蜜蜂よ、夜々を遊行せよ 4
建築家は、叩きのめし、叩きのめしていくことでつよくなる、はがねのような人生を生きた。あらあらしい建築現場でも、落成の華々しい宴でも、かれは鍛えられた。落盤、倒壊、旱魃、砂嵐。仕えた王の戦死。堅牢なたましいを持つために、かれは生き続けた。
叔父はそのたましいに魅せられ、かれにはまりこんでいった。子どものように勧善懲悪の物語りを求め、その実、ふかく傷ついている。叩きのめされるたびに、たましいの一部は硬くなるが、一部は砕かれ毀れ落ちる。そのいたましいさま、その死につながるほど多量の血をほとばしらせるさま、この乾ききった土地をうるおすいのちと死の雫を見つめ続ける。
おぞましいことだ。許されないことだ。
そう思いながら、わたしは叔父を師として、伴侶として、かれに添い続ける。物語りの、いのちの雫を珠にして、それをかすめとって燃やす行。自分たちの一族が罪ぶかい行を実践しているように思えて、わたしは悄然とする。叔父は真理を集めているのだと言う。そう、それは真理だ。おぞましく、罪ぶかく、いたましい生を、不滅の炎とする。常人であれば目を背け、まぼろしのなかに生きていくが、わたしたちはそれを見つめ続ける。目を輝かせて、じっと見つめる。それによって快楽を得ているのではない。ただ真理であることに畏敬の念を覚える。それは神々と聖者の領域。かれらと自分を合一させる行為。それは法悦ではあるが、痛みと、まやかしの捨象をも一にする。真理によって照らされる、自分の暗がり、世界の暗がり、人間存在の持つ暗がりを見つめることになる。愚かしい。いじましい。無責任。踏みつぶされ、よわい者を踏みつぶしている。自分のなかにある、やわらかくいとけないものをずたずたに切り刻んでいる。
助けてくれ。
たましいはそう叫んでいる。その悲鳴が、世界には横溢している。
真理が明らかにされても、人間は救われない。けれど、覚悟をすることはできる。
わたしはこの矛盾した世界で生きていくのだと。このひととともに。
なにが起き、なにを感じても、そういうふうにこの世はできているのだから。ひとりでに湧きいでる激情の水壷を頭に載せて。
炎の行のとき、わたしは叔父の手を握った。かれはわたしを抱き寄せ、繰り返し肩を撫でた。
おまえはやがて、鳥とともに飛ぶだろう。かれは、おまえを籠の外に連れ出し、ヒマーラヤの高峰や、ガンガーの奔流、神像のみっしりと刻まれた石窟寺院、黒い水の高波を見せるだろう。それまで、この愚かな叔父とともにいてくれ。
ひどいことを言うのね。あなたはわたしを捨てるの?
おまえがわたしを捨てるだろう。
捨てないわ。
わたしという重荷を負うのと、鳥とともに飛ぶのと、どちらを選ぶ?
……。
アアフリーン。創造主を讃えよ……。
神さまのようなことを……。
蜜蜂だって高く飛べるさ。神さまじゃなくたって……。物語りで高く飛ぶ。わたしが地面を這っていても、おまえは。
わたしは蛇につかまり、ラング・ハイ・リのもとへ向かった。穴を通っているあいだ、息もできず、目も開けられず、溺れているようなもので、わたしは苦しくて決断を後悔した。
樹のなかで燃える、ヴァーマナの炎にたどりついたとき、わたしはラングの顔を初めて見た。切れ上がったまなじり、通った鼻筋、うすい唇。わたしに水を差し出す手はたしかで、かれがめしいであることをすこし疑った。わたしは水壷の水をごくごくと飲み、せき込み、かれの母、わたしの義母に背をさすられた。
ひさしぶりね。
わたしが旅立つときに若々しかった義母は、年月に比して重く歳を取り、うすくはかなくなってしまっていた。父の後妻である彼女は、わたしと数歳しか変わらないはずだ。
わたしは彼女の足の甲に触れて礼を取った。
叔父さまはお元気。
ええ。……いいえ。阿片に酔うことがおおくて。
まあ。
女王が死にかけています。かれのいのちも、もう……。
それは……ちょうどよかったわ。
わたしは思わず息を吐いて笑った。
やはりおまえはわたしを捨てるのかと言われました。はい、と答えた。
義母は声を立てて笑った。
そうよ! 行の行えないヴァーマナはヴァーマナでなくなる。いのちも絶える。そんな宿六は捨てて、ここへ来たのは正しいわ。あなたにはよりよい場所で生きる力がある。
彼女はわたしの二の腕のあたりをさすり、ほほえみかけた。
あなたたちの結婚式を見れたらよかったのに。
とんだ年増の花嫁だわ。
人間は歳を取るだけうつくしくなるのよ! わたしは伴侶がいなくなってしまって、しぼんでしまったけれど。
……父さんはしあわせものだわ。
いいえ、大悪人よ。妻を置いて逝くなんて。
義母は自分の白い喪服をさすり、首を横に振った。その勢いのまま、地面にうずくまる。わたしは彼女を抱きしめた。ちいさなひと。ちいさなヴァーマナが、さらにちいさくなって。
……始めてちょうだい。もっとお話ししたいけれど、もうここにはいられないの。
母さん。
ラングが義母を呼ぶ。
さようなら、わたしのラング・ハイ・リ。
かれはそっとわたしたちに近づき、義母の足の甲に自分の額を当てた。
阿片が焚かれ、義母はそれを繰り返しふかく吸い込む。彼女はよろよろと立ち上がり、最後の謳いと舞いを行う。花嫁となって、花婿の訪れを恋い焦がれる物語り。
お母さま、いまこそは歓喜の色のとき
わたしの名はアアフリーン
わたしこそが、わたしをつくった創造主を讃えるべき人格を持つ者
彼女が待ち焦がれるのは父ではない。神々と聖者。愛するひとの、その源にいる、この世を超越した存在。解脱の境地にいる者たち。
かすれていたはずの喉は至福の独唱に豊かに鳴りひびく。指先は、腕は、裸足は、スカートの裾は、真理の軌跡をなぞって、縮こまっていたつぼみから花ひらく。歌声と踊りは、白い喪服を着た、暗がりの痩せこけた小人を、腰つきうるわしい仙女にする。白髪交じりの髪にマリーゴールドの花が留められているのが見え、骨の浮いた手首に金銀宝石の腕輪がきらめくのが見える。スカートとヴェールは重さを感じさせない荘重な紋様織り。足首の銀の鈴が高らかに揺らされる。
お母さま、
わたしあの方がいらっしゃるのをこころ待ちにしているの
ああなんとうつくしい夜でしょう
胸のうちでコーキラ鳥がはばたく
わたしも飛んでいけるでしょう
あの星ぼしのかなたへ
真理!
