蜜蜂よ、夜々を遊行せよ 3

 わたしは叔父と遊行していた。母の弟にあたるひとで、機転がきき、おおきな声で笑い、輝く目でわたしを見つめ、しかし、よわいひとだった。かれはうっとりするような甘い声で謳い、神々や、英雄や、王や、聖者たちを讃えた。そうしていれば自分もつよくなれるのだと思っていたのかもしれない。

 かれはわたしの師で、伴侶で、でも守ってやらねばならない子どものような存在だった。初潮が来る前からかれのもとにやられたわたしには、その役割は身をひしぐほど重かった。

 わたしたちは特定の主を持たない。特定の信仰にも属さず、どのジャーティでもない。けれどかれはあるラージプートに通うことに依存していた。そのひとは建築家だった。王妃に求められて階段井戸を作り、王に求められて城塞を建て、ジャイナ教徒に頼まれて塔を築いた。ラージャスターンを忙しく動き回り、なにもない土地に石の建築を建てさせるかれに、わたしたちはついていった。戦争が頻発し、城は蹂躙され、寺院は打ち倒される時代だ。そのひとには仕事がいくらでもあった。建築が破砕されると、ひとびとのこころはすさむ。そこに、砂嵐のような苛烈さで、建築家は切り込んでいった。石切場で怒鳴り、鑿音のなかで指示を出し、傾きやずれに神経をとがらせる。そうしてできあがったものは、秩序と美に満ちている。その一瞬のために支払われる、人命や富の莫大さ。叔父は建築家に身を投げ出し、望む物語りを語ってきかせ、白昼の苛立ちや怒りや焦燥を慰めた。建築家は子どものように昏々と眠った。かれが望んだのは、勧善懲悪の物語りだった。王を欺いた床屋が、聡明な仙女に填められて死ぬ話。床屋は、王の言いつけのために遠くへ行く必要があったが、仙女がこの寝台に乗れば空を飛べるというので、寝台に乗る。仙女は村の女たちを集め、不要になった寝台だから薪をくべて燃やすように言う。床屋は火に驚くが、仙女は煙が寝台を宙に持ち上げるのだと言って床屋を言いくるめる。床屋は彼女を手に入れたいと思っていたので、仙女の言う通りにしてしまう。

 ぞっとする話だ。

 それを、叔父は生き生きと語る。床屋の女好きないやらしい仕草、仙女のうるわしい腰つき、王の威厳とよわったうめき。あたかもその場で見てきたかのように。建築家は、最初のうちは寝転がって頬杖をつきながら叔父を見ているが、話の山場になる前にかくんと寝入ってしまう。かれの夢のなかで、寝台はごうごうと燃える。かれ自身の寝ている寝台も燃えているかもしれないのに、かれの眠りは至極穏やかだ。かれが黒檀の珠を吐く。物語りは、仙女の説明に満足し、王が彼女を娶ることで終わる。悪への徹底的な懲罰、秩序の回復。力あるものはうつくしい女を手に入れる。さだめられた物語り。快哉と快楽のための物語り。

 黒檀の珠を燃やすと、煙が語り始める。建築家の父は、同じく建築家だったが、子どもに幾何学と物理学、工学を教え、星を読み、音楽に身を任せることを教えた。その壮麗な世界と裏腹に、父は子の寝台に潜り込んでかれを犯していた。痛みと恐怖、信頼への裏切りに少年が泣き、もうやめてほしいと言っても、父は少年に髭が生えるまで行為をやめなかった。婚礼を上げ、幼い花嫁が少年のもとに来て、かれは父が行っていたことの意味を知った。ふるえる処女に触れても、かれはなんの快楽も得られず、よわいものをいじめているような気分で、このちいさな穴に自分の性器が入ることも信じられなかった。事前に、母に幼いうちは行為を遂げてはいけないと教えられていたものの、その禁忌は父にはなんの意味もなかったのだと思った。かといって、物理学の法則上、蟻を踏みつぶせば蟻は死ぬし、血管の集まった穴に無理矢理入れれば幼女は出血死するだろうと考えた。法則を教えたのは父で、法則を破ったのは父なのだった。

 なぜおれは生きているんだろう?

 少年は考えた。からだは快楽を教えられていて、父は周到に法則のほつれを衝いたので、少年のからだは無事なのだった。かわりにたましいがよわっていた。父に付いて建築現場に行き、腰布ひとつで働くたくましい男たちを見ると、かれらにずたずたに切り裂かれる自分を想像した。

 秩序は回復されなければならない。よわいおれはつよくなるか、死んだほうがよい。

 少年はそう結論づけた。後者のほうが楽そうだったので、天幕で雑魚寝していた夜、手近な人足を揺り起こした。

 ……なんです。

 ちょっと来い。

 少年は人足を連れて天幕を出て、月の光のもとでかれを岩の陰に座らせた。かれはまだ髭の生え始めたような若い男で、少年とほとんど同じ年齢に見えたが、少年の何倍もつよそうなからだつきだった。

 おれを殺してくれないか。

 はあ? ラージプートを殺したら死罪ですが。

 あ、そうだった。

 少年はこの世の法則を思い出した。

 眠いので戻ってもよいですか。

 だめだ。

 疲れているんです。あなたの父上のせいで。

 それはわかるが、おれは死ぬ必要がある。

 ぜんぜんそうは見えませんが。

 そうか?

 そうですよ。あなたは仕事を始めたばかりで、まだやることがたくさんあるでしょうし、家に帰ったら跡継ぎをつくったりする必要があるでしょう。

 そういうのがいやになったんだ。

 じゃあ行者になって世を捨てればよろしいのでは。

 少年はうっとことばに詰まった。

 他人の施しを受けて生きるのはいやだ。

 そうですか。ラージプートですからね。そうでしょうね。

 だから死ぬ必要がある。

 自分で勝手に死ねばよいでしょう。

 自殺は大罪だ。転生したら虫けらになる。

 来世のことを気にするのに、死にたいのですか。

 ……。

 ラージプートの誇りをお持ちなのに、おれのようなジャーティの人間に殺されたいのですか。

 ……。

 眠いので寝てもよいですか。

 だめだ。

 大声を出してみなを起こしましょうか。

 やめろ、おまえに犯されそうになったとみなに言うぞ。

 人足はおおきく息を吐いた。

 卑怯ですね。

 狡猾なのだ。

 それ、誉めことばではないですよ。

 愚かであるより賢いほうがよいだろう。

 あなたは愚かですよ。死にたがるなんて。

 ……。

 どうして死にたいのか知りませんし興味もありませんが、とりあえずきょうは寝て、明日また考えればよいのではないですか。

 言っているはしに、人足はその場で寝てしまった。少年は虚を突かれ、月の光に照らされる寝顔をまじまじと見た。 

 ラージプートとして、ほかのジャーティの者から気遣われるのに慣れていたから、かれの、気遣いのないようでいて、ただ突き放しているというだけのふるまいは驚きがあった。

 そうか、べつにおれのことを気にしない人間もいるのか。

 そう気づき、自分が死んでも気にしない人間がいるのなら、生きていても気にしないだろうな、と思った。だいたい服従するか、踏みつぶすしか選択肢がないのがおかしいのだ。生まれのしくみが、だれかとだれかを上下に設定するから見失っていたが、本来これだけ人間がたくさんいるのだから、だれがどうしていても気にしないということが、たましいの平穏のために必要だ。

 しかし、それは秩序の維持と矛盾する。

 さきほどまで自分の矛盾をつけつけと指摘されたが、人足の考え方にも矛盾があるのだった。

 しかし、かれは自分よりよほど穏やかに眠っている。

 疲労のせいだ。疲れれば、矛盾などどうでもよくなる。考えることもやめるだろう。でも、それにこころをすりつぶされないためには、余裕のあるときにきちんと考えているのだろう。低いジャーティの人間でも、生きることについて、この世間について、考えているのだ。

 この世は、自分が思っているよりも深いのだ。

 そう思っているうちに、少年も寝てしまった。

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