女神殺し 4
少年たちは眠っている。
ラジヴというジャイナ教徒の子ども。おなかがくちて、蜂蜜をかけたロティという幸福な夢を見ている。
建築家の息子であるラージプート。かれは、みるみるうちに髭が伸び、背が伸び、肉がついて、壮年の男になる。かれも、寝台が燃えている夢を見てやすらいで眠っている。
女は眠っている。
ロッキという女行者。農村から出奔し、女神に縋り、歩き、祈る啓示を受けて、沙漠を遊行する。
ラタン・バーイーという貴人。荒野できらびやかなものを見るのに慣れ、その枠の外を求めた女。
王は目覚めている。
サワーイー・ジャイ・スィング二世。
螺鈿細工のおおきな望遠鏡を覗き、月の面を見ている。
こんなにちかくに見ることができるのに、余は月に行くことは一生叶わぬ。
そばに座り、アアフリーンはほほえむ。
あなたの時代に叶わずとも、そのさきの未来では行くようになります。
未来……。
あなたのことが謳われている時代に。ムガル帝国で狡猾に立ち回り、ヒンドゥーの王国を守った英邁な科学者王として。
そうか。歌は残るのか。
声に出され、
そうか。物語りの外に出て行くには、途方もない年月を経る必要があるのだな。
ふふ、とラングは笑った。
輪廻を繰り返す前に、できることがありますよ。
そうか?
ええ。
それはなんだ。
星ぼしの数ほどある可能性に圧倒されても、想像し続けることです。物語りの外を。
……そうか。宇宙の、外を……。
まずは、自分の外を。
王は望遠鏡に戻り、星を眺め続けた。
という夢を見た。
黒い鴉が、眠っているラタンの喉から夢幻としてほとばしり出る。
これは、あなたの悔い。
アアフリーンが低くつぶやく。自分の手のなかの、赤や黒、透明や白濁の珠をもてあそびながら。
むすめの身代わりに、あるカトリーの男のむすめをカーブルに差し出させた。
ラングがやわらかな声で言う。
かれの名前はズィーシャン。男やもめで、むすめはそのひとりだけ。
ラタンはむくりと上半身だけ起きあがる。目を閉じたまま、彼女は言う。
かれがそう申し出たのよ。
彼女は首を横に振る。
そうね、かれはあなたを愛していたから。肉欲ではなく、献身としての愛ね。
アアフリーンがほほえむ。
ラングはため息をつく。
むすめとしてはそんなことどうでもよかっただろう。父おやの愛を理解できる歳でもなかったから、泣き叫んでいやがった。
聞きたくないわ。
ラタンは両手で耳をふさぐ。
目を閉じて、耳をふさいでも、あなたはめしいでもなければ聾でもない。見る必要があり、聞く必要がある。このいびつな世の、ひとつの官能になる必要がある。海の底に棲む魚が、その意味を考える機関がなくともすぐれた視覚を持つように。人間のような人格をもたないきのこが、バロティ全土に菌糸を張り、五千年生きて地中のすべての沈黙の証人になるように。
わたしになんの関係があるというの。海の底の魚や地の底のきのこが? 地べたで穢れた仕事をするカトリーが?
アアフリーンは獅子のような声で哄笑した。
かれの染めた布のうつくしさを知っているあなたから、そんなことばを聞いておかしくてならないわ。どうして。べつべつに、でもともに生きていると考えられないの? べつの物語りを生きながら、地平線のかなたにある物語りに反響しないなどと言えるの? 布はどこへでも行くけれど、わたしたちはどこへも行けない、そんなことはないわ。わたしたちのたましいは、布と一緒に飛んでいく。遠い見知らぬひとの肌に触れて、しとねをともにし、そのひとの歌を聞くの。黒い鴉でも、コーキラ鳥でも、透けた月光鳥でも、なんでもいいわ。なぜって? 物語りは、どこへでも行って、だれとでも寝て、いつでも口ずさまれるからよ。あなたの物語りも、ほかのくにの、ほかの時代のだれかによって語られるの。わたしたちが、べつのくにの、べつの時代のひとびとの物語りを語るようにね。そうして、自分の物語りの外の想像によって、わたしたちは高く飛ぶのよ。
幼女の名前はハキマ。
ラングはゆっくりと言う。
ハキマは泣き叫んでいやがったが、父おやが彼女をヒンドゥーと偽り、幼女たちの群れに入れた。ヴェールはなにも知らないカトリーの女たちに仕立てられた。ハキマは撃たれなかった。ハキマは逃げおおせ、自分と同じ一行にいたべつの幼女のヴェールを拾った。黒い鴉のような布だ。ハキマはムガル将校に拾われ、高貴な姫君として扱われた。ムガル将校は、彼女を皇帝の後宮に納れた。ハキマは父のことを憎んでいたが、後宮のきらびやかな暮らしに目がくらんで、やがて父のことなど忘れてしまった。これから先はべつの物語りだ。
