女神殺し 3

 アアフリーンがカトリーの女たちの物語りをすると、ラタンが吐き出した赤珊瑚の珠。それを火にくべると、ラージプートの王、ジャイ・スィング二世の物語りが煙となって語られる。アアフリーンとラングは、それをおののきながら聴く。

 枠の外へ、主役が出て行こうとする物語りね。

 アアフリーンはつぶやく。

 キワタの樹のなか、ヴァーマナ以外は入れない空間で、ふたりは火を焚いて行をしている。ヴァーマナ以外からは、かれらは寝物語を行とするひとびとであると思われているが、その実、ヴァーマナの行とは、自分たちの語りを聴いた人間がみる夢を珠として受け取り、それを聖なる火にくべ、煙の語るものを聴くことで完結する。

 夢は、ヴァーマナならみな知っているが、無軌道で、脈略もなく、生々しい欲動を反映していることもあれば、恐怖や苦しみを引きずり出していることもあるし、滑稽であったり、ささやかな望みを示すこともある。人間の、断片的で、しかし鮮やかな一面を顕すものだ。その断片を集め、糸を通して数珠環にし、首や肩にかけているのがヴァーマナだった。火の行は毎日行われるのではなく、ある程度珠が集まってから行われる。

 具体的な人名や地名が出てくるのには慣れていた。ジャイ・スィングという王。ジャイプルという都市。そうしたものは、このバロティにはない。ヴァーマナが語りをした夜の夢にだけ出てくる、ヴァーマナによって、マーヤーと呼ばれる世界の事績である。

 だが、そこで王が感じ、考えたことは、ふたりにとっては驚くべきことで、アアフリーンとラングは身を寄せ合った。

 語りを、疑う?

 ラングはささやく。

 神々によって決められた物語りを。

 アアフリーンは焚き火に照らされ、瞳を橙いろに輝かせる。

 おそろしいことだけれど、でも、それができたら……――なぜ、わたしたちがこんなことをして生きているのか、わかるかもしれないわ。

 神々に決められているからだよ。

 ラングがやわらかく言い、伴侶の手の甲を撫でる。

 アアフリーンは首を横に振った。白髪まじりの巻き毛が、それに沿って揺れる。

 神々が決めているのなら――……アッラーの言うことと、ヴィシュヌのありさまがちがうのはなぜ? ブッダやマハーヴィーラが、神々を否定するのはなぜ? このバロティには、神と聖者がたくさんいて、たがいに矛盾することを言って、ひとびとを惑わせている。物語りは混乱し、屍鬼や羅刹ラークシャサ夜叉ヤクシャが放縦の限りを尽くし、死霊が生者を操っている。不思議なことが起こらないのは、マーヤーのなかでだけだわ。

 幼女が薔薇の花びらに変わるのに? カトリーの女たちの涙が、月の雫として啜られるのに?

 わからないの?

 アアフリーンはラングを見つめる。

 珠の物語りは、真理よ。この世はそのようにできていると顕すための。マンゴーが熟れれば地に落ちるのも、白檀をからだに塗れば病が治るのも真理だけれど、ちいさな女を傷つければ、鮮やかで儚いものに変わってしまうのも、それが砂粒になって、男たちを打ちのめすのも、真理よ。

 真理……――

 ラングは矮人の女の手を握る。めあきのひとびとが見つめ合うように、かれは伴侶の手を撫で、彼女の想いを読みとろうとする。愛欲ではなく、知への欲求によって、かれはアアフリーンに触れる。かれは彼女の手がわずかに震えているのを感じ取る。獅子のような勇壮な声が、擦り切れてちぎれ落ちるのを聞き分ける。

 まっすぐに、彼女の瞳のちかくに指を置く。彼女の頬の産毛に触れるか触れないかの距離で、指先が濡れるのを触覚する。

 アアフリーン。泣かないで。

 あなたは疑わないの?

 ……語りを?

 神々を。聖者を。この世を。

 ……たしかなのは、マーヤーだけだ。バロティでは、不可思議なことばかり起きる。

 バロティは、マーヤーのひとたちがみた夢なのではないかしら? わたしは、――ずっと前からそうなんじゃないかと思っている。あるいは、マーヤーのひとたちが語った物語りの登場人物が、わたしたちなのよ。

 は、とラングは息を漏らして力なく笑った。

 小人の盲人の語り部行者を? 物語りの登場人物にする? いったいどんなおもしろさがあるっていうんだ?

 真理にとって必要なら、おもしろいかそうじゃないかは問題にならないわ。あなたはおもしろいから語るの? おもしろいと思われるために語るの?

 ……聴くひとのなぐさめになるものを、と思って語るけれど、結局、わたしたちが語るものは、なぐさめや、快楽や、美のためではない。真理のためのものだ。

 そうよ。

 アアフリーンははっきりと言う。彼女はラングを素早く抱きしめる。

 わたしたちがこうして暮らしているのは、そのための行。

 答えはもう出ているじゃないか。この世をただあるがままにとらえてはだめ?

 それでは、わたしたちのちいさなたましいのことだけしか考えないということよ。わたしは――……この数珠玉のつらなりの、外のことが知りたい。あの王のように。物語りの外のことが――……

 語りえないものは、存在しないのと同じだ。

 でも、語りは、膨らんで、反響して、変わっていくわ。語りの外のことを、含み込んで成長していく。わたしたちはそういう行をしている。

 ……真理のために。

 真理のために、この枠物語りの枠を、疑わなければならない。ラタン・バーイーの物語りがもっと必要よ。彼女のもとに通わなければ。

 ……退屈そうな女人だ。

 あんな夢をみるのに? 真理を必要としているのよ。わたしたちと同じように。



 ラタンは春に向けて、あたらしい胸当てをつくることにする。侍女たちに櫃のなかから引っ張り出させ、色とりどりの綿布が絹の絨毯の上に広げられる。赤や黄色の布を直線に裁断して、刺繍を施す。使っていない布を侍女たちに下げ渡すことにする。彼女たちは浮き立って、与えられたものをからだに当てて見せ合う。ラタンは櫃を見渡して、虫食いやほころびがないか見て回る。ヴェール。胸当て。スカート。自分の一生分にしては傲った数がある。だが、母や祖母から受け継いだもの、夫の母に与えられたものもあり、それらは手放すわけにはいかない。ほころびたものは裁断し、手巾や刺し子の敷物、赤子の襁褓になる。櫃の底に、鮮やかな青の木版染めを見つける。

 まあ!

 歳かさの侍女が見咎める。

 どうしてこんな穢れた布が。

 ラタンはかまわず引き上げる。藍染めは、甕のなかでぷくぷくと発酵させる過程を含むため、穢れた染物とされる。

 綺麗よ。

 窓に向けて布を広げる。長い一枚布で、円や星、幾何学模様を青のみで染めた、質素で単純な柄だ。

 侍女は眉を寄せる。

 触れてしまったのなら、沐浴をしないと。

 かれはまたここに来るかしら? ズィーシャンは。

 ズィーシャン・カトリーからこれを買ったのですか?

 そうよ。あなたに隠れてね。

 ラタンはほほえむ。

 侍女は頬を赤らめ、ぷいと横を向いた。

 青い布がお好みとは存じませんでした。

 普段は着ないわ。でも取っておいて、たまに眺めるくらいはよいではないの。

 そう言って手の甲で撫で下ろす。晒しの工程を丁寧に行った、やわらかな肌触りの布だ。穢れや浄めには関係のない、ムスリムが自分たちのためにつくったものだった。

 カシミールへ売りに出すものだったそうよ。ヒマーラヤのそばには、ムスリムの羊飼が住んでいて、夏のあいだ、肌着にするのだとか。

 ……カシミールへ。

 清冽な湧き水、針葉樹、咲き乱れる薔薇。熱射に打ちのめされたこのあたりの牧民とはちがうのでしょうね。布はどこへでも行って、……その土地のひとびとの肌に触れるけれど、……わたしたちはどこへも行けないわ……――

 木版刷りの青い星は、にじみや濃淡をもって染められている。傾いた日の光にかざせば、鮮やかにも暗がりにもなる。茫漠とした砂塵のなかの暮らしとも、きらきらしくも気疲れのする豪奢なラージプートの暮らしにもない、朴訥とした、しかし清潔な布。

 穢れ。浄め。

 ラタンは布をつくづくと眺めながら、この世を覆う法について考える。ブラフマンの領域だが、すべてのジャーティの者、ジャーティに属さない者も縛る法。砂いろに濁った水でも、聖なる川や井戸の水なら、それで沐浴をした者を浄とする。その矛盾も、いびつさも、外から見なければわからない。ムスリムのカトリーにしか見えていないものもある。かれらは商人でもあり、ヒマーラヤの懐に住む民も、海の外、バロティの富を強欲に求める異国人たちも、顧客である。顧客の要望に沿った布をつくる。バロティの者には奇異に見えるものでも。ブッダの像を手描きした更紗。不可思議な植物を描いたもの。縁起がよいものを描き込むとき、カトリーたちはそれがなんなのかは理解していない。生命の樹、歪んだ雫のようなかたちの紋様は、カシミールの精緻な織物を模倣した更紗。しかし、ミロバランを媒染剤とする堅牢な赤、なんども染め重ねた藍と茜のつくり出す漆黒、やわらかな肌ざわり、まとったときのはっとするような意匠は――かれらの誇りであるにちがいない。ヒンドゥーに蔑まれながら、うつくしいものをつくる。それは海の向こうから猛烈に求められる。

 わたしが見ているものは、ほんのすこしに過ぎないのね。

 ラタンはぽつりと言う。富と知恵、家族と地位を持っていても、彼女が見ているのは、この世のうちのすこしでしかない。

 この前の、アアフリーン・ヴァーマナの語り……それを聴いて、気づいたわ。わたしには見えていないものがたくさんあるって。

 しゃん、しゃん。

 遠くから、鈴の音がする。

 ラタンは侍女と顔を見合わせ、にっこりと笑う。

 今夜もお話してくれるみたいね。

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