蜜蜂よ、夜々を遊行せよ 2
ヴァーマナは。ただ生きていてはいけないの。蜜ならわたしが集められる。
ただ生きることに執着するということは、行とは矛盾しているわ。
母さんは――父さんがいなくても生きていける。
ふふ、と母は笑った。
……無理よ。
父さんもそう望んだ。だからわたしではなく、母さんに蜜蜂を。
あのひとの思いは、不滅の炎にくらべて、とてもちいさい。
父さんをあんなに愛していたのに。
いまも愛しているわ!
母は叫んだ。わなわなとからだをふるわせて。わたしは彼女の腕に触れていたからわかる。声もふるえていた。蜜蜂の飛翔のように小刻みに。
ああ、そうか。これがわたしたち。
蜜蜂として生きる小人たち。
わたしは涙を流しながら、母を抱きしめた。
わたしはあなたに生きていてほしい。
父が生きていたころ、幸福に肥えていた彼女のからだは、うすく痩せてしまっていた。
わたしはラング・ハイ・リ。わたしの声は、ラング・ハイ・リのもの。あなたの声も、アアフリーンのもの。
あなたはわたしの夫ではない。
母は叫ぶ。
そうだよ! わたしはあなたの息子。だから、父も母も喪うのはいやだ。
ヴァーマナとして生きなさい、ラング・ハイ・リ。不滅の炎に仕えなさい。
物語りに仕えるということは、あなたへの愛に仕えるということだ。
わたしに仕えるのなら、わたしの望む通りになさい。
あなたはほんとうに望んでいる? 息子に自分を殺させるというむごいことを。
どう語ればいいと言うの。夫の代わりに、夫の名前であなたが生きていることを、わたしが憎んでいると言えばいい?
――母さん。
母はふるえながら燃えていた。物語りの火で、くるおしい愛の業火で。
無理よ。もう、無理なの。こわれてしまった。
……なにが?
素焼きの水壷。愛で満たされていた。頭に載せて運んでいた。いのちが尽きるまで、載せたまま遊行できると思っていたのに。わたしのヴェールはずぶ濡れ。口をふさいで、もう謳えない。息ができない。あなたを愛しているわ、ラング・ハイ・リ。あなたが生まれたときの喜びは、あなたが初めて歩いたときのうれしさは、あなたが上手に謳えたときの誇らしさは、一瞬の爆発。わたしを生かしていたけれど、水壷がこわれてしまったいまでは、もう過ぎ去ってしまった。愛があったという音楽は消えないけれど、あなたに触れられる母おやはもう消えてしまう。あなたの姉を呼びましょう。アアフリーン、アアフリーン、アアフリーン、アアフリーン。創造主を讃えよ。
わたしはキワタの樹を這い出て、その実が落ちて爆発し、その繊維の短い綿がふわふわした地面を撫でさすった。湿ったほうへ、湿ったほうへ。村の男たちの尿の鼻の曲がるようなにおい。たおやかな雨のにおい。沼でくすぶる鰐のため息。地の底へ下りていく、ほそいほそい蛇の道。触れなければ湿り気を感じ取れない。乾く前の牛糞、下痢、吐瀉物。触れ、嗅ぎながらわたしは地面を這っていく。下へ、下へ。やがてにおいは、サトウナツメヤシにくくりつけられた、樹液を貯める土壷のにおいになる。樹皮を傷つけて集められた樹液は、夜のうちに発酵し、酒になりつつある。甘く、芳しく、しかし苦しくなるにおい。陶酔の、恍惚のにおい。
土壷をしたたり落ちた雫が、根本で発酵している。そこには、ふわふわとした菌糸がつくる黴、きのこの園ができている。排泄物の、死骸の、分泌物の、体液の、腐り醸されているにおい。人間は酒になるのを拒んで、火葬を選び、石の棺に入り、墓廟を構築した。清浄な河に流されて転生するため、からだを保持して天国に行くため。たましいは酔わない酒を飲み、処女膜を喪わない処女と性交するのに? 愚かしい。浄なるものとはなんだ? どんな聖者も糞をひりだし、どんな行者も暑ければ汗を流し、どんな祭司も母おやの股から血まみれで生まれただろうに。
わたしは語りかけた。
母がわたしの姉を呼んでいる。呼び出してもらいたい。
ふわふわした菌糸が、するするとうごいて変容し、上半身だけの人間のかたちになる。わたしはかれを触察し、それがつめたくなめらかな肌触りの、やわらかくわかい男のすがたであることをたしかめる。かたちは人間を模しているが、かれはきのこである。
ラング・ハイ・リ。おまえの母は死ぬのか。
その声は玲瓏で、いままでかれがむしばんで栄養にしてきた肉体の酒精である。
わたしが殺すことになるだろう。
また火にくべてしまうのか。
灰をくれてやる。
炭素!