ズィーシャンはしばらくひとりで暮らしていたが、むすめを失い、その上あなたが自分に目もくれないので、次第にあなたを憎むようになった。孤独は耐え難く、周囲に勧められるままにカトリーの女を娶った。愚かな女で、聡明なあなたを知っているズィーシャンは苛立っては嫁を打った。こころは満たされず、しかし身を立てなければ周囲に侮辱される。かれを慰めたのは染色だった。ひたすらにからだをうごかし、労働に身を押しひしがれながら、極限のなかで、ほとんど反射のようなかたちでうつくしいものをつくる。かれの木版更紗はよく売れた。かれはできあがったものを見てほほえんだ。かれ自身の憎しみが、藍色を美事に発色させている。それをほめそやすひとびとのなんと愚かしいことか。あなたもうつくしいと言って一枚買った。かれ自身の想いをあなたが受け取ることはなかったが、かれのつくったものをあなたは身に当て、あるいは閨に敷いたのだ。
かれの布は世界じゅうを旅した。各国の東インド会社はそれを持ってシャムや南洋に行き、香料を得た。中国人はそれによって茶を大量に売り渡した。その茶を、ヨーロッパのひとびとは無尽蔵に消費した。茶と一緒に求められた砂糖は、布を代価にアフリカから売り渡された奴隷たちが、自らを犠牲にしてアメリカ大陸で生産した。
愚かしい。美に、肌触りのよさに、染色の堅牢さに、いったいなんの価値がある? 人間は一瞬だけ生き、あとはずっと死んでいるのに。その一瞬に生じた、つまらない憎しみによって作られた布だ。なんの喜びもなく生きていかなければならない染色工が、ただ憎しみだけを力にして染めた布だ。
ズィーシャンは世界を藍色に染めていった。たくさんの神々をあがめ、牛を尊ぶ、偶像崇拝のヒンドゥーたちの、赤や黄の世界。ジャーティによって分断され、いま英国の私企業によってずたずたに切り裂かれようとしている。男神の青黒い肌だけがそのまま、みな藍色に染まる。繁栄を極めたのち、ぐずぐずに腐り、酒にもなれずに崩れ落ちるムガル帝国。その白大理石、赤砂岩の世界を、藍色に染める。建築家が建てた城塞も、ラジヴが祈った刺繍入りの白モスリンのようなジャイナ寺院も。繰り返し繰り返し、藍龜に漬けて、空気に触れれば青に発色する。生涯をかけて幾千回も染める。青緑から青、群青、そして、不純物のない、澄んだ黒色へ変わっていく。
白髪になったズィーシャンは笑い転げる。愚かしい、愚かしい。汚穢のジャーティの、もっともきたならしい藍染めが、もっとも澄んだものをつくるのだ。その黒色を、ヒンドゥーの女たちが、穢れた青とはちがういろだと喜んで買う。いつのまにか殖えていた子や孫たちが、老染色工にヘンナを渡し、髪を染めたらいいと言う。赤黒く染まるそのいろが、ズィーシャンにはもっともきたならしく思えるのだった。
鴉がやってくる。沙漠の岩陰で休んでいたロッキのもとに。彼女は、托鉢で得たベルの木の実を鴉にやる。鴉は喜んで食べる。
わたしは悔いていないぞ。
彼女は鴉に言う。かぼちゃの身のような、柑橘の味のする果実をついばみながら、鴉は首をかしげる。
明日をも知れぬいのちなのに? 襤褸を着て、施しものしか食べず。
はは、とロッキは笑う。
行者とはそういうもの。
でも、あなたは女神を憎んでいるでしょう?
いいや? おまえは憎んでいるのか?
……息子を取り戻したいと思ったことはない?
子どもを思うこころは、いまもある。でも、世のことわりを曲げて取り戻すことは求めない。求めるのは、超越した存在だけ。わたしのなかにいるあの方だけ。
ぐわっぐわっと鴉は鳴いた。
あなたのように考えられればよいのに!
鴉はひっくり返って腹を見せ、脚をじたばたさせた。
ロッキはけらけら笑った。
考えればいいのさ。そのほうが、終わりのない喜びのなかで生きられる。
考えられないわ。考えられない。地位、名誉、下仕えの者たちのお追従、蜜に浸した揚げ菓子、そういうつまらないものなしには生きられないから。
……そうか。それは病いだな。
行者はそう言うでしょうよ。でも、それはただの俗人の生き甲斐よ。
……救いようがない。
救われたいと思ったことはあるわ。いつもあがいて、でも、方策がわからなくて呆然としているうちに、忘れてしまうの。……戻るわ。自分のからだに。
戻るのか。腹が破裂してしまわないか。
ロッキはおろおろした。
グェ、と鴉は鳴いた。
いちどはおさまっていたのだから、戻っても大丈夫でしょうよ。
そういう法則が破られるのがバロティだ。
あなたはマーヤーにいたのに、こちらにどうして来たの?
いいや? ここはマーヤーさ。あなたが物語りの翼で、層を飛び越えてきてしまったんだ。
なんですって。戻れるかしら……。
大丈夫、大丈夫、ふたつの世界はすごくちかしいから。ほとんど重なっているようなもの。
そう……。
たまねぎのように、まぼろしを剥けばちがう世界になる。行け、行け。からだとたましいがばらばらになってしまう前に。
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