもとにやってくる。おおきな鴉。ヴァーマナを食べてしまいそうなくらい。
アアフリーンは目を開け、その黒々とした鴉を見つめた。
わたしも歌いたい。
鴉が言う。アアフリーンはほほえむ。
歌えばいいわ。だれも止めたりしない。
でも、歌うだなんて。宮廷の遊び女たちのようだわ。わたしは生まれもちがうし、結婚している。
歌えばいいのよ。ここではだれも止められない。
じゃあ。
鴉はけっけっと咳払いをしたあと、謳い始めた。
退屈な人生
どこへも行けず、驚くようなことは起こらない
わたしはめしい わたしは聾
見るべきものを見られず
聴くべきことを聴けず
遠くのことをちかくに感じることもできない
でもこの宮殿はわたしのもの
夫のものなんかじゃない
調えた家具も 籠も 寝具も 衣服も
わたしが用意したもの
召使いも 守衛も
わたしが手足のように使うもの
だからそれを守って 生きて死ぬ
あの男が
なんだって言うの?
穢れた者
南へ行け
南へ
あのむすめも
わたしの住処に来ないで
ラタン・バーイーは謳う
ラージプートの栄華
ここには恐れをなして
ムスリムたちは去っていく
アアフリーンはしゃん、と足の鈴を鳴らした。
その物語りでいいの? ラタン。
だれも止めないって言ったじゃないの!
鴉は鳴く。地団駄を踏む。
あなたはめしいでも聾でもない。見えているし聞こえている。物語りの外を。ジャイプルの王ジャイ・スィング二世を夢みた。
夢の話よ!
……ズィーシャン・カトリーの物語りを聴いてくれた。
眠っているときにだわ!
いまそう言うことができるのなら、起きたときに世界を変えられる!
いいえ! わたしはわたしの世界を守る!
なら、わたしはあなたに語り続ける。ハキマの物語り。ズィーシャンの物語り。ラジヴの、ロッキの、ジャイ・スィングの、カトリーの女たちの……
やめてちょうだい! わたしは弾劾されているの?
自分の思念を鍛造せずに生きられるとでも? ここに生きているのに? この世界に?
そんなことを言ったって……わたしはもう、あの建築家のようにぼろぼろ毀れて……
建築家。そうよ、建築家。かれのようにあなたは傷ついているの? なにもかも手に入れて退屈しているのに?
なにもかも手に入れてなんかないわ。わたしだって歌いたかった。踊りたかった。藍色のヴェールを着て。鴉にでも、コーキラ鳥にでもなりたかった。遠くへ行きたかった。でも、いまの家も、召使いも、家族も失いたくない。
アアフリーンのまなざしがさらに鋭くなった。ラングは彼女の肩をつかんだ。
アアフリーン。もう……。
アアフリーンは寝台の上に立ち上がった。ちいさなヴァーマナが、ふくらんでおおきくおおきくなって、鴉の巨大さを圧倒した。すくなくともラングにはそう思えた。
傲慢よ! あなたは財も地位も持っているのに、物語りの外が見えているのに、ちいさな自分の卵殻に閉じこもっている。あなたはズィーシャンに声をかけることもできた。ハキマの代わりに自分のむすめを差し出すこともできた。いま起きて、彼に向かって許しを乞うこともできる。でもそうしない!
沙漠の熱風が吹きすさぶ。鴉は断末魔のような鳴き声を上げる。砂粒がヴァーマナを打ち据え、ラングはとっさにアアフリーンをかばおうとする。彼女は伴侶の手を振り払い、砂塵の向こうに起きあがったラタンを見つめた。
ラタンは目を閉じたまま、階段井戸の吹き抜けを、天からの操り人形のように浮かび上がる。全身はギーで練った赤い顔料を塗られ、てらてらと光り、長い長い三つ編みが蛇のようにうねる。
鴉が叫ぶ。
バガワティ・マーイー! お母さま!
鴉は飛び立ち、赤い女の肩に止まる。
アアフリーン・ヴァーマナ。愚かな女を責めるのはおやめなさい。慈悲のこころを持つことが、行のうちでしょう。
赤い顔の唇が動く。
あなたはバガワティではない!
女神を偽りと申すのか!
赤い女が吠える。
そうやって自分を物語りにあてはめて、ほんとうの望みから目を逸らすの? ラタン。ラタン・バーイー。ただひとりのあなた。
赤い女は呻いた。咳をし、赤い珠を吐く。それが呼び水になって、彼女は噎せるように咳をし続ける。赤い珠が無数に口からこぼれ落ちる。肺や胸、腹に激痛があるかのように、彼女は身をよじって咳をし続ける。井戸の水がそれを受け止めるが、突然、糸が切れたように女は井戸に落ちる。ばしゃん、と水音が立って、ラングは彼女を助けようと水に入る。赤い女はなおも咳込み、小人が立って彼女を捕まえられるほど浅い井戸から引き上げられる。鴉は赤い女の周りをぴょんぴょん跳ね、赤い珠をついばんでは吐き出し、ついばんでは吐き、咳込み続ける女の傍らに行く。女は鴉の首をつかむと、それをへし折る。鈍い音が立つ。赤い珠は女の口いっぱいに満ちてからあふれ、井戸を満たし、ラングやアアフリーンの足下を浸し、ラングは姉を探す。
アアフリーン!
彼女は答えない。
アアフリーン!
水音のような音を立てて珠があふれ出し、珠の洪水でラングは溺れそうになる。その音のせいで、伴侶の動静を聞き分けられない。ラングは姉の名前を叫び続ける。
ヴァーマナ、こっちだ!
突然、上方から男の声が上がる。
ラングはそちらへ、珠の海を泳いでいく。力づよい腕に手首をつかんで引き上げられ、ラングは階段井戸の上、地上に吐き出される。
……伴侶が、下に。
荒く息をつき、ラングはあえぐように言う。
諦めろ。あの女も死んだ。
男は冷然と言う。
……あなたは?
おれはズィーシャン・カトリー。
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