ラングが彼女の歌に応え、ひとさし指をかかげてさけぶ。
かくあれかし!
わたしも手を上げ、彼女を讃える。
鈴が鳴る。義母は倒れる。ラングは飛び起き、迷いなく彼女のもとに這い寄る。腰から短剣を引き抜く。
母さん。母さん。
かれは涙を流している。彼女の、なんの装飾品も身につけていない首を撫で回す。動脈のありかを触察しているのだ。剣の柄で彼女の頸椎を衝き、気絶させると、かれは母おやをまたいで馬乗りになり、体重と全身の力を込めて刃を振り下ろした。血が噴き出す。彼女のちいさなからだがぶるぶるとおおきくふるえる。血を浴び、涙を流しながら、かれは母を押さえつけ続ける。息もできずに見つめるうちに、ゆっくりとふるえがおさまって、義母のからだから、力と、たましいが抜け落ちる。凍り付いていたわたしのからだが、その瞬間に脈動する。わたしはかれのもとに歩みより、刃こぼれしたかれの短剣を、凝り固まったかれの手から取り、火のそばに置かれた両手の庖丁を差し出す。わたしたちはふたりで、義母だったものの首を切り落とす。血が、樹のなかのちいさな空間の地面を満たし、むせそうになるほどだ。ふたりで首を持ち上げ、それを火に入れると、悪臭が立ち上る。ラングは鉦を打ち、女王を呼び出す。わたしはタンプーラを鳴らし、阿の音で謳う。宵闇のラーガ。うつくしい夜の訪れを待ち望む華やかな。血に染まった義母の胴体、喉のあったあたりから、黒い女王蜂が這い出て、あたりを窺っている。触覚をうごかし、ちいさく翅をふるわせて。わたしは、ラングの鉦に合わせ、華やいだ旋律を謳うあとに、拍子の通りにしめやかに戻ることを繰り返す。星の数ほどある音で、女王を誘惑する。いつのまにか血でどす黒くなった手を、ラーガの襞を示し、懇願するように、突き放すように、誘いかけるように、ひらめかせる。やがて「彼女」は飛び立ち、ゆっくりと旋回してから、阿のかたちに開いたわたしの口のなかに飛び込む。喉の痛みを感じ、わたしは歌をやめ、うめく。ラングの鉦がおおきく鳴る。
謳わなければならない。
わたしは思い、宵闇のラーガを続ける。よろめくような声は、ラングの鉦と歌が補い、わたしは謳い続ける。痛みが喉を下りていく。強烈な異物感。傷がつくはずがないのに、広がったことのない場所を押し広げられ、わたしは指先をふるわせる。ある一点ののち、急にからだが楽になる。その瞬間、わたしは解き放たれたようにおおきく声を上げ、
ジャエ! ジャエ!
と両手を上げて喜ぶ。ラングも口角を上げ、高く舌と喉を鳴らして快哉を叫ぶ。
血みどろの狭い空間で、終わりなく謳いがつづく。わたしは、叔父がするばかりで自分では謳ったことのない卑猥な歌を謳い、叔父の声を聴くばかりで自分では謳ったことのない技巧的で難解なラーガを謳い、樹のなかで聴く村々の粗野で激情に満ちた民謡を謳った。ラングは鉦を鳴らし、太鼓を叩き、エクタールを掻き鳴らして、わたしを賞賛し、囃し、昂揚させ、掻き立てた。互いのためだけにある音楽。陶酔と喜悦がわたしのこころに満ち、自分のたましいが、地表を超えた場所にいることを感じた。
わたしこそが、アアフリーン。
あなたはラング・ハイ・リ。
しかり!
しかり!
終わりのない対話がつづいたあと、声が尽き、音がやんだとき、わたしたちはひしと抱き合っていた。
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