パーンスクーラはよくわからないことを言う。
ラング、よし、呼び出してやろう。
パーンスクーラはきのこ語をぶつぶつとつぶやき、それは鉱物が打ち鳴らされる音のようで、あまりこころよいものではない。父と一緒に以前かれと会ったとき、父が言うには、こうしてきのこ語を発しているとき、かれはぴかぴか光るのだという。そうして、菌糸がはりめぐらされたバロティ全域の地中にことばを送っているのだ。それは暗号の無数の発信であり、読みとれるのはバロティに棲む無数のパーンスクーラである。かれらはおなじことばを話す、おなじこころを持つきのこで、しかしバロティ全域でべつべつのものを感じ取ってそれぞれ暮らしている。かれらは――lかれは、ヴァーマナの通信使だ。よくしゃべる通信使で、黄昏や夜にしか出歩かないわたしたちに、バロティのさまざまなことを教えてくれる。かれ自身のかたよった見方で。かれが一日に見聞きするものは、常人の数万倍であり、人間には処理できない情報を持っている。そもそもそれだけの量をこころに入れて、正気でいられるということが不可思議だ。しかし、かれはきのこなので、正気でいるらしい。そもそもきのこにこころはあるのだろうか? たましいは? 知性は?
おまえの姉につながった。蛇の道を通って向かうそうだ。
きのこ語をやめると、パーンスクーラは言った。
彼女は、女王をまだ。
持っていない。おまえの母の蜜蜂を引き継ぐそうだ。
そうか……。助かった……。
母を殺すのはどういう気持ちだ?
つらい気持ちだよ。なぜ訊く?
おまえたちのことは、まだよくわからないから。好きあっているのに傷つけあったり、身を滅ぼすとわかっているのに悪行に手を染めたりする。
五千年生きていてまだわからないの。
わからない。きのこだからな。
あなたのように頭がよくないからだよ。
きのこだから、わたしに頭はないぞ。
わたしは眉間に皺を寄せてうなった。
うるさいよ! あなたにわかるように話してやっているのに。わたしたちはあなたに比べ知性で劣っているということだ。
そういう問題ではないと思うが……。
人間でいえば何万人もの官能と思考を持っているのに、よく言うよ!
でも、おまえたちのような、感情や、聖なるものや、穢れや、愚かしい火葬や、墓廟や、意図的な暴力は持っていない。
それこそ知性に填められた足枷だ。理屈にあわないことをしたがるのが人間だ。愚か、愚か、愚か。
落ち着け、ラング。
うるさいよ!
わたしはてのひらでかれの肩――のようなもの――のあたりをぺしぺしと打った。やわらかくなめらかなので、そういう間抜けな音しか出ない。
情けなく、叩いているうちにわたしは泣いた。
おお、なぜ目から水滴を出す?
なにを言ってるのかわからないよ! ……悲しい。
ことばにして、わたしはこころが地に足を下ろしたように感じた。悲しみ。つらさ。愛。という足枷。どこへも行けず、わたしは泣く。そばには自分を絶対に理解しないきのこがいて、戻れば父を喪ってのたうちまわって苦しむ母がいる。でも、もうすぐそこへ、姉が駆けつける。わたしがいちども会ったことのない姉。彼女はわたしの伴侶になる。さだめられたこと。女王は血縁者のうち、年長の者に受け継がれる。わたしが腹で飼っているのは働き蜂で、女王はふたり一組のうちひとりに宿る。語り、謳い、わたしたちは蜜を集め、不滅の炎に仕えて生きる。
さだめられたこと。
彼女に会いたいと思っていた。両親ではないヴァーマナに会ったことはあるが、かれらは血縁ではなかった。わたしがもうすこし歳を取ったら、わたしより年下の血縁者とめあわせるつもりだと以前父は言っていたが。父と母のように、彼女と甘い声を交わせるのだろうか。
さだめられているというだけで?
愚かしい。ヴァーマナという生まれの籠に入って、一生そこから出られないから、そういう根も葉もない思いにとらわれるのだ。いままでべつべつに暮らしていた人間同士が、急にここちよい関係を作ることなどできるはずがない。たとえ種族がおなじでも、たとえ血縁であっても、物語りという、想像上の建築を共有していても……――
パーンスクーラはわたしの反応にかまわず、延々となにか話し続けていたが、かれの果てのない物語りに付き合っている余裕はもうなかった。わたしはまた、きたならしい湿った道を通って母のもとに戻った